隣人エイリアン
下町の惣菜屋。お昼前や、夕暮れ時、常連客で賑わうこの店の人気惣菜は、ハルちゃんの作る竜田揚げだ。ところどころ、白く衣を被った竜田揚げは、トレーに山盛りになっていると、どこか雪山を思わせる。
ハルちゃんは、惣菜屋の看板娘。と言っても40代後半のいい歳をしたおばさんだ。ここに勤めて、もう10年以上になる。朝の8時から、昼の2時までの勤務。けれど、それが、いつも守られる訳ではない。
「ハルちゃん、ごめん! 相澤さん、子供が熱出して来れなくなっちゃったって!」
「あら、大変!」
「悪いんだけど、このまま続けて勤務してもらっていい?」
「もう、しょうがないなぁ……」
汗をかきかき、店長に懇願されて、ハルちゃんは困り顔で笑いながら了承した。そんなことがままあるのだけど、ハルちゃんはいつも困ったように笑いながら、頷いてくれる。
50代の店長はそんなハルちゃんを憎からず思っていて、ハルちゃんと再婚できたらと思っていた。特に美人でもブスでもなく、太っても痩せてもいない。アゴに色っぽいホクロがあるが、お店ではマスクをつける決まりになっているので、そのことに気づいている人は案外少なかった。
「いつも、ありがとうね」
店長はにっこり笑って、ハルちゃんにお礼を告げた。交際を申し込むのはいつがいいだろう。ハルちゃんは、シフト変更の時のように困りながらも、それでも笑顔で頷いてくれるだろうか。
幸せな妄想をしながら、店長は今日もハルちゃんと惣菜屋の店先に立つ。
* * * *
放課後になると、タイキはいつも図書室で本を読んでいた。
その理由は、もちろん、本を読むのが好きだし、いろんな本を読みたいからなのだけど、最近は付き合い始めた彼女に会うという目的も増えた。
図書委員のユウカは、放課後になるといつも見かけるタイキに一目惚れした。
利用者も司書もいない奇跡の瞬間に、思い切ってタイキに告白した。まさかOKがもらえるとは思っていなかったユウカは、嬉しくて泣いてしまった。タイキは顔を真っ赤にして泣くユウカにそっとハンカチを渡した。少しはにかんで、少しぶっきらぼうに。
「泣くなよ」
顔を背けるようにしながら、ハンカチを差し出し、言うタイキの姿が愛おしくて、ユウカは涙が引っ込んで、次は笑顔になっていた。
「何、笑ってんの?」
「タイキくんが可愛くて……」
受け取ったハンカチで頬を拭って、噛み締めるようにユウカは呟いていた。
「可愛いって、嬉しくねー……」
首の後ろを掴んで、不貞腐れるように呟いたタイキに、ユウカは今度はオロオロとしだす。
「あ、ごめん。ごめんね! 気に障った?」
しどろもどろになるユウカの姿に、タイキはフッと笑みを漏らす。
「お前、表情変わりすぎ! 忙しい奴だなぁ」
キラキラと輝く笑顔で、タイキが言う。ユウカは眩しい笑顔に目を瞬かせながら、この瞬間を一生、目に焼き付けようと、心のシャッターを切りまくった。
今日もタイキは図書室に来て、何か分厚い本を読んでいる。真剣な眼差しで本を見つめるタイキを、ユウカは少し離れたカウンターで眺めていた。
こっち向いて、こっち向いて……ユウカは心の中で唱えながら、タイキにテレパシーを送る。それが効いたのかわからないが、タイキがふと顔を上げて、カウンターのユウカの方を見た。
目が合って、フッと笑ったタイキを見て、ユウカは幸せに身をくねらせた。
* * * *
OLのサナエはいつもイライラしていた。また、後輩が寿退社する。
今まで何人の後輩を見送ってきただろう。その度に、次は
「ほらほら、今日は祝いの席だから、磯崎さんも飲んで飲んで」
後輩の送別会。サナエは参加したくなかったけれど、送別会の主役である後輩にどうしても!と言われて、ヤケクソで参加した。
せめて飲み食いで元を取ろう。何なら得をしてやろうと思っていたが、嫌な上司に絡まれながら飲む酒のまずいことまずいこと。これなら、家で1人で晩酌している方がマシだ。
そろそろ帰ろうかと、タイミングを測るため、あたりを見回していたサナエに後輩が声をかけてきた。
「先輩! きてくれて嬉しいです! なかなか挨拶に来れなくてすみません!」
酔っているのか、普段よりもハイテンションで後輩が言う。
「ううん、大丈夫だよ。本当におめでとう」
精一杯の笑顔でそれだけ伝えて、サナエは席を辞そうと思っていた。
「それじゃ、あたし」
「先輩! 今日は先輩に紹介したい人がいて!」
サナエの声を掻き消すように、後輩が言った。少し声が裏返っている。
「ねぇ、
後輩が男性を手招きで呼んだ。赤石と呼ばれた男は、整えた髪を恥ずかしげにかきあげながら、サナエの前に来た。
この男をサナエは知っている。営業部のエースと言われる、女子社員に人気の独身男性だ。
「どうも……」
赤石は少し困った様子で挨拶をした。
「はぁ、どうも……」
つられて、サナエも困ったように挨拶を返した。
「赤石さん、先輩のこと気になってたんですって!」
大きな声でそんなことを言うもんだから、こちらを気にしていた女性社員(既婚独身問わず)たちが「えぇーーー!」と揃って声を上げた。
サナエは居心地悪く、その場をどう切り抜けるべきか、素早く頭の中で考えたが、全く答えが出なかった。
とりあえず、サナエは苦笑いをすることで精一杯だった。
「ごめんね、磯崎さん。変に目立っちゃって……」
「あー……大丈夫です」
後輩が酔っ払って適当なことでも言ったんだろう。サナエはそう結論付けて、一安心した。
「いやー、なんか逆にすいませんね! 私と赤石さんなんてありえないですよね〜」
サナエはわざとみんなに聞こえるように大きな声で明るく話した。笑い話にでもなればいい。そう思って。間違っても、ドロドロとした女の醜い争いに巻き込まれないように。
「あ、いや、その……すみません。磯崎さんが気になってるって言うのは、本当のことです」
突然、顔を真っ赤にして明石はボソリと言った。営業職とは思えないほど、拙い喋り方だった。
「え?! あの、え……!?」
サナエも思わず顔を赤くした。お酒のせいもあってか、頬がジンジンするほど熱い。
「その、今度、2人でカフェにでも行きませんか?」
顔を真っ赤にして、辿々しく誘う赤石。彼は営業部のエースと言われる、女子社員に人気の独身男性。もちろん、人気なだけあって、顔はイケメン。背も高い。理想的な細マッチョ。相当、女なれしているだろうと予想していた赤石の、意外な一面に、サナエも赤面せずにはいられなかった。
「あ……その、はい……」
一瞬、店内の空気が止まった。次には見守っていた外野から、絶叫やら歓声やら拍手やら、なんだかとんでもない量の言葉が飛び出していた。
兎にも角にも、ドロドロした女の争いに一歩を踏み入れてしまったと、返事をしてから、サナエは後悔してした。
それでも、目の前ではにかんだ笑顔を見せる赤石を見ていると、それも悪くはないのかもと思ったりもした。
* * * *
もとより、星が見えない都会の街の夜。なのに、その日は月さえも見えなくなっていた。
空に浮かぶ、丸いもの。それが空を塞いでいた。うっすらと発光する、どら焼き型のそれは、街の上空にふわふわと浮いている。
それに気づいた多くの人間が、スマホを向け録画を開始したり、写真を撮ったり、大騒ぎをしていた。
「宇宙船だ! とうとう地球に攻めてきたんだ!」
空き缶を集めていたホームレスが大声で騒ぎ出し、一目散に逃げ出す。街全体を覆うどら焼きは、今さらどこに行こうと逃げ場などないように思える。
慌てふためくホームレスの姿に数人が笑い声を上げた時、空飛ぶどら焼きから音が鳴った。それが果たして音と呼べるものなのか、はっきりと判断できる人間はいなかった。けれども、どら焼きは、確かに何かを発信していた。
音が鳴ってしばらく、街は静まり返っていた。
* * * *
「何だろう? 今の音」
下町の惣菜屋で店じまいをしていた店長は、驚いて店の外に出た。続いて出てきた、ハルちゃんに、店長は笑いながら声をかけた。
「びっくりしたね、ハルちゃん、大丈夫?」
しかし、ハルちゃんから返事は返ってこなかった。ハルちゃんを見る店長の笑顔が、不安に引き攣る。
「ハルちゃん?」
無表情で遠い空を眺めるハルちゃんは、まるでその瞬間から生き物であることをやめたように見えた。
「ね、ねぇ、ハルちゃん!」
コキリ、と骨のなる音がした。ハルちゃんが頭を傾けて鳴らした首の音だった。
コキ、コキ、コキリ。
到底、人間とは思えぬ角度で首を曲げるハルちゃんに店長は腰を抜かし、その場に立っていられなくなった。
光を失ったハルちゃんの目が無慈悲に店長を見つめた。
* * * *
少し遅くなった帰り道。2人で帰るようになって、ユウカの帰宅時間は遅くなった。
そのことを父親にちくちくと責められたが、ユウカは今日もゆっくりと歩き、タイキといられる時間を少しでも長くしたいと思っていた。
今日こそは、ファーストキスをしたい。そう思って、タイキの制服の袖を掴んだ時、その音が鳴った。
ユウカは思わず、しゃがみ込んでいた。
「な、なに!? 今の……」
ユウカの疑問とともに、住宅地のそこでは、家の中にいた人たちが次々に窓を開け、外の様子を確認している。ちょっとした、騒ぎになっていた。
「ねぇ、タイキくん……」
不安に駆られ、手を伸ばしたユウカだったが、しかして、その手は空を掴んだ。
見ると、タイキはユウカの手から体を避けていた。
「え? なんで……?」
ショックを誤魔化すために、固まった笑顔が出てくるユウカ。それでも、タイキは黙ったまま、何も答えず、遠い空を見上げていた。
「タ、タイキくん……!」
思い切り手を伸ばして、タイキの服の袖を両手で掴むユウカ。今度は避けられずにタイキの手を掴むことができた。が、掴んで、ユウカの全身に鳥肌がたった。
タイキの手はまるで無機物のように冷え切っていた。
秋とは言え、まだ上着も必要のない季節だ。こんなに手が冷えていることなんてあるだろうか。
疑問に顔を上げると、すぐ目の前に、表情のなくなったタイキの顔があった。
なんの音も立てずに、人間とは思えない体勢でユウカの顔を覗き見るタイキ。
果たして、本当に見ているのだろうかーー?
光のなくなったタイキの暗い瞳を見て、ユウカはそんな疑問を抱いた。
と、タイキの口が、パカリと音がしそうなほどに不自然に開いた。
「ジかん……じかンだ……」
確かにタイキの声だったけれど、喋っているのはタイキとは思えないほど、不気味だった。声は出ている。なのに、顎も舌も全く動かさずに音だけ発している。
ユウカは恐怖に、その場にへたり込んだ。
* * * *
「次は先輩の番ですよ!」
後輩が笑顔で、サナエの背を叩いた時、サナエの頭がカクンと不自然に項垂れた。
「ちょっと、先輩! 私そんなに強く叩いてないですよー!」
後輩は楽しそうにケラケラ笑っている。赤石も意外にもユーモアがあるサナエの姿に嬉しそうな顔をした。が、その顔はすぐに引き攣った。
サナエが顔を上げた。その顔に表情はなく、目の光も消えていた。何もない中空を無言で見つめるサナエの姿に、周囲の人間は戸惑った。
店の外からも何か騒がしい声が聞こえる。
「先輩……」
後輩が肩を掴もうと伸ばした手をサナエは滑るような動きで避けた。まるで足にローラーでもついているかのように、上下の運動なく避けたサナエに赤石は「ひっ」と声を漏らした。
サナエの口がパカリと開く。
「じかン、ダ……シンリャく、のじカン」
コキ、コキと首を鳴らすサナエ。その背後、座敷のスペースで酔いつぶれて倒れていたはずの上司が、胸から首、頭と順に持ち上げて不気味に起き上がる。
「じ、ジカん」
サナエと全く同じように、口をぱかりと開いて、顎も舌も全く動かさず話す上司。
店は静まり返っていたが、外の騒ぎはさっきよりも大きくなっていた。
「い、磯崎さん……」
最後の希望に縋るように、赤石はそっとサナエに手を伸ばしたが、その手がサナエに触れることはなかった。
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