第3話

 二ヶ月後。

 結果的に、俺は会社を退職した。精神的ショックが大きすぎて、とてもじゃないけれどいつも通り業務をこなすことなんてできない。

 家族や友人、そして仲のいい元同僚からの連絡は全部無視した。いや、反応することができなかったと言ったほうが正しいか。

 暮らしぶりは最悪だった。食欲が全然ないので、食事はほぼ一日一回。冷凍食品やカップ麺を一週間分くらい買いだめして、なくなったらまた買いに行く──それの繰り返しだ。

 当然、掃除をしたりゴミ捨てに行く気力も湧かないから、どんどん部屋も汚れていく。

 このままでは駄目だと思い、自身を鼓舞するが、どうにもこうにも体が動いてくれない。毎日寝てばかりいるし、もはや廃人と化している。

 そんなある日。ふと、頭に自分の小説のことがよぎった。


 ──そういえば……あのアカウント、放置したままだったな。


 俺は上体を起こすと、テーブルに手を伸ばし、やっとのことでスマホを取った。

 今まで何をするにも億劫で仕方がなかったが、ふと自分の小説の更新を楽しみに待ってくれている読者のことが気になったのだ。

 みんな、もう自分のことなんか忘れているかもしれない──そう思いつつも、自分のアカウントを確認してみた。


「あれ……DMが来てる。誰からだろう?」


 そう呟きながら、DMを見てみる。


『最近、全然ツイートしていないみたいですけど……大丈夫ですか?』


 ウィステリアからのDMだった。

 やっぱり、この人は優しい。そう実感するのと同時に、罪悪感に襲われた。


『すみません、ちょっとリアルがバタバタしていまして……暫く、新作を投稿できないかもしれません。お待たせしてしまって申し訳ないです。せっかく、楽しみに待っていてくださっているのに』


 慌ててそう返信する。まさか、心配してもらえているなんて思わなかった。


『あ! ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんです。リアルが忙しかったんですね。あの、どうか無理だけはしないでくださいね。一番大事なのは、ジョンさんの体なんですから』


 すぐに、ウィステリアから返信が来た。

 間を置かずに、ウィステリアは『それと……』と付け加えて次のメッセージを送ってくる。


『もし何か悩んでいるなら、相談に乗りますよ。私でよければ、ですが……』


 そう言われ、俺は戸惑う。

 風夏との間に起こったことは、きっと今後も誰にも相談できないだろう。

 それもそのはず。幼馴染だけあって、共通の友人や知人が多いからだ。

 みんな、俺たちのことを仲睦まじいカップルだと思っている。

 プロポーズを応援してくれていた友人たちに、どう説明すればいいのか。彼らをがっかりさせたくない。


 ──家族には、もっと言えないよな……。


 大きく嘆息する。

 案外、ウィステリアのような顔の見えないネットの知り合いに相談したほうが気が楽になるのかもしれないけど……。


『いえ、大丈夫です。落ち着いたら、また小説を投稿しますから。楽しみに待っていてくださいね』


 一瞬、ウィステリアに胸中を打ち明けようかとも考えた。……が、やっぱりやめておく。

 こんな重い話をされたら、きっと向こうも反応に困るだろうし。


『わかりました。待っていますね。あの……私、何があってもジョンさんのファンで居続けますから』

『え……?』

『たとえリアルに居場所がなくなったとしても、ジョンさんにはジョンさんの帰りを待っているフォロワーがいます。もちろん、私もその一人です』

『ウィステリアさん……』

『私、ジョンさんが書かれるお話が大好きです。ジョンさんの一番のファンであると、胸を張って言えます。だから……あまり、自分を卑下しないでくださいね』

『はい……。ありがとう、ウィステリアさん』


 ウィステリアとのやり取りを終えた俺は、ここに来て初めて泣いた。

 風夏にボロクソに貶された時、まるで「お前には存在価値がない」と人格を全否定されたように感じた。

 でも、その一方でウィステリアのように自分を認めてくれる人もいるのだ。


 ──風夏に言われたことなんか、気にする必要なかったんだ。


 あんなクソ女、こっちから願い下げだ。

 むしろ、若いうちに縁を切ることができて良かったじゃないか。

 悩んでいた時間がもったいない。その時間を執筆のために当てていたら、一体どれだけの作品を生み出せたのだろう?


 ──ん? ちょっと待てよ……この経験をもとに、小説を書けばいいんじゃないか?


 ふと、そんな考えが脳裏をよぎる。

 どうして、今まで思いつかなかったんだろう?

 少し脚色を加えれば、作品として十分に成り立つはずだ。

 ……よし、そうと決まったら早速執筆に取り掛からなければ。



 それからの俺は、何かに取り憑かれたように小説を書き殴った。寝る間も惜しんで書き続けた。

 その間も、ウィステリアは俺を励まし続けてくれた。「新作、楽しみにしています」と──その言葉だけで、いくらでも頑張れる気がした。

 リアルのことは、一切知らない。でも、何故かいつもそばにいて応援してくれているような……そんな錯覚に陥る時さえあった。


 一ヶ月後。小説を書き上げた俺は、それを小説投稿サイトに掲載した。

 少しだけ、反応が怖くもあった。ファンタジー小説を好んで書いていた俺にとって、今作は初の現代ものだ。

 今まで、自分の小説を読んでくれていた読者たちに受け入れてもらえるか不安だったのだ。


『凄く良かったですよ、ジョンさん!』


 一番初めに感想をくれたのは、ウィステリアだった。

 今作は、自分を裏切った元恋人への復讐に燃える男の半生を描いたダークな物語だ。どちらかと言えば、明るいファンタジー作品を好むウィステリアの趣味とは正反対だと思ったのだが……。


 ──何はともあれ、ウィステリアから好評ならそれで満足だ。


 そう思っていた。だが、事態は思わぬ方向へ動き出した。

 なんと、書き上げた小説がサイト内で人気になったのだ。

 そんな中、読者からこんな質問が来た。


『主人公の心理描写がリアルで、物凄く感情移入してしまいました。もしかして、実体験をもとに書いた話だったりするのでしょうか?』


 質問に対して、俺はこう返した。


『いえ、フィクションです。こんなひどい女、リアルにいるわけないじゃないですかw』


 すると、その読者は「確かに……それもそうですねw」と納得していた。

 ……いや、実在するんだけどな。とはいえ、わざわざ言う必要もないので表向きはフィクションということにしておいた。


 その後、小説の人気は鰻登りに上がり──信じられないことに、書籍化が決まった。

 それからは、トントン拍子に話が進んだ。出版した本はヒットし、レビューも好評。映画化の話も出ている。



「いやぁ……まさか、実体験を小説化したらこんなに売れるとはなぁ」


 感慨深い気持ちで、自分が書いた本を手に取る。

 すると、不意にインターホンが鳴った。


 ──こんな夜中に誰だろう? もしかしたら、隣人からの苦情か? 騒音には気をつけていたつもりなのだが……。


 怪訝に思いつつも、俺はドアを開けた。


「風夏……?」


 何故、こいつがここに……? 引越し先は教えていないはずなのに。共通の友人から無理やり聞き出したのだろうか?

 それ以前に、ここオートロックだぞ。もしかして、マンションの住人と一緒に入ってきたのか……?

 でも──


 ──ちょうどいい機会だから、嫌味の一つでも言ってやるか。


「光くん、久しぶり」

「これはこれは、浅倉先生じゃないですか。今頃、何の用ですか? 俺みたいなの家をわざわざ訪ねてくるなんて」


 今、住んでいるのは高級マンションだが、嫌味を込めてそう言ってやる。

 すると、風夏は媚びるような態度で腕に抱きついてきた。


「実はね、私……あれから反省したの」

「はい……?」

「私、完全に調子に乗ってた。ちょっとチヤホヤされたからって、いい気になってた。ほら、人間誰でも過ちはあるでしょ? 私の場合、それがちょっと行き過ぎていただけっていうか……。とにかく、本当にごめんなさいっ!」

「……」


 一体、何を言っているんだ? こいつは。


「……つまり、何が言いたいんでしょうか?」

「もう一度やり直そう、光くん! 光くんも、本当は私のことがずっと忘れられなかったんでしょ? 私、わかってるんだから」


 うるうると目を潤ませながら、風夏は詰め寄ってくる。


「はぁ?」


 唖然とした。厚顔無恥とはまさにこのことだ。

 稼ぎ出した途端、手のひらを返すように擦り寄ってくるんだな。散々、上から目線でこき下ろしてきたくせに、虫が良すぎるだろ。


「新しい彼氏はどうしたんだよ?」

「もちろん、別れたよ? 光くんが一番大事だって気づいたから……」


 昔は可愛くて仕方がなかったこの上目遣いも、今はただ不快でしかない。


「……帰れ」

「え?」

「散々、コケにしたくせに今更何なんだよ!? 帰れよ! 二度と俺の前に現れるな!!」


 ゴミを見るような目つきでそう吐き捨てると、ドアを勢いよく閉じて彼女を締め出した。


「な、何よ!? せっかく、下手に出て謝ってやったっていうのに! ていうか、私をモデルにしたお陰で本が売れたんでしょ!? それなら、印税よこしなさいよ!!」


 何やら意味不明な主張をしながら、風夏はドアをドンドン叩いてくる。


「私、もうアラサーだよ!? あの人とも別れちゃったし、これからどうすればいいのよ!!」


 はぁ? 知るかよ、そんなこと。


「ねえ、お願い! やり直そうよ! 光くんがいなくなって、初めて存在の大きさに気づいたの! 光くん以上に優しくて気配り上手で愛情を注いでくれる人なんて、今後もう二度と現れないよっ……!」


 ……通報しよう。そう思い、スマホを手に取った瞬間。ついに諦めたのか、音はぴたりと止んだ。

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