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恐ろしさはあるのだが、綺麗な大蛇だった。色がそう見せていたのだろう。月光をそのまま跳ね返したような青白い体は、現実離れした様相だった。
不知火が吠えた。蛇は気にした素振りもなく、尾の先端を波打たせて私たちを見下ろした。私はもちろん、不知火も蛇も身動きせずに、しばらく睨み合っていた。
敵意はないようだった。なぜ姿を見せたか、不明だった。不知火も意図は読めなかったらしく、私を背に隠したままで、一旦座った。
月明かりがゆらゆら降りる中、蛇は私たちのそばにずっといた。どうしたものかと困ったが、意を決して話しかけてみようと身動きすれば、不知火の尻尾がすばやく私を捕らえた。妙なことをするな、と唸られた。私たちのやりとりがおかしいのか、蛇が鳴いた。
多分笑い声だった。長い舌を伸ばしつつ、口からあぶくのような不可思議な音を出したのだ。陸にいるのに溺れていると、私は思った。
尻尾に固定されて動けず、結局そのまま朝を迎えた。私は眠ってしまっていたらしく、起きると太陽が昇っており、蛇の姿はどこにもなかった。彼は一睡もしていなかったらしく、私の起床を認めるや否や、尻尾を緩めてうずくまった。
「あの蛇は?」
不知火の赤い目が湖を見た。
なるほど大蛇は、湖の守り主のような存在らしかった。
眠り始めた不知火を一人にするかどうか悩んだが、彼ならある程度のものは返り討ちにするだろうと、置いて出掛けることにした。昨日寄った村は遠くないため、少し歩けば辿り着ける。湖が生活の範囲にあるあそこならば、何か知ってるのではないかと思ったのだ。
村は昨日と同じく慎ましやかだった。まずは蕎麦屋に向かい、支度中の札がかかっていたが、謝罪がてら訪問した。ちょうど出てきた女将さんは私を見て驚いたが、不知火がいないとわかれば安堵したような息を吐いた。余程怖かったらしい。不知火が食った人間の弔いは、今日の昼過ぎから行われるようだ。
女将さんと立ち話をした。あわよくばと思ったが、大きな蛇については特に知らないらしかった。そんな恐ろしいものがいるんですかと青ざめたので、しらを切ったわけでもないだろう。あまりに怯えるので、噂を聞いただけだと誤魔化した。
ほっとしている女将さんに、誰か知っていそうな村民はいないかと更に聞けば、言い淀みながらも村の奥へと続く道を見た。
「一年程前から住み着いている、妙な人がいるんです」
「妙、というのは」
「この村の近辺を調べているみたいで、はじめは村の中にいたわけではないんですけれど、いつの間にか奥の、一人暮らしの老人が亡くなってから空き家になった家に住み始めたんです」
「ここは、勝手に住み着いてもええような村なんですか?」
慎ましやかで長閑な雰囲気であるため、誰彼構わず受け入れていれば大変だろうと聞いてみれば、女将さんは強く首を振った。
「普段は断っています。でもなぜか、村長が承諾してしまって……あっ、誰にも言わないでくださいね、実は反対している村民の方が、少ないんです」
なんだか変な話である。しかしその「妙な人」に聞いてみれば、湖については何かわかると思われた。
お礼を言い、道を進みかけたが引き止められた。ちょうど良い時間になっていたらしく、昼食に蕎麦はどうだと勧めてきた。
腹は減っていたのでありがたく入った。客はまだ一人もおらず、料理人の旦那さんは私を笑顔で迎え入れた。ここの蕎麦は美味かった。蕎麦自体もつるりとして食べやすいのだが、何より出汁の風味が絶妙なのだ。
「この調理に使う水は、近くにある湖から汲んでくることがあるんですか?」
女将さんは首を振った。手が空いている様子の旦那さんが厨房から顔を出し、それは禁じられているのだ、と教えてくれた。
「禁じられている、とは」
「あの湖は縁切り鏡と呼ばれてるんですよ。そういう伝承があるんです。風が吹いても湖面が揺らぐことがあまりなくてね、だから鏡と言われてるんですけども」
「伝承、詳しく聞いてもええですか」
箸を置きつつ尋ねると、旦那さんは考える素振りをしてから、ちょっと違うかもしれないけどと前置きをした。
「名前通りの話ですよ。無理矢理に結婚させられそうになっていた村娘が、湖のそばで泣いていたら、湖に住む魚たちが哀れに思って助けてくれる、それで結婚しなくても良くなる、という話です。鏡のような湖が割れて、なんだったかな、この魚を相手方に食べさせれば良い、と一匹魚を渡されて、食べさせてみると不思議なことに結婚の話が立ち消えて、相手とは一生会わずに済む、そういう流れだったはずです。だからこの村では、湖でとれる魚は口にしないし、水自体も使いません。逆方向にそれなりの川もありますし、雨も降る地域なので湖から取って来なくても大丈夫なんですよ」
旦那さんは笑い、食べ終わった器を持って厨房へと戻っていった。女将さんが洗い物はすると声をかけ、店の中は一旦、私一人になった。
私は少し、いやかなり、焦っていた。間に受けたわけではないが、動揺した。
「食べてもうたわ……」
しかもかなり美味い魚だったし、不知火がとってくれたので余計に喜んで食べてしまった。
嫌な予感しかしなかった。私は用事があると奥に向かって叫び、勘定を置いて立ち上がった。不知火の元へ戻るため、すぐさま店を飛び出した。
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