それはないよお雪さん

小石原淳

第1話 約束

 僕と彼女、越してきてまだまだ日の浅い新居に二人きり。ゆったりとした雰囲気が時間とともに漂っている、そんな穏やかな空間だった。それが一変したのは、僕がある思い出話を語り終えたとき。

「――それは私です」

 しばらく黙っていた僕の女房――内縁関係だが――、須能悠季すのうゆうきは、おもむろに口を開くと言った。

 僕が感情が揺さぶられ、何も言えないでいる。やっと言葉を絞り出そうとしたところへ、彼女の台詞が被さった。

「何故、あのときの約束を破ったのですか」

 え?

「あのときのことは誰にも言うなと、あれほど口止めしたではありませんか。もしも誰かに話したら、そのときはあなたの命を奪うと。なのに吉男よしおさん、あなたはしゃべった。しゃべってしまった」

「……」

 僕は混乱する頭の中で、どうにかこうにか“あのとき”のことを思い起こしていた。


   ~ ~ ~


 確か、高校一年生のときだった。週末を利して、親父と一緒にスキーに行った。何でまた連休でもない土日を使って、親父と二人でスキーに行ったのかというと、翌年に控えている修学旅行に備えてのものだった。

 僕は小さい頃から美少年扱いされて、女子からもてた。その期待に応えたという訳でもないんだけど、勉強や運動は一通りこなせていい成績を収めていたと思う。ただ一つ、滑るスポーツは大の苦手。スキーもほとんど経験がなく、下手っぴなまま高校生になっていた。折角、格好いいイメージを持たれているのに、女子の前で恥を掻きたくないなあ……そんな気持ちを冗談半分で親父に言ってみたところ、よしそれならスキー場に連れて行ってやろう、特訓だ、となったのだ。

 思春期を迎えていた僕は、でも親父のことは全然嫌いじゃなかった。スキーの特訓自体にはあまり気乗りしなかったんだけれども、親父と一緒にちょっと遠出できる楽しさの方がまさった。

 ところが。

 二日目、つまり日曜日の午後になって、天候が崩れた。天気予報でもやや荒れ模様になる見込みだと伝えていたが、“やや”。どころではない猛吹雪の有様。まだまだうまく滑れない僕は内心ぶるってしまって、足がすくんだのを覚えている。辺りは横殴りの雪ですべて白く――灰色に近い白に染まり、視界を悪くした。それでも無理をして滑ろうとしたのが失敗だったのか、僕は転んで足首を痛めてしまった。

 あいにく、携帯端末の電波状況が悪く、助けを求めるのは無理。

 親父はその日の内の帰還は難しいと判断し、吹雪を避けられる場所を探し始めた。緊急用のプラスチック製のスコップ――いざというとき、雪洞を掘って身を隠す――を携帯していたが、それを使う前に、古い掘っ立て小屋を見付けた。幸運だったとそのときは思ったものだ。

 親父の肩を借り、小屋に辿り着けた。中には囲炉裏や布団などがあった。暖を取って人心地つくと眠くなってきた。空腹だがまともな食料は持っていなかったこともあり、早めに休んで体力の温存・回復に努めるとした。

 そして、僕は目が覚めた。時計を見なかったので、時刻は分からない。多分、真夜中の二時くらいか。徐々に収まりつつあった風が、急に強くなった気がして、起きたのだ。

 上半身を起こすまでもなく、顔の肌で感じる空気が冷たい。囲炉裏の火が消えたのかなと目を向けると、赤い光が見えた。若干小さくなってはいたけどちゃんと燃えている。

 視線を戻そうとしたとき、親父の様子が目に留まった。

 仰向けに横たわっていた親父が、全体的に白っぽく見える。何だか分からないが、白いカビでも生えたような……いや、あれは霜? 僕は眠い目をこすった。改めて目を凝らすと、親父の身体に覆い被さるようにしている何者かがいると気付いた。

 長い黒髪の持ち主で、白い和服をまとった女だった。女は口から白い息――冷気を親父に吹きかけている。僕は程なくして理解した。親父は凍らされたのだ。

 ということは、女は……雪女?

 ぞっとした。親父はすでに死んだのか? 安否が気になるが、それと同等にとにかく恐ろしかった。気付かれたら、自分も親父と同じ目に遭わされる……? 僕は首をすくめ、掛け布団に潜り込もうとした。

 が、雪女は気配を感じたのか、こちらを振り向いた。長い髪をかき上げ、その切れ長で美しくも恐ろしい目で僕をとらえる。僕はすでに凍らされたかのように動けない。

「おまえは」

 雪女が声を発した。意外と温かみの感じられる、優しげな声だ。しかし、吐く息は濃霧の如く白い。

「この男の子供か」

 そうです、と返事したつもりだったが、実際には声にならなかった。機械仕掛けのおもちゃの人形みたいに、こくこくと首を縦に振るばかり。

「そうか。この男は禁忌を犯した――前に一度警告したにもかかわらず、入ってはならぬ場所に足を踏み入れた。それ故、約束した通りに命を奪った」

 親父はやはり死んでいた。哀しみが涙とともにこみ上げる。けれども、その涙は凍ってしまったのか、途中で止まった。恐怖が上回ったのだ。

「本来なら、おまえも同じ目に遭わさねばならぬ」

「……」

 半身の姿勢で、死の宣告を受けた。そのまま倒れ込みそうになる。

「だが、おまえは見たところまだ若くて、それにとてもきれいだ。命を助けてやってもよい」

 希望の光が見えた。それでもなお、身体を動かせない。金縛りにかかルと、こんな感じかなと頭の片隅で思ったけれども、現状の前に吹き飛んだ。

「一つ条件がある。おまえの父親は約束を破ったが、おまえはどうかな? 守れると誓うか」

 雪女の笑みまじりの問い掛けに、僕は待たしてもこくこくと首を縦に振った。もう無我夢中だった。普通の心理状態なら、条件を聞く前に一も二もなく受け入れるなんて、あり得ない。

「約束を守ると誓えるか、そうか。ならば、私とおまえとの大事な約束だ――ここであった出来事は誰にも言ってはならん。よいな」

「……」

「どうした? 何か不満でもありそうな顔に見えるぞ?」

 雪女に問い返され、やっと僕が声を出せた。

「お父さんのこと、どう説明したら……」

「そうであったな。おまえには気の毒なことをした。この男の死は、凍死とされよう。おまえを守るために身を挺した結果、命を落としたと解釈される。おまえはその結論に対して、真実を漏らしてはならんぞ。よいな」

 僕はすべて受け入れるしかなかった。


   ~ ~ ~


「誰にも言ってはならんと、あのときの私はあなたに言った。約束しましたよね?」

 須能悠季の声は、あのときの雪女のそれになっていた。言葉遣いが丁寧なままなのは、僕の妻である意識もまだちゃんと残している、という証左なんだろうか。

「約束は約束です。破ったからには、私はあなたをあなたの父親と同様に、殺さねばなりません」

 須能悠季はすっと膝を立てて、座布団から離れると、今度はゆらりと音もなく僕へと接近してきた。両手を伸ばしているのは、僕をとらえるためか。瞳がどこか悲しげに映る。

「ちょ、ちょっと待って」

 僕は右手の平を立て、相手に向けて突き出した。

「何?」

 案外素直にストップしてくれた彼女。その一方で、目の悲哀は色濃くなった気がする。

「今さら命乞いをしようと言うのですか」

「違う。命乞いなんかじゃなくって……そう、正当な反論だ」


 続く

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