逃げ日和

そうざ

Good Weather for Escaping

 軽く寝坊をしてしまった。住宅街にいつものような通勤通学の人影はなく、閑散としていた。

 小春日和の陽射しが心地好い。こんな日に学校なんて馬鹿馬鹿しい。

 彼方から気配が近付いて来る。傾斜した一本道のいただきから人影が現れた。瞬く間にその数が増えて行く。皆、駆け足だ。

 足音が大きくなる。小父おじさんも居れば、小母おばさんも居る。犬を連れた老人、黄色い帽子の子供達も居る。誰もが必死の形相だ。

 何が何だか分からない内に、集団はもう数メートル先まで近付いていた。

「何をぼうっとしてるんだっ、逃げろっ」

 中の一人が叫ぶと、他の人達も、逃げて、逃げろ、と口を揃えた。その勢いに押され、僕も同じ方向へ走る羽目になった。

 隣を走る突っ掛け履きの小母おばさんに訊いてみた。

「あのっ、なんで逃げてるんですかっ?」

「さぁ、逃げろって言われたから思わずねっ」

 片手にゴミ袋を持っている。ゴミ捨ての直前に逃げ始めたらしい。

 振り返って見渡しても、別に何も追い駆けて来る様子はない。

 直ぐ後ろを走る、無精髭の小父おじさんに訊いてみた。

「何で逃げるかって……皆が逃げてるからさ。今日は非番だからもう少し寝ていたかったんだけどな」

 それでパジャマのままで、薄い髪に寝癖が付いているのか。

 汗が滲み出す。ぽかぽか陽気が恨めしくなる。

 商店街に入る。まだほとんどのお店が開いていなかったが、人はちらほら歩いていた。逃走の集団が、逃げて、逃げろ、と声を掛けると、通行人は戸惑いつつも次々に仲間に加わった。

 腕時計を見る。学校ではそろそろホームルームが始まる頃だ。

「はぁ……遅刻は確実だな」

 思わず出た独り言に、左後ろの眼鏡の青年が反応した。

「その制服、私立高校だよね?」

「あ、はい」

「何なら皆に頼んで逃げる方向を逆にして貰おうか? 途中で学校に寄って欠席届を出した方が良いんじゃない?」

「いやぁ、折角ここまで逃げたんだから、別に良いですよ。必死に逃げてたと判れば、先生だってとやかく言わないだろうし」

「そりゃそうだ」

 遂に国道に出た。右を見ても左を見ても果てしないが彼方まで続いている。

 先頭の方の逃走者が皆に問う。

「どっちに逃げますっ? 右っ? それとも左っ?」

 誰かが答える。

「任せるよっ。どっちに逃げても同じだっ」

 集団は何となく右折を選んだ。

 沢山の人が狭い歩道を一目散に逃げて行く。信号待ちの車という車から怪訝そうな顔が覗いている。市民マラソンか何かに見えるだろうか。それにしては誰も彼も普段着だな、と思っている事だろう。

 首からネクタイを乱暴に引き抜いた並走サラリーマンに訊いてみた。

「はぁ、はぁ、何処まで逃げるんですかねぇ」

「はぁ、はぁ、そりゃ、逃げ切れる所までだろ、はぁ、はぁ」

 今度は、振り乱した髪をゴムでまとめている並走女子に訊いてみた。

「はぁ、はぁ、何時いつまで逃げるんだろうねぇ」

「はぁ、はぁ、勿論、逃げ切れるまででしょ、はぁ、はぁ」

 最後尾の方から不意に声がした。

「おぉい、もう少しペースを落としてくれぇ。お年寄りや子供達も居るんだぁ」

 全員が一斉にペースを落とした。いつの間にか皆の息がぴったり合っている。

 再び腕時計を見る。もう授業が始まっている時刻だ。今日の一時間目は数学。一番嫌いな科目で良かった。

「遅刻決定〜っと!」

 直ぐ隣で制服姿の女の子が唐突に言った。

 僕も丁度言いたかった言葉だったので、思わず声を掛けた。

「君、何校の生徒っ?」

「隣町の、そのまた隣町の高校っ」

「随分遠くから逃げて来たんだねっ」

「今朝は遅刻しそうだったから逃げて正解っ。言い訳になるでしょっ?」

「ははっ、同じだっ」

 その時、後ろの人に肩を叩かれた。ペットボトルを差し出された。皆、それぞれに水分を補給している。遠慮なく貰った。女の子も手持ちの水筒を口にしていた。

「あ、もう直ぐだっ」

「もう直ぐって?」

 角を曲がった瞬間、視界の先に海があった。潮風が頬を撫で、汗を乾かして行く。

 一団は暗黙の了解で砂浜へ走り出た。自然と笑顔になる。誰かが連れていた犬が傍らを走り抜けた。砂に足を取られながらも、僕等は競うように逃げ続ける。

 女の子が波間を縫って逃げて行く。振り返ると、女の子を追い掛けながら逃げ惑う僕の姿がその瞳に映っていた。

 まだまだ逃げられそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

逃げ日和 そうざ @so-za

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ