04-03
やはりすぐに帰る気にはなれずに、少し歩くことにした。名越あたりに言わせると、こういう俺の傾向はずいぶん変わっているらしい。
「目的もなく歩き回るなんて、犬でも連れてないと耐えられない」と彼は言った。俺としては、目的なんてないほうがよっぽど気楽だと思うのだけれど、そこは個人の考え方だ。
ふとこの間の猫のことを思い出し、例の公園に立ち寄ってみると、桐島遥が私服姿でベンチに座っていた。
彼の膝の上で、猫が眠っていた。桐島の表情は、普段目にするものよりも、いくらかやさしげだったが、そう見えただけのことかもしれない。
掛ける言葉に迷って、黙ったまま近付くと、彼は俺に気付いて笑った。
「部活か?」
制服姿を見て察したのだろう。頷いてから、ひとりぶんくらいの空白を挟んで、俺は桐島の隣に腰掛けた。
「その猫、このあいだの?」
「だな。まだ短いが、髭がいくらか伸びてきた」
「様子を見に来たのか?」
「そういうわけでもない。けどまあ、べつにそう思ってくれてもいい。気まぐれだ。俺の家はこの近くだしな」
「ずいぶん懐かれたな」
「誰かが餌付けでもしてるんだろう。もともと人懐っこいみたいだ。じゃなかったら、子供に囲まれたらすぐに逃げてただろう。そっちは何してたんだ?」
「俺はべつに、ただ、解散になって、暇だから歩いてただけだよ」
「今年はずいぶん張り切ってるな」
「広瀬が人形劇をやろうって言い出したんだ」
「人形劇?」
桐島は意外そうに声をあげてから、軽く笑った。
「脚本は須川か。広瀬は本当によくやるな。当てつけみたいなもんなのか」
「そういうわけでもないだろうけど」
「いいや、広瀬はそういう奴だ」
桐島ははっきりとそう言った。
「どうせ須川の脚本の出来を俺に見せつけてやろうって算段だろ。あいつはそういう奴だよ。問題の須川の脚本が、俺を反省させるほどの出来じゃないかもしれないなんて露ほども考えない。なにせ、そうなっても広瀬のせいじゃないしな。ああいうのは一種の卑怯さだ」
広瀬のことについて、あえて反論することはしない。桐島の言う通りなのかもしれないし、仮にそうじゃなかったとしても、俺ができる話なんて想像の域を出ない。
「たとえ良い出来でも、桐島はどうせ須川の脚本なんて褒めないだろうけどな」
かと言って黙っているのも変だと思ったので、そんな皮肉を返してみると、桐島はあっさりと否定した。
「いや、あいつの脚本は良い」
俺はその言葉に面食らった。
「読んだことあるの?」
「そういうわけじゃないけどな。前に演劇部の奴に話を聞いたって言ったろ。そのとき須川が言ってた話の内容も聞いたんだ。それを聞いて、悪くない、と思った。あいつの書いたもの、俺はたぶん好きになるだろうな」
「だったらどうしてあんな言い方したんだ?」
「俺の名前のことを言ったからだよ」
そうだった。こいつはこういう奴だった。俺は思わず溜め息をつく。俺が気にするようなことでは、ないのかもしれないけど。
桐島は膝の上の猫の背中を指先で撫でた。その手つきは、壊れものを触るようにやさしく静かなものに見えた。
「しかし、広瀬もそうだが、おまえにも感心するよ、矢崎」
桐島は、猫の背中を撫で続けたまま、俺の方に視線をよこした。その目には、かすかな憐れみのようなものが宿っているように見えた。
「……なんだよ、急に」
「いや。篠原のこと、好きだったんだろ?」
いつもみたいな皮肉も挟まず、嘲るような笑みも浮かべず、桐島は言う。
「俺もあいつとは付き合いが長かったからな」
ああ、そうか。桐島の家はこの近くだと言っていた。それなら、小中の学区は篠原と同じになるだろう。
「篠原は……」
何かを言いかけて、桐島は話すのをやめた。言っても仕方ないことだと、そう思ったのかもしれない。
好きだったんだろ? 桐島はそう言った。
不思議なものだ。俺の気持ちはかけらも変わっていないはずなのに、篠原について現在形で語ることを、誰も許してくれない。
◇
去年の夏休みのある日、篠原ひさぎから唐突に連絡があった。俺は彼女に連絡先を教えていなかったので不思議に思ったが、話を聞いてみると、ただ広瀬に教えてもらっただけのことだったという。「なにしてるかと思って」とそっけないメッセージが画面に表示される。
特に何も。篠原は? そう訊ねた。
わたしも特に何も。課題やってた。
それから彼女は、七月のはじめ頃から公開された新作映画を観たか、と訊ねてきた。観ていない、と俺は答えた。
その映画が気になる、評判がいいらしい、というようなことを、彼女は言った。
これは試されているのか? 俺はそう思った。まあ、単に一緒に観に行く相手がいなくて困っているだけだたのかもしれない。
「だったら観に行こうよ」
と俺から言った。
「いつ?」
「じゃあ、今日」
「ほんとに?」
「ほんとに」
俺は駅の近くにある映画館の上映時間を携帯で調べて、スクリーンショットした画像を篠原に送った。上映が始まったばかりだからか、どのくらいの時間に行ってもそんなに待たずに見られそうだった。返事を待ちながら、俺は自分の気持ちが浮ついていることに気付いた。
映画を観るのは午後からになった。時間的には昼前のものにも間に合いそうだったが、篠原が午後からがいいと言ってきた。俺はそわそわしながら待ち合わせの時間まで暇を潰し、結局落ち着かずに待ち合わせの場所の駅前に早めに向かった。篠原は既にそこで待っていた。
「ずいぶん早いね」と思わず言うと、「そっちもね」と篠原は笑った。
篠原の私服姿を、俺はそのとき初めて見た。淡く明るい色の服を着て、白いリュックサックを背負った彼女の姿は、俺を戸惑わせた。彼女の姿は街を歩く人々のなかに綺麗に馴染んでいた。その光景に、ほんの少しだけ、劣等感に近い気持ちと、気恥ずかしさに近い気持ちを覚えて、俺は彼女の方をまっすぐに見られなかった。
時間にはかなり余裕があったけれど、俺たちは早めに映画館に行ってチケットを買い、ロビーで休んでいることにした。彼女はポップコーンとアイスコーヒーを買った。
夏休みに合わせて子供向けの映画が多く上映されているせいか、館内は子供連れで賑わっていて、俺たちは何か話をしようとするたびに相手に耳を近付かせなければいけなかった。
「なんだか不思議な感じがするね」と篠原は言っていた。
俺も同じことを思っていたので、深くは訊ねずそのまま頷いた。いったい周りには、俺たちがどういうふうに見えているんだろうか、とか、そんなことを考えながら。
上映開始の時間が近付いてシアターに入ると、中はがらんとしていた。夏休み中だというのに、俺と篠原以外には二、三人の観客がいるだけだ。彼女が観たがっていたのがむずかしそうな洋画だったからというのもあるかもしれない。ひんやりとした空気が暑さに火照った体に心地よかったのを覚えている。
映画の内容には、あまり集中できなかった。隣に篠原がいたからだろうと思う。
上映が終わって映画館を出たあと、特に予定が決まっていたわけではなかったけれど、俺たちはどちらも帰るとは言い出さなかった。
とりあえずどこかに入ろうか、と俺が言うと、それなら近くに気になっていた店がある、と篠原は教えてくれた。
そこは落ち着いた雰囲気の洒落た喫茶店だった。
もしひとりだったら入ろうともしなかっただろうな、と、そんなことを考えていたら、篠原は同じことを言った。
「なんだか、ひとりだったら入るのをためらっちゃうよね」
その言葉に、不思議と安心したことを覚えている。
テーブル席について注文を済ませてから、篠原はどこか緊張したような様子で視線をあちこちにさまよわせた。
「どうだった?」と篠原は訊いてきた。
「なにが?」
「映画」
「ああ、うん」
俺は困ってしまった。漠然とした印象のほかには、ほとんど何も覚えていなかったのだ。どうにか筋だけは追っていたけれど、感想と言われると思いつかない。
「つまらなかった?」
まるでそれが自分の責任であるかのように、彼女は不安そうにした。篠原はいつもそうだった。不安がって、心配して、責任を感じて、自分を責める。
「ごめんね」と彼女は言った。
「いや、違う。ただ、感想を言うのが苦手なんだ」
「苦手?」
「うん。なんだか、言葉にすると安っぽくなりそうで」
「ああ、うん。それは、なんとなくわかるかもしれない」
「でも、そうだな。悪くなかったと思う。篠原は?」
「うん。……実はあんまり、集中できなくて」
「俺のせい?」
「あ、ううん。そういうわけじゃないけど」
ならよかった、と俺はひとまず言っておいた。篠原は困ったみたいに笑った。
「でも、よかったと思う」
何の話だろう、と一瞬疑問に思ってから、それが映画についての言葉なのだとわかった。
「わたし、人が死ぬ話が苦手なの」
「へえ。どうして?」
「ごめん、違った。なんていうか、人の死を絡ませて、生きることを肯定するような話が苦手なんだろうね」
「……ごめん、どういう意味?」
「死から逆照射される生なんて、そこそこ綺麗に見えるに決まってるもの」
篠原はそう言い直してくれたけれど、俺には彼女の言っている意味がわからなかった。
「でも、何かとの比較で自分の居る場所を再認識したとしても、そこにあるものはひとつも変わっていないと思うんだ。病気の人と比べたら、健康な自分は恵まれているかもしれない。でも、だからといって、そこに苦痛が存在しないことにはならないでしょう? わたしはそれについて話してほしいの。どうせ肯定するなら、何かと比べて、じゃなくて、ただそれそのものを肯定して見せてほしいの」
「なるほど」と頷いた。わかるような気もしたし、まったくわからないという気もした。それはそもそも、俺に物語を楽しむ素養がないからだったのかもしれない。
俺の相槌をどう解釈したのか、篠原はまた「ごめん」と謝った。
「どうして謝るの?」
「つまらない話、しちゃったかなって」
「そんなことはないよ」
「うん……」
きっと彼女は、俺の否定を社交辞令のように受け取ってしまったんだろうと思う。申し訳なさそうな顔をしたままだった。
この際だと思って、俺ははっきりと言っておくことにした。
「あのさ、篠原、つまらないなんてこと、ないよ。そんなに心配するなよ。俺は篠原の話を聞くのが好きだよ」
彼女はあっけにとられたような顔で俺を見た。少し言い過ぎだったかな、とも思ったけど、そこで引っ込めたらまた篠原が気にしそうに思えて、堂々としていることにした。
「本当に?」と篠原は意外そうな顔をした。
「そう」と、俺は頷いた。
注文したコーヒーが届けられ、俺たちの会話は中断させられた。
ありがとう、と篠原は小さな声で言った。
その日から俺は、開き直ったみたいに篠原をあちこちに連れまわすようになった。映画を観て、買い物に出かけて、図書館で一緒に課題を進めて、少し遠くの水族館に行って、とにかく思いつくかぎりの場所に篠原と出かけた。
篠原のためにそうしたわけじゃない。でも、篠原がそんなふうに、自分を責めてばかりいるから、その仕返しをしてやろうと思ったのだ。
誘った映画がつまらなかったかもしれないとか、自分の話が退屈だったかもしれないとか、そんなのは自分を責めるようなことじゃないはずだ。迷惑かもしれないとか、嫌な気持ちになったかもしれないとか、そんなのは篠原が気に病むことじゃないはずだ。
だから俺は、彼女とあちこちに行った。その結果、彼女が退屈だったとしても、俺の話をつまらないと思ったとしても、それでもかまわないと彼女が思えるなら、彼女だって俺にそうしていいはずだと思ったから。
夏休みが終わる頃には、篠原は何の用事もなくても、ときどき俺のことを呼び出すようになった。ただ話したいことがあったから、とか、そんな理由で。
そうして俺たちは、篠原の家の近くにある公園のベンチに腰掛けて、いつまでも一緒にいられた。
それを俺が嬉しいと感じていたことを、彼女は知らなかったのかもしれない。
今でも思い出すのはそのときのことだ。
夏の終わりの日暮れの赤に染まりあって、木立の下のベンチで虫の声を聞いた。話すことがなくなっても、ずっと隣り合って座ったままだった。
彼女の指が、あるとき不意に、俺の手の甲に触れた。臆病な猫が、何かをたしかめようとしているみたいに、触れてはすぐに離れていった。何も言わないでいると、気付かせようとするみたいに、また近付いてくる。何度か、その繰り返しだった。やがて彼女は、叱られないのを知ってほっとしたみたいに、手の甲に指先をのせたまま、なぞるように動かしはじめた。
ああ、なんてやつだ。そう思った。
俺は手を翻して、彼女の指先をつかまえた。
一瞬だけ、驚いたように彼女の手がぴくりと動いたけれど、俺が掴んだままでいると、やがて諦めたように力が抜けた。
俺は何も言わなかったし、篠原も何も言わなかった。互いにそっぽを向いたまま、それでもずっとそのままでいた。
なんだか夢の中にいるみたいだな、と、そう思ったのを覚えている。
あの感覚は、けれど、今はもう、俺のなかにはない。ただ、こんなふうだった、と回想するだけだ。記憶の手触りも段々と曖昧になっていき、頭のなかで作り変えられているような気がする。そうしていつかは、俺も彼女のことを忘れるんだろうか。いつかは、ただの思い出のように感じてしまうんだろうか。
◇
広瀬から連絡があったのは、彼女が突然帰ってしまった日から、さらに五日が過ぎた日のことだった。
親戚に不幸があったのだ、と彼女は言った。
今後の予定について、広瀬はなにひとつ触れなかった。俺も触れられなかった。名越と須川も、きっとそうだったと思う。
べつにどうしても人形劇がやりたかったわけでもないはずなのに、俺は燃え尽きたように何もする気が起きなくなった。やりかけた課題も、始めようと思っていたバイトも、どれもこれも中途半端に投げ出してしまった。
いつものように家事をこなして、余った時間は何もせずに無意義に過ごして、たまに紗雪に付き合って映画を観て、そうしているといろんなことがわからなくなった。どうして俺は、平気で暮らしているんだろう。何もなかったみたいに、当たり前の生活を続けているんだろう。篠原は死んでしまったのに。
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