第23話 骸骨の記憶

「えっ、なに!?」


 登校すると、理科室の周りに人だかりができていた。


 玄関から教室までは、理科室の前を通らないといけないのだが、まったく先へと進めない。


「マイ~!」


 向こうでリンが手を振っている。


 なんとかリンのもとまでたどり着いた。


「あの骸骨がいこつが戻ってきたんだよ」


「ええっ!」


「でも、ちょっとまずいよね……」


 もう噂ははじまっている。


「この骸骨、本当の人間なんですって」


「実は闇のルートで買い取った骸骨なんだってよ」


 たしか、これが本当の骸骨だってことは、他の生徒には内緒だったはずだ。でも、どこから漏れたのか、あるいは噂が噂をよんだのか、皆口々に言っている。


「おい古野ふるの、お前の家料理屋で、法要の時に精進しょうじん料理も作ってるんだろ。お供物くもつ作ってやれよ」


 そんなことを言っている声も聞こえる。


 見ると、古野くんがマイの隣にいた。


「古野くん、お供物って?」


渡島おしまか。いや、俺の家、料理屋なんだけど、そんなこと言われてもな……」


 古野くんは、頭をポリポリ搔いた。


「おいみんな、こんなところにたまってないで、教室に戻れ! ちゃんと教室にいなければ、遅刻扱いにするからな!」


 どこかで先生が大声で叫んだ。そろそろ、始業の時間だ。


 生徒たちは、ガヤガヤと言いながら、自分の教室へと解散していった。


「あっ、渡島。返しそびれていたけど」


 古野くんが、ハンカチを差し出した。


「あっ、そういえば忘れてた」


 前に、理科室の片付けを手伝ってもらった時に、マイが貸したものだ。


「古野くん、やっぱり、たたりとかってあるのかな?」


 マイは、ふと、法要の精進料理を作っているという料理屋の古野くんに聞けば、何か分かるのではないかと思って聞いてしまった。


「うーん、どうかな」


 古野くんは少し頭をひねって考えている。


「俺にはよく分からないな」


「そっか……」


 マイは、特にヒントのようなことは分からなそうで、少し残念だった。


「でも……」


「でも?」


「おやじに、葬儀場そうぎじょうに届け物をしたら、塩を体に振りかけて帰ってくるように言われたことがあるな。死者と因縁いんねんができてしまうのを防ぐために」


「えーと、因縁って、怖い人が目を付ける時とかの?」


「うん。縁ができるってこと。この因縁には深いものもあって、遠い昔の先祖の行いが、子孫に影響することもあるんだ」


「遠い、昔の先祖の行い」


 マイは、なんとなく、ヒントを得たような気持になった。


 野口茂のぐちしげるの日記、怪しい夢。そして、この骸骨。なにかが巡り巡っているような気がしてならない。


「マイ、ナツキ、そろそろ教室に行かないと、本当に遅刻になっちゃうよ」


 いつの間にか近くにきた、リンにうながされた。


「あっ、いけない。リンちゃん、古野くん、行こう」


 三人は教室に急いだ。



 一時間目の授業の予定だが、全校生徒が体育館に集められた。


 校長先生から緊急の話があるそうだ。


「みんなおはよう。すでに見た人もいると思うけれど……」


 校長先生の話は、理科室の骸骨の話だった。


 校長先生は、あの骸骨が、本当の人の骨でできたものだったこと。そして、それが一体誰のものなのか分からないことを話した。


 今日、突然骸骨の模型が戻ったのは、警察の捜査が終わったからだという。事件性は特に確認されず、事件でない以上、この先は学校側の判断になるということだ。


 校長先生は、みんなを驚かせることになってしまって申し訳ないと、頭を下げた。


 マイは、校長先生が謝ることはないと思った。


(なんだか、みんな、あの骸骨に振り回されているなぁ。あの骸骨、何かを伝えたいのかなぁ)


 学校で使われている骸骨が本物の人間の骨だということは、滅多めったにないようだが、かといって全くないというわけでもないそうだ。


 でも、やはり怖い人もいるだろうから、あの骸骨の利用方法については、先生たちで検討することになったという。その間、当分理科室への生徒の入室は禁止ということになった。



 二時間目からは通常の授業だった。ちょうど理科の授業で、理科室で実験の予定だったが、教室で教科書を読むだけの退屈な授業になってしまった。


 その後も、どうもゆううつな気分だった。


 理科室の骸骨のことが気になる。でも、スズがどうなったのかは、もっと気になる。


 放課後、スズは部室にくるだろうか。センナと仲直りはできるだろうか。そして、スズとスズのお父さんの関係はどうなったのか……。



 放課後になった。


 マイとリンは、一緒に部室に向かった。


「スズ先輩、きてるといいけどね」


「そうだね。お父さんとお話、できたかな?」


 部室には、センナがすでにきていたが、スズの姿はなかった。


 センナも、スズがくることを期待していたのか、マイとリンが部室のドアを開けたとたんこちらを見て、二人だと分かると、一瞬残念そうな顔をしたのを、マイは見逃さなかった。


「スズ先輩、学校には来ているみたいなんだけど……」


 聞いていないのに、センナが言った。


 野口茂の日記は、スズのお父さんが持ち帰ってしまった。解読作業も今日は中止だ。


 日本地図の、北海道の部分、月形つきがた三笠みかさ周辺を何気なく三人で見つめる。


 昨日の夢の中で出てきた地名が、確かにある。


 月形町から達布山たっぷやまに向けて、途中で角度をつけた道路を進むと三笠市だ。三笠市の中心に、市来知いちきしりという地名が見える。そこから南へ曲がってまっすぐ行くと、幌内ほろないというところがある。地図には、鉱山の記号がつけられている。


「スズ先輩がいたら、はしゃぐんだろうけどな」


 ポツリとセンナがつぶやいた。


「スズ先輩って、生徒会ではいつも優等生って感じだけどさ、オカルト研究部では子どもみたいにはしゃいでいるじゃん。なんかさ、そういうスズ先輩のかわいいところ見てると、落ち着くんだ」


 マイとリンは、静かに聞いた。


「わたし、あまり人付き合いよくないから。オカルト研究部に入部した経緯はもう話したけど、スズ先輩と出会わなければ、ずっと一人で本読んで過ごす中学生活だったんだろうなって……。最初は、スズ先輩をなれなれしい人だって思ってたけど、部活で一緒にいる時間が増えていくとさ。気軽に話せるようにもなって。スズ先輩、わたしの家、普段両親が留守にしているってことを知ったらさ、よく泊まりに来てくれるようになって。優しいよね。もちろん、スズ先輩とお父さんの関係があまりよくないっていうのはあったのかもしれないけど。本当はよくないことなんだろうなとは思っていたんだけれど、わたしもそのことにはあまり触れず、甘えちゃって……。なんだか、スズ先輩を本当のお姉ちゃんみたいに思っているところもあって……」


 センナが、ふう、とため息をついた。


「ごめん、なんだか恥ずかしいこと言っちゃったな。今日はもう、帰ろうか」


 マイは、きっとセンナが、このままスズと仲直りできないかもと思って不安なんだ、ということを感じ取った。


(センナ先輩、本当にスズ先輩のこと、大好きなんだな)


 そう思うと、やはり、このまま二人の関係が壊れたままにはできないと思えた。



 三人で玄関に向かい、あの理科室の前にきた。


 ふと中を覗くと、あの骸骨が見える。そして……


「スズ先輩!?」


 スズが、骸骨の前の椅子に座っている。骸骨を見つめているようだ。


 理科室は、生徒は入室禁止のはずだ。それを破ってスズがいるとは!


 センナが勢いよく理科室に入る。


「スズ先輩、何やってるんですか!」


「センナ?」


 スズは驚いたように振り向いた。


「スズ先輩! 今日も怒りますよ!」


「怒るって、何?」


「何って、生徒は理科室に立ち入り禁止になったじゃないですか!」


「えーと、それは……」


 と、スズが言いかけたが、


 また、あの眠気だ。


(骸骨だけなのに……)


 マイは、ふらふら倒れそうになって、辛うじて、近くにあった椅子に座り、理科室の長机に体をつっぷした。


 意識が、またあの、北の世界へと向かう……。



 トントンカンカン!


 セットウとタガネの音が聞こえる。どうしてそれがセットウとタガネの音か分かるのかは分からない。しかし、それを知っている、不思議な感覚だ。


 また、野口茂の意識に飲み込まれていく……。


 熱い。灼熱しゃくねつのようだ。


 カンテラに照らされた薄暗い場所は、キラキラしたものが飛んでいる。これが、石炭せきたん粉塵ふんじんだ。きれいなのだが、怖ろしい。これに引火したら、ひとたまりもない。それに、この粉を吸い込む者たちは、肺の病が刻一刻進んでいくのだ。


「きゅうけーい!! きゅうけーい!!」


 大声でどなり声が聞こえる。


「おい囚人ども、親分が言っている。おまえらも飯を食え」


 どうやら、大声でどなっているのは、親分と呼ばれるリーダーらしい。


 この地底には、看守も怖れをなして入らないようだ。


 弁当箱を開ける。


 麦飯は、すぐに粉塵がかかり、黒くなってしまう。


「おい徳三とくぞう、早く食べろ」


 野口茂と徳三は、弁当をかっこんだ。


 徳三が、むせて、水筒に手を伸ばし、グイグイと飲み込む。


 すると、「ぶはっ」と口に含んだ水分を吐き出した。


「おい徳三。ここでは水は貴重なんだ。あわてて食ったり飲んだりするな」


「違うんでぇ、アニキ。この水筒の水、小便だぁ……」


「なに、小便?」


 野口が周りを見ると、親分と呼ばれた男と、その男を囲んだ数人の男たちがヒヒヒと笑っている。


「あの野郎」


「アニキ、待ってくれ。ここで問題起こしたら、また懲罰房ちょうばつぼう行きになるべ」


「馬鹿野郎。こんなところに懲罰房も何もねえ。あいつら、こっちが囚人だからって見下しやがって」


 野口茂は男たちに近寄って行った。


「おう囚人さんよ。何か用か」


 男の一人が言った。


「おいお前ら、よくも水筒に小便をしてくれたな。ここでは水筒をお丸か何かと勘違いするような赤ん坊でもいるのか」


 男たちは、まだヘラヘラと笑っている。


「なんだ、お前らはどうやら笑うことしかできねぇ赤ん坊と見えらぁ。赤ん坊は赤ん坊らしく、家に帰っておふくろの乳でもすすってろってんだ」


「何だとこのやろう」


 あっという間に一人の男が激昂した。


「おい待て」


 親分がその男を静止した。


「へっへっへ、囚人さんよ、威勢がいいじゃねぇか」


「威勢がいいんじゃねえよ。俺たちは小便飲む趣味はねえんだ。たとえ囚人でもよ、五分の魂があるんだ。勘弁できねえ」


「へっへっへ」


 また親分は笑っている。


「勘違いされちゃ困るぜ囚人さんよ。お前さん、俺たちがそこの囚人さんの水筒に小便をしたと見当をつけているようだが、証拠がないぜ」


「ここにはお前さん達と俺たちしかいないんだ。他に誰が水筒に小便するっていうんだよ」


「へっへっへ、道理だ囚人さんよぉ。その威勢のよさ、嫌いじゃねえぜ。でもよ、お前さん、囚人には五分の魂があると言ったが、それは違うぜ。ヤマの中ではな、看守さんでも、典獄てんごく様でも、ましてや開拓使様でもねえ。友子ともこの人間が一番偉いのよ」


「友子って、お前らの組のことか」


「へっへっへ。組とぬかしやがる。ただまあ、そんなものだ。本来なら、友子の親分である俺に仁義を立てて働くものを、お前さんたち囚人は特別扱いで、この炭鉱に入れてやってるんだ。本来は、三年三月十日さんねんみつきとおかの修行も必要なのによ。そうしなけりゃ、ヘマをする。一人でくたばるんならまだいいが、ここは炭鉱だ。俺たちまでおしゃかになっちまう。へっへっへ、それはさておき、お前さんのような威勢のいい御仁は、実際に体験してみないと分からないと見える。今夜にも分かるぜ。友子に逆らうと、ろくなことにならねぇってな」


 すると、その親分の周りにいた奴らもまた、ひっひっひ、と笑った。


「おいてめえら、仕事の時間だ。なあ、囚人さんよ、今夜が楽しみだな」


 親分が号令をかけると、子分たちはセットウとタガネを手に、また穴を掘りだした。


「アニキ、今夜分かるって、なんのことだべか」


「さあな。徳三、気にするな。俺たちも仕事だ」


 野口茂と徳三も、セットウとタガネを手にとり、無心に穴を穿うがっていった。



 囚人たちは、作業が終わると、飯場はんばに集められた。飯場は、炭鉱で働く者たちが暮らす長屋だ。その飯場には、家畜小屋も併設されていた。家畜は冬になる前に出荷されたと見えて、もぬけの空だ。そこに、囚人たちは、押し込められた。


 陽が沈む。一面の雪の大地に夕焼けが照り付ける光景は、なんとも幻想的だ。


 表で声がする。


「ごめん下さい!」


「どーぞ」


「ごめん下さい!」


「どーぞ」


「ごめん下さい!」


「どーぞ」


 扉が開く音が聞こえる。


「どうぞお控えください」


「そちらさんこそ、お控え願います」


「いえ、どうぞお控えください」


「ここは飯場。お客人様こそお控えなさって」


「いえ、どうぞそちらさんこそお控えなさって」


「それじゃお客人の言葉に従いまして、控えることにいたしましょう」


「これはありがとうござんす。そちらさんとはお初にお目にかかります。二度のお目通りでしたら平にご容赦願います。手前生国を発しましたるは……」


 野口茂は、面倒くさい仁義を聞くのも馬鹿らしくなって、そのまま藁に顔を押し当て、寝てしまった。ここは、行き場をなくした者達の行きつく場なのだ。それは、囚人も坑夫も変わらないのだ。



「ウー……アニキ……アニキ……」


 徳三の唸り声に野口茂は起こされた。


「徳三、どうした」


「腹が……腹が痛えべ……」


 月明かりで小屋の中へ差し込んでいて、だいたいの様子は分かる。


「においで、徳三が吐いたことも分かった」


 体に触れると、熱い。


「お前、いったいどうした」


「やられたべ……。きっと、あの小便だ……」


「くそっ、あいつらめ……毒も混ぜてやがったのか」


 徳三は震えはじめた。


「おまえ、熱までだしてるじゃないか」


 野口茂はあたりを見回す。


「よしっ」


 と一斉、壁を思い切り蹴り飛ばす。粗末な家畜小屋だ。壁は簡単に壊すことができた。


「アニキ、友子のやつらに気づかれるべ」


 しかし、飯場は静まりかえっている。


 劣悪な環境で石炭を掘っている磊落らいらくな者達が、この程度の音で目を覚ますことはないのだ。


「徳三、おぶってやる」


「アニキ、俺はもうだめだ」


「徳三、何言っている」


「こんなことしちゃ、アニキまで懲罰を食らっちまう。俺は、捕まった時点で覚悟はできていたんだ」


「馬鹿なこと言うな。おい、おぶされ」


 野口茂は、ぐったりした徳三を背負い、穴の空いた狭い壁から外に出た。


 雪がちらついている。月明かりの向こう側には、重たい雲がかかっている様子が見える。


「これは、早くしないと吹雪になる」


 野口茂は、口の周りから嘔吐物の匂いを漂わせる徳三を背負い、雪原を歩いて行った……。



 どれだけの時間がたったろうか。


 そして、今が何時なのかも分からない。


 集落に着いた。


 明かりの灯っている家はない。


 入り口の門の上に十字架がそびえている教会の前まで来た。


 野口は、頼りたくもない同郷の牧師のもとに、無意識にきてしまっていることを思い出し、一人苦笑した。


「ごめんなすって! ごめんなすって!」


 なんどか怒鳴ると、手塩親胤てしおちかたねが、聖職者らしい黒いローブに身を包み現れた。


「野口か!」


 親胤は驚いたように言ったが、野口茂が背負っている徳三を見て、すぐに合点がいったようで、教会の中に導き入れた。


 準備も何もないので、野口茂は、徳三を祭壇の前におろした。


「この町に、医者はいないんですかい」


「俺が医者をやっている」


「あんたが……」


 親胤は徳三の目の中や、口の中の状態を確認している。


「もういいべ。もういいべ」


 徳三がかすれるような声でいった。


「徳三、諦めるな。自分で諦めたらおしまいだぞ」


「いんやアニキ、自分の身体のことは自分が一番よく分かる。俺はもうダメだ。もうダメだ……。アニキ、手を握ってくれや」


 野口茂は徳三の手を握り、親胤の顔を見る。


 親胤は、首を横に振っている。


「おい徳三、何か言い残すことはないか」


「何もねーべさ。俺は天涯孤独てんがいこどくなんだ。ただ、一つ言うとすれば、俺は悪いことはしてないのに、ここに連れてこられたってことだ」


「悪いこともしていない。それはどういうことだ」


「俺は強盗殺人でここに来たんだけれどよ。あれは別の人間がやったことなんだ。俺はよく知ってる。俺が濡れ衣を着せられたんだ。信じてくれるか、アニキ」


「そうか、分かった。この俺と、この西洋坊主さんがしかと承ったぞ、徳三」


「へっへっへ。そういえばよ、俺はこれまで信仰心を持つことがなかったべ。ここはいいところだ。神父さんもいる。神父さんよぉ、俺をキリシタンにしてくれよ」


 野口茂と親胤は顔を見合わせる。


「たのむべさ。俺は、今生では地獄のような生活ばかりだった。死んでからくらい、極楽にいきたいべさ」


 野口茂は、いよいよ徳三が哀れになった。


「親胤の神父さんよ。最後にこいつの願い、叶えてやってくんねぇか」


 親胤は、


「うん。ただ、徳三。お前は俺のことを神父と言った。神父はカトリックだ。俺は牧師だ。ここはプロテスタントだ。それでよいか」


「俺は学がねーからよく分からんべさ。どっちでもいいべ。しかし、俺一人じゃだめだべ。なんかよお、誰かが一緒にやってくれねえと心細いべさ。なあ、アニキよお、アニキも一緒に、洗礼を受けてくんねえかなあ」


 徳三は、懇願こんがんするような眼で野口茂を見た。


「俺にゃ、西洋坊主の宗門しゅうもんなんてよく分かんねーけどよ、やってくれよ親胤のだんな」


「よいのか野口」


「もともと俺は、阿弥陀さんも神さんも頼ったことはねーんだ。いいよ、やってくれ」


「分かった。洗礼には水がいる。野口、水を。そこの暖炉の近くにあるヤカンのものでよい。もってきてくれ」


 野口茂は親胤に言われるままに、暖炉の近くに置かれたヤカンを持ってきた。あまりに急いだので、途中でヤカンから水がこぼれた。体にかかったが、もうぬるくなっていた。こうした寒い日にはぴったりだと、野口茂は思った。


「よし、では徳三、はじめるぞ。時間がないため、簡易ではあるが、お前に洗礼を与える」


 親胤は、やかんの水を、徳三の頭に少しばかりかけた。


「次は野口、お前だ」


 野口茂は、親胤に、夜間の水をあたまから浴びせられた。


 特に何も変わった気はしなかったが、それで徳三が救われるならよい、と野口茂は思った。


 顔から水がしたたり落ちる。腕でごしごしと水をふき取り、徳三を見る。


 徳三は、野口茂が出会ってから見たこともないような、満足気な表情を浮かべている。


 しばらく沈黙が流れた。


「野口、おまえ、飯場を抜け出してきたのか」


 野口茂は、今日の炭鉱でのいきさつを親胤に話した。


「野口、炭鉱では、人の命など風の前の塵よりも軽い。囚人ならなおのことだ」


「親胤のアニキ、俺はやられたら、殴り返すぜ」


「それはいかん。仮にもお前はイエス様を筆頭とする神の教えの洗礼を受けたのだ。聖書には、殴られたら、もう片方の頬も差し出せと書かれている」


「なんですかい、それは」


「俺はお前に洗礼を授けたのだ。お前が他人に手出しするのは許さん」


「フン」


 野口茂がソッポを向くと、親胤は話題を変えた。


「野口、お前は、金子書記官かねこしょきかん伊藤閣下いとうかっかに当てた、ここらの巡視報告を知っているか」


「いいえ」


 野口茂は自由民権運動をしているだけあって、この話題が出ると、再び親胤の顔を見た。


「そこには、お前たちのような悪徒は、苦役の中でくたばっても、監獄の費用が浮くからそれもまたよいことだ、と報告されている」


「たいそうなご高説で」


「これは飯場にとってもお墨付きになっている。徳三を見てみろ。苦役くえきの中で命を落としたどころか、殺されたようなものではないか。野口、これから飯場に戻ればただでは済まない。俺がなんとか逃がしてやるから、富詩木ふしぎ村へ戻れ」


 とそこへ、教会の表門を、強引に叩く音が聞こえる。


「親胤のアニキ、俺は戻るぜ」


「野口、貴様、戻ってどうするつもりだ。まさか、徳三の恨みを晴らすのではなかろうな」


「親胤のアニキ、さっきまではそう思ってましたぜ。でも、仮にも俺は親胤のアニキから洗礼を受けたんだ。徳三の借りもある。俺が暴力を振るったら、親胤のアニキがイエス様からおしかりを受けるんでしょう。それはいけねえや、一飯の恩は果たしますぜ」


「どうしても戻るのか」


「このまま逃げたんじゃ、俺の一途が立ちませんや」


 まだ表門では、戸をドカドカ叩く音が聞こえる。野口を出せ! と怒鳴り声も聞こえる。


「よし、野口、これを持っていけ」


 親胤は、首にかけていた、十字架を野口に持たせた。


「なんですこれは」


「十字架だ」


「そうらしい。人が貼り付けになってますぜ」


「イエス様は、我らのために犠牲になった。その姿を現している」


「ふん、そのイエス様は、どれだけ抵抗したんですかい」


「罰当たりなことを言うな。イエス様は、隣人を愛せと言った。片頬を殴られたら、もう片方の頬を差し出せとな。この十字架をお前に渡すからには、それに堪えなければならぬ。お前は、それを誓わなければならぬ。それが、イエス様、いや、神があたえたもうた試練なのだ。それを克服しなければ、全て無意味だぞ」


「ふん。誓いですか。因果なものだ」


 野口茂はそれを首から下げた。


「じゃあ、親胤のアニキ、あっしはこれで。徳三のことは世話になりました。せいぜい、うまく葬ってやってください」


 野口茂はそのまま表門を中からバンと開いた。


 勢いで、表門を叩いていていた友子の子分たちが、その場に倒れて、地面に顔を打ち付けて、顔が雪だらけになった。鼻字を出して、雪が真っ赤になっている。


「おう、お前ら、村八分って言葉があるだろ。徳三が死んだ。それで、ここに連れてきたんだ。囚人だろうと、葬式は別もんよ。それもいまさっき済んだところだ。俺は逃げも隠れもしねえ。もどろうじゃねーか」


 野口茂はズカズカと先頭で歩き出したので、とっ捕まえる気で来た子分たちは面食らってしまって、どうしてよいか分からない顔で、野口茂の後に続いていった。

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