第2話 =恋・・・それとも=

 美月に初めて会ったあの夜から、悠人は密かに単独での訪問を綿密に計画していた。こういうところは細かいのである。

 まずは『ピンクキャロット』のホームページを検索し、彼女のプロフィールを確認する。どうやら彼女は水曜日オンリーの出勤らしい。さらに女子大生風のマイ嬢の事も調べてみると、やはりこちらも水曜日オンリーのようだ。

 前回の訪問はマイ嬢の指名だったので、次の訪問で美月を指名すると、客を取った取られたのいざこざにならないとは限らない。そんな面倒なことにはなりたくなかった。

 しかしよく調べてみると、美月はおよそ毎週出勤しているのに対し、マイ嬢の出勤頻度は月一に等しい。これは完全に背中を押されていると勘違いするケースだ。現に悠人は明らかにその勘違いに気づいていない。

 さらに悠人は、出勤情報の掲載パターンを分析する。ある程度曖昧な掲載の仕方をしているが、いく日分かを垣間見ていると、割と単純なパターンを発見できた。これで美月とマイ嬢が被らない日をチョイスできるというわけだ。

 しかし、万が一のことを考慮して、次回の訪問は、丁度ひと月先の水曜日と決めた。マイ嬢が自分の事を覚えていないか、忘れる期間を作ったのである。もう一度指名すれば思い出すかも知れないが、ヘルプなら思い出さないかも。そんな小細工も考えたのである。

 さて、そこからは待ち遠しい日々となった。どんな話をしよか、何かお土産を持っていこうか、悠人の妄想は膨らむばかりである。


 さても英哉を見送って帰宅した翌々日の朝、なんとなくもやもやとした気持で起床した。それでも久しぶりにゆっくりとした朝を迎えて、久しぶりに万里と朝の挨拶を交わした。

「おはよう」

「あら、今日はどこかへ出張?」

「いや、今日は休みをもろた。凱旋休暇っちゅうとこかな」

「あらそう」

 なんだかそっけない返事で拍子抜けしていると、

「私は仕事があるから、ご飯は自分でしてな。唯衣も学校があるから、あんた一人やで」

「それは別にかまんけど、万里は何時に帰ってくる?オレな、今日から企画部の部長やて。一応昇進やし、晩ご飯一緒に食べようや」

「あかん。今日は遅番やから、帰るん夜の十時やで。また早番のときしよな」

 いうが早いか、そそくさと出かけ支度を始めた。結果的に折角の休みも、悠人一人で過ごすロンリーな骨休めの日にしかならなかった。

「しゃあないな。ゴロゴロしてるか」

 悠人は何するでもなく、仕事の資料を読み込んだり、茨城で収集してきたデータのまとめなどをしてその日いち日を過ごした。


 そんな暇な一日を過ごした翌日は、晴れて部長としての初出勤。新しい朝でありながら、何かしらしこりが残る朝の時間だった。

「おはよう」

 それでもスッキリとした顔でいつもよりやや早い出勤となったが、部屋にいたのは新人の女の子だけだった。

「おはようございます。早いんですね。いつもそんなに早いんですか?」

「いや、ちょっと早く家を出たからな。キミはいっつもこんなに早いんか?」

 壁の時計は八時半の少し前。九時出社が規定の時間なので、確かに早いかも。

「新人ですから、お茶の用意だけでもしておこうかと思いまして」

「ええ心がけや。せやけどあんまりみんなを甘やかしたらあかんで。みんなこぞって調子に乗るさかいな。ところでキミの名前はなんやったっけ」

「清水です。清水瑞穂といいます」

「瑞穂ちゃんか。可愛い名前やな」

 悠人には一瞬違った名前に聞こえたが、すぐに間違いだと気づく。彼女が手にしていたマグカップには大きな文字で「みずほ」と記されていたからである。

 そんな会話をしていた矢先、珍しく英哉が早い出勤をしてきた。

「ああ、これはこれは大原部長、おはようございます。」

 のっけからからかいムードである。

「それはそうと、おととい何時に帰りました?」

「何時に帰ったってええやないか」

「いやあ、もしかしたらすぐに帰らはったんかなとおもて」

「そやな、すぐに帰ったな。いっぱいやったやん。それに帰りの時間もあるし」

「昨日は休みでしょ?泊まっても良かったん違いますの」

「まだ家に帰ってなかったんやで。普通は帰るやろ、独身やないねんから」

「ところで谷口さん、なんで今日は早いんですか?」

 二人の会話を意味深に聞いていた瑞穂は英哉に問いかけた。

「そやそや、今日は武藤さんとこいかなあかんのに、大事な資料忘れたから取りに来たんやった」

「武藤さんは元気か」

 武藤さんとは北阪百貨店の営業部長であり、英哉の前任は悠人であった。

「なんやったら一緒に行きますか?今度のカレーフェアの打ち合わせですけど」

「いや、それは任せた。それよりスケジュールの一覧表がどっかにないか」

 すると瑞穂が整理棚の中からファイルを取り出して悠人に渡した。

「これでしょうか」

「うん、これこれ。ヒデやん、もう忘れもん見つかったんやったら、行くとこ行っといで」

「ほんなら・・・。そやけと大丈夫ですか」

「何がや」

「悠さんが若い女の子と二人きりやなんて」

「あほ、妙な噂を立てるな。清水さん、聞き流しといてや」

「下の名前で呼ばれるようになったら気ぃつけや。案外ジコロやで、この部長」

「あほ、余計なこといいな」

「部長、私は下の名前で呼ばれても大丈夫ですよ。ぜひ呼んで下さい」

「ま、まあ、そのうちにな」

「やだあ、部長あかくなってるう」

「どれどれ」

 英哉が即座にチャチャを入れに来るが、

「ヒデ!さっさと行ってこい!」

「はいはいー。ミズちゃん、後はよろしくね」

 英哉は不足だった資料をカバンに詰め込んで部屋を出て行った。それと入れ違うように、ゾロゾロと他の面々の出勤が始まった。

 瑞穂は悠人にニッコリと笑顔を送ると、

「よろしくお願いします。悠人部長」

 瑞穂からしてみれば、親しみを込めた呼び方のつもりだった。厳格な性格の人間からみると、なめられているととられても仕方がない。頑固一徹の上司なら頭ごなしに叱られるところである。

 しかし、悠人は昔ながらの厳格な人間にはなれない性格だった。若い頃は血気盛んな年頃もあったが、三十を過ぎた頃にもなると、人と争うことが極端に嫌になった。 その頃の直属の上司がそういうタイプで、常に厭な思いをしていたからである。

「個人的に悪い気はせえへんけど、人前ではあかんで。そういうの気にする人もおるからな」

「はい。わかりました」

 瑞穂はニッコリ微笑んで給湯室へと向かった。こうして意味深なエピソードを含んだまま、悠人の部長としての日々が始まったのである。


 部長としての最初の一週間は、とてつもなく忙しかった。企画部における事業全体の把握もさることながら、得意先への挨拶回りや部署内で稼動するシステムの把握など、目の回るような慌ただしさだった。

 ようやく訪れた週末。終業時間が迫ると、英哉がやってきて、

「悠さん、今日ははやく片付けて、飲みに行きましょうよ」

 そろそろ疲れが溜まっていた悠人にとっても渡りに船のお誘いであり、その誘惑から逃れるすべを知らなかった。

「よし、久しぶりに行くか。あとは誰が来る?」

「へっへー、ミズちゃんがいくってゆうてますで」

「ミズチャン?」

「瑞穂ちゃん」

「えらい仲良さようやな。あんまり新人さんをからかったらあかんで」

「よおいわはりますわ、あの子、悠さんのことタイプやっていうてましたで」

「あほ、いくつ歳が違うと思てんねん、ちょっとヨイショが上手いだけやんか」

「ほお、ほんなら今晩、それを見届けましょか」

「まあええわ、せやけど、あんまり余計なこといいなや」

「へいへい」

 本来は悠人と英哉も上司と部下の関係である。それにしては会話がらしくない。昔から二人を知っている人ならともかく、そうでなければ、一般的には非常識と言われるだろう。


 やがて終業時刻を迎えると、前のめり気味の八人の徒党が組まれた。同じ部署でも下戸の者や他に用事がある者、さほど親しくもない者たちは、この徒党の行方を快く見送った。悠人に媚を売ったところで仕方のないのがわかっている連中は無理して参加しないし、そんな事を歯牙にかける悠人でもなかった。

 一行は英哉のおすすめで、焼き鳥屋『武元』に向かった。前部長との同行なら『麦や』へ行くのだが、それは前部長の焼酎のボトル狙いだった。悠人のボトルは『武元』にあるのだ。

「さて皆さん、新しい部長を迎えて、慌ただしい一週間が過ぎました。選ばれし精鋭たちだけではありますが、ともに来週に向けての英気を養いましょう」

 英哉の音頭で始まった慰労会。テーブル席ではあるが、時間の経過とともに入り乱れる。そろそろ良い具合に仕上がった英哉が瑞穂に絡む。

「ところでミズちゃん、部長へのアプローチはどこまで進んでる?タイプやっていうてたやろ」

「あくまでもタイプっていいました。恋愛感情にはならへんの。第一、奥さんいはるんでしよ?失礼やないですか」

「おっ、まるで独身やったら可能性あるみたいな言い方やん」

「ないです。でもお父さんっていう感じはしないですね。なんででしょう」

「でや、ボクやったらつきあえるやろ?独身やし」

「谷口さんいくつですか?やっぱり年齢的に合わんと思います」

「いくつぐらいやったらええん」

「年齢は関係ないかな」

「ほな、ボクでもええやん」

「や、やっぱり谷口さんはないです」

「そうかな、悠さんも普通のどこにでもいるオッちゃんやけどな」

 英哉は今年四十二になるが、五年前に離婚しているため、確かに今は独身である。だからこそ結構な夜遊びに勤しめる訳だが。

 そんな会話をしているとは知らずに、二人の正面に陣取った悠人。二人の目線が一斉に自分に向けられてキョトンとする。こういうところが昔から女の子ウケするのである。但し、本人は自覚していない。

「なんや、ヒデやんが彼女を狙ってたんか。あかんでコイツは。風俗通いがバレてヨメさんに逃げられたような男やからな」

「悠さんかて、一緒に行ったことあるやないですか」

「おまいさんに騙されて行ったみたいなもんやんか」

「今ね、悠さんのウワサしてましてん。ミズちゃんが悠さんのこと好きやっていうから、根掘り葉掘り聞いてましたんや」

「そやな、確かにこの子は可愛い。しかし、親子ほども年が離れているんやで。親御さんに失礼や」

「谷口さん、さっきからそんなことばっかりいわはるんです。ウチ、部長とおしゃべりしたいから、ちょっとのま、二人だけにしてください」

「はいはい、ごゆっくりどうぞ」

 英哉は含み笑いを噛み殺しながら別の席へと移動した。

「部長さん、私って可愛いですか?」

「せやな、十人中九人は可愛いっていうやろな」

「そうかなぁ、ごくごく普通やと思うねんけどなあ」

「ちょうど今が食べ頃っていうことちゃうかな。ヒデやんがいうてたけど、ボクもただのオッチャンやで。なんやったらこそっとお持ち帰りしたろか」

「うふふ、できひんでしょうけどね。それに奥さんいてはる人は、やっぱりね」

「ちゃんとした恋愛しいや。あと、仕事もちゃんと頼むで。期待の新人らしいやないか。そう聞いてるで」

「はい。それはそうと、部長さんはなんで指輪をしてはらへんのですか?」

 瑞穂は悠人の左手を指しながら、問いかけた。

 悠人は面白いことを聞くなと思ったのだが、特段理由があるわけでもなく、やはり女性の見る視点は、男とは違うのだなとも思いながら答えた。

「指に何かがあると違和感を感じるから。それだけやで」

「そうですか」

 瑞穂の感情はわからなかった。ただ、そのときの瑞穂の表情はあまり納得がいかなかったような顔つきだった。

 英哉の音頭で始まった慰労会は、英哉の締めでお開きになる。この後は、それぞれ自由行動だ。帰る者と、さらに次の店へと向かう者とに分かれ、英哉は当然のように次の店へと悠人の袖を引っ張る。

「悠さんはもちろんこっちですよね」

 ところが今宵の悠人にその気はなく、

「いや、今日は帰るで。ホンマに疲れてるし」

 簡単には引き下がらない英哉は、そっと悠人に耳打ちした。

「ええ店見つけましたから、そこへ行きましょ。それともミズちゃんのお持ち帰りが先約ですか?」

「アホ、どっちもないわ。とにかく、今日は帰るで。一人で行っといで」

 悠人は英哉の誘いを振り払い、駅へと向かった。ちなみに瑞穂は、悠人や英哉が知らぬ間に、すでに帰宅の途についていた。悠人はホッとしたような少し寂しいような妙な感情だった。


 悠人が帰宅したのは夜も十時を回ったころだった。妻と娘はリビングでテレビを見ながら談笑していた。

「おかえり」

 一応、声だけはかけてくる。しかし、その場所を動く訳じゃない。

 悠人は自分の部屋に入り込んで、おもむろにパソコンの電源を入れた。ちょうどよい具合に酔いが回っており、寝落ちするのも時間の問題だと思われた。

 バスは明朝、サッとシャワーを浴びればいいだろう。そんなことを思いながらメールチェックを始める。ひと通りのルーチンが終わると、『ピンクキャロット』のページを開いた。美月の出勤情報を確認するためだ。

 今夜、英哉の誘いを断ったのは、次の水曜日に美月に会いに行こうと目論んでいるからである。あの店に近しいことを英哉には知られたくなかった。またぞろ話のネタにされかねないからである。

「それにしても・・・」

 今宵のやや意味深な瑞穂の態度も気にはかかっていた。

「あまりややこしいことにはなりたないねんけどな」

 明後日には、店の女の子とはいえ、遊びに行こうと考えている男のセリフではない。悠人もわかっているのか、

「あっちもややこしいことにならんようにしなな」

 などとは自惚れも甚しい。

 寝巻きに着替え、冷蔵庫からウーロン茶を取り出して、オンザロックにして持ってくる。就寝前に飲むドリンクとしては、ややカフェインが多めか。しかし、そんなことを気にするでもなく、ややほてった顔を覚ますかのように喉に流し込む。

「さあ、落ち着いて情報チェックだ」

 まずは出勤情報を確認する。そこにはちゃんと美月の名前が掲載されていた。次は日記である。筆マメな女の子ならほぼ毎日、お誘いの祝詞が告げられる。あながち誘蛾灯のようなものといっても過言ではない。

 しかし、その日の美月のページには、新しいエピソードは綴られていなかった。それでも悠人にとっては、水曜日の確認ができただけで満足だった。

店のホームページでは「美月」としてラインナップされており、さながら名は体を表すといったところか。確かに彼女は美しい月であったと、ご満悦な悠人である。

 今宵の夜も美しい月であったろうか。さすがの悠人も、それを確認するほどのロマンチストではなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る