怪底奇譚 小噺
碇屋ペンネ
第1話 真実の口
「もうだめだぁ!」
八月もそろそろ終わりを迎えるというのに部屋は寝付けないほど蒸し暑くって、私はお腹にかけていた薄手のタオルを跳ね飛ばして起き上がった。
おやすみタイマーでオフになっていたエアコンの電源をポチッと入れると、すぐにひんやりとした風が吹き出して、室内に
す、ず、しー。きっとエアコンを作ったのは神様だ。
「ふぁふ」
中途半端にあくびを噛み殺しながらスマホのホーム画面を確認した。
時刻は深夜の二時を回っている。
でも大丈夫。
これで眠れるはずだから、とベッドに再びゴロンと転がった。
大丈夫、だと思ってた。
でもだめだ。
あー、うん。
私は今、喉が乾いている。
******
私は――
霊感があると思ったことはないし、自分の内に不思議な力を感じたこともない。
大して美人なわけでもないし、ちょっとおかしな兄がいるだけの、
だから、そうつまり、
普通の人にも起こるようなことしか、私の前では起こらないってことでしょ?
******
「おばけなんてなーいさ、おばけなんてうーそさ」
冷蔵庫には
家族で共用の色気のないサンダルを突っ掛けて外に出ると、私は星のない夜道にわざと足音を立てて歩いた。小さい頃にテレビから流れていた童謡を口ずさんでみたりしながらだ。
そうでもしないと『しん』と静まり返るあたりの空気に飲み込まれてしまいそうだったから。
「ねーぼけーたひーとが、みまちがーえたーのさ」
家の周りは住宅地だけれど、灯りのついている建物はほとんどない。
代わりに昼間なら意識することもないのっぽの街灯が間隔を空けて、私の歩くコンクリートの道をぼんやりと照らしている。今日は月が出ていないのも相まって、その光はなんだか心許なかった。
さすがは真夜中って感じだ。
住み慣れた街がまるで異世界に飲み込まれてしまったみたいに雰囲気を変えていて、私の胸をいろんな感情が行き来する。ドキドキが三割、それからワクワクが五割、残りは……もしかしたらちょっとだけ不安なのかも。
うまく表現できないけれど、
「だけどちょっと、だけどちょっと、……ぼーくだってこわいな」
自動販売機は、なぜかそこだけ街灯の途切れた暗がりの中にポツンと
暗がりとは言っても、自販機はそれ自体が光っているのだから当然真っ暗ではなくて、『さぁ選べ』とばかりに商品見本の缶やビンがずらりと並んでスポットライトを浴びている。
街灯の
まるでここだけは更に別の世界みたいに、なんだか周りから浮いている。
正面に立って、私はお目当てのものが売り切れていないことを確認した。
――安眠ミルク 冷た〜い 130円
肩にかけていたポシェットから小銭を取り出して、投入口に一枚ずつ入れる。と言っても十円玉がなかったので、百円硬貨を二枚だけだ。
ボタンを押すと、四角い箱の中でガラガラと商品が降りてくる音がした。
視線を落として、それから、
「……あ、」
そうして私は思い出す。
小さな頃、私には自動販売機が苦手だった時期がある。
きっかけは確か、きっと誰でも目にしたことのある映画のワンシーンだ。
外国のお話で、綺麗なお姫様がスマートな男性とデートをしている。男性にエスコートされて、二人は人の身長ほどに大きな顔の
男性はそこでこういうのだ。
『これは真実の口。
伝説では嘘つきが手を入れると、その手は食いちぎられることになる』
嘘つきでないことを証明するために、女性にその手を入れてみろというのだ。
目の前にあるのがただの石像で、男の言葉が単なる迷信と分かってはいても、女性の顔には不安が浮かんでいて、観ている私も緊張したのを覚えている。彼女はささっとその手を抜き差しして、もちろん何も起こらなくて、私もほっと安心して、だから彼女の次のセリフをぼぅっと聞いていた。
『あなたの番よ』
男性が
ゆっくりと、緊張を感じさせる所作だった。けれど少し入ってしまえば表情に余裕も出てきて、女性に微笑みかけたりなんかして、そうして奥まで手を伸ばしたところで、――男は腕を抑えて突然叫び出すのだ。
ゾッとした。
見えなくなった腕の先が、どうなってしまったのか想像もできなくて、私は長いこと目を
だって怖い。
男は嘘つきだったから、食べられてしまったのかもしれない。
指を……、もしかしたら手首まで。
考えるだけで冷や汗が出て、気分が悪くなったのを覚えている。
後から聞いた話では、それは男性の冗談だったらしい。
それに焦る女性がコミカルで愛らしく、映画史に残る名場面になったのだというけれど、私がそのことを知るのは本当にずっとずっと後になってからのことだった。
私は続きを見なかったから。
長いこと、私にとってあの映画は男性の腕が食いちぎられるところで止まっている。
吹き出す血、飛び散る肉片。
見てもいないのに私の頭にはそんなイメージがこびりついている。
それから、そう自動販売機が苦手だったのだ。
落とした視線の先には真っ暗で奥の見えない商品の取り出し口がある。
曇ったプラスチックのカバーの向こうで、微かに揺れる缶の
足元までは届かない光が、却って闇を濃くしているような気がした。
こく、と喉が鳴る。そうだ、私ってば喉が渇いている。
買った飲み物を持って帰る。それだけだったはずなのに、どうしてか緊張している。
お金も払って缶はすぐそこにあるのに、なかなか手が伸ばせない。
少し……周りが暗いだけだ。
あたりに……人がいないだけ。
音もないけど。
そういえば、丑三つ時……だったっけ。
目の前にあるのは、もちろん真実の口じゃない。
ただの――昼間であれば見慣れた――本当にただの自動販売機。
怖がる必要なんてないはずなのに、手の震えがなかなか
真夏、だよね。気のせいだとは思うけれど、肌寒さすら感じ始めている。
「おばけなんてなーいさ」
口ずさみながら、勇気を奮い立たせる。
大丈夫、……大丈夫。
「おばけなんてうーそさ」
ゆっくり、取り出し口に手を伸ばす。
腰を曲げて屈まないと届かないせいで、視界が狭くなるのがすごく嫌だった。
「ねーぼけーたひーとが」
カチャン、と指先がカバーに届いた。
些細な音も出すのが怖くて慎重に跳ね上げる。
それだけで呼吸がちょっと荒くなる。
腕をその先へ、その、奥へ伸ばす。
もう、すこ、し――
「みまちがーえたの……さ」
次の瞬間、缶は私の手に収まっていた。
急いで引き上げる。
安眠ミルク。結露した表面はびしょびしょで、抱えた胸が濡れている。
「なんっともなかったぁ」
当たり前のことだけれど、ホッとして全身の力が抜けていくのを感じた。
私はただ、自分の買った商品を自動販売機から取り出しただけだ。
おかしなことが起こるはずなんてない。
あたりが暗くても、周りに誰もいなくても、静かでも丑三つ時でも。
止まっていた呼吸に気がついて、息を大きく吐き出した。
私の小さな冒険は、これでおしまい。
帰ろう。
明日も早いから、これ以上遅くなると翌日の私に支障が出てしまう。
家に向かって、踵を返した。
「あ、お釣り」
カチャ、
「ひ――――――――――――――――――――――――――――」
******
私は――
霊感があると思ったことはないし、自分の内に不思議な力を感じたこともない。
大して美人なわけでもないし、ちょっとおかしな兄がいるだけの、平板で凡庸な女子高生。
開帝学園一年二組、名簿番号は二十五番。B型で、蠍座で、今日の運勢は中吉。
だから、
私に起こったことは、もしかしたら『普通』の人にも起こるのかもしれないね。
そう、あなたにも。
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