第84話「大人になった時」
偶然の再会にも驚いたのだが、それ以上にアキラさんが酒を片手に夜の街を一人で放浪していることにも驚いた。
これまで出会った時もふらりと現れる印象だったが、それはストリートミュージシャンとしてであり、酒飲みのイメージは無かった。
「ここであったのも何かの縁だね、少し付き合ってくれないか」というアキラさんの誘いに、俺たち二人は勢いよく首を縦に振った。
アキラさんと対話できる機会に比べれば、修学旅行の夜に宿を抜け出す程度の事は些末なことだ。
一応、宿方面に向かって歩を進めていると、屋台車のラーメン屋があった。
バンの後方が改造され、寸胴から湯気が立ち込めている。道路には簡易的なテーブルとイスが並んでおり、少し肌寒い秋の夜でもラーメンがあれば暖かそうだった。
俺たちはアキラさんに導かれ、屋台ラーメンをありつくことになった。
ラーメンを待つ間、俺たちとアキラさんは挨拶程度の雑談を交わす。
あれから俺たちはバンドを続けて、RISE・ALIVEのステージを目指していることや、スタジオ『しろっぷ』の相変わらずな閑古鳥が鳴く営業っぷりなど、地元の話題に懐かしそうに目尻を曲げていた。
一方のサラは、アキラさんとは初対面であり、全国的に有名なアーティストを前にガチガチに緊張していた。
「今は全国ツアーの最中でね」
提供されたラーメンを前に、アキラさんは滔々と語り出す。
それはおそらく、柄にも無く酒を片手に夜道を一人、放浪したくなった理由ともいえよう。
俺たちは麺が伸びるのもお構いなしに、彼女の語りに耳を傾ける。
「世の中には、なかなかうまくいかない事もあることを改めて思い知った。私なんて、やっぱりこの大きな世界の中じゃちっぽけな存在で、まだまだ子供だったのだと思い知ったよ」
彼女は憂いを込めた視線を、ラーメンの油が浮くスープの表面に落とす。
俺が知るアキラさんは、常に唯一無二の存在で、俺の知らない『答え』のようなものを持っている人だと思っていた。
でもそれは、俺のアキラさんへの憧れの気持ちが大きいからであろう。
憧れは理解から最も遠い感情だなんて、昔マンガで読んだ気がするが、まさか実際に実感する日が来るとは思っていなかった。
そんな俺の感慨もよそに、アキラさんは話を続ける。
「ある時、1通の手紙がマネージャーから渡されたんだ。それは、丁寧な文字でしたためられた、ファンレターだった」
「その差出人は、人生に行き詰まりを感じていたそうだ。三十代の男性で、学生時代の友人の誘いを受け起業したものの、時代の潮流に押し流され会社の経営はうまくいかなかった。借金を抱え、上手くいかない人生を呪い、もう全て諦めてしまおうとしていたある日の夜、私の作品と出会ったらしい」
彼女の歌は、誰かの人生のレールにおいて、些細な1ポイントかもしれない。
けれど、そのきっかけは路線を変更し、終着点を大きく変えることになるだろう。
俺がそうだったように、人生の何か大きくが変わる人が居ることは疑いようがない。
「彼は私の歌で、何かが得られたわけではない。満たされたわけでもない。ただ、もう少しこの歌を聴いて、心地よい瞬間が続いてほしいとリピートを繰り返すたびに、気づけば朝を迎えたそうだ」
「カーテンを開け、朝日を浴びた瞬間、彼は腹が減ったそうだ。思えば、空腹感など数か月単位で感じた記憶がなく、久しく忘れていたものと出会ったような感覚だったらしい。それから、急かされるように外へ出ていき、思いっきり牛丼をかっくらったらしい。ずっと忘れていた空腹感と、その後に押し寄せる満腹感。そして襲い掛かる猛烈な眠気。倒れるように家に帰り、時間も気にせず眠りこけた。やがて目が覚めた時、スッキリした頭で、もう少し頑張ってみようかと思ったそうだ」
「彼にとって私は、命の恩人だという」
俺には、まだ人生を投げ出してしまおうと思った経験はない。
だが、暗い井戸の底に突き落とされたような絶望感に包まれた時でも、音楽さえあれば俺は何とかやっていけるような気がしている。
それはまさしく、俺は音楽と正しく出会うことが出来ただけのことなのかもしれない。
「だけどね。私は今、いろいろな悩みを抱えているんだ。それも、とても贅沢なね」
一方のアキラさんは、そんな感謝の手紙を前に、苦悩している。
アルコールの力や、夜の街という冷たくも冷静な場所を借りて、自身と向き合う対話を続けているようだった。
「私は路上で1人ギターを片手に歌っている時も、大勢のスタッフの協力によって成り立つ大きなステージで歌っている時も、内側に秘めた気持ちは同じだ。だけど、現実はその両者に大きな乖離がある」
彼女は、ラーメンスープの油に映る、自身の顔を眺めているようだった。
「私の生み出す楽曲が売れなければ、給料が上がらない人もいる。私がライブ活動を辞めてしまうと、仕事がなくなってしまう人もいる」
「当然、彼らもみな、プロフェッショナルで確かな技能を持っているのだから、私が居なくても引く手数多な事だろう。けれど、私の歌唱や作曲はもう既に、誰かの仕事の一部になっていて、創作には対価が求められる。時に、私の理想と要求事項が一致しないときもある」
メジャーシーンで活躍するミュージシャン、それに限らず、メディアを通じて作品や声、笑いやニュースを届ける人までもが、個人の理想や思想を自由に発信できるわけではない。
誰かも分からない”大衆”という漠然とした存在と迎合する為に、時に辛酸をなめることも、苦渋の決断をすることもあるだろう。
頭では理解していても、自分がいざその局面に立たされた時、果たして正気で居られるのか自信はない。
そんな問題と改めて、そして俺の想像が追いつかないほどの巨大な規模で渦巻くアキラさんの今の立場に、俺はただ驚嘆の息を漏らすことしかできない。
お冷のグラスに入った大きな氷が解け、カランと音を立てると、アキラさんは話をつづけた。
「その時の選択は、果たして私のことを命の恩人だと言ってくれた人にとってどう映るんだろうか。そんなことを考える事も、まるで自分が誰かを救う神にでもなったかのようで嫌気がさすのだけれど、つい考えてしまうんだ」
誰かの支えになる歌を歌った人にとって、自分の歌の輝きが落ちてしまったとき、誰かもまた道連れにしてしまうのではないかという恐怖。
そして、その恐怖を覚えることへの自己嫌悪。
そんな自意識と理想と現実という板挟みの中に、メジャーの舞台に立つアーティストは居るのだろうか。
「周りの大人たちは、そんなこと改めて考える必要もないとでもいうような態度で、冷徹に仕事をこなしていく。……”大人になった時”とは、自分の両手に抱えきれないものが零れ落ちても、『しょうがない』と割り切れるようになった時のことを差すのかもしれないな」
自分の両手で抱えきれる物がいかに少ないか。
どれほどあがいてみても、全てを抱えていく事は出来ない。
優先度の低いものから、零れて、落として、無くしても。
仕方ないと割り切って歩を進めるようになることが、アキラさんのいう大人ということなのだろうか。
それはただ、痛みや悲しみに鈍感になっていくだけの事のように俺は感じた。
だから、少しの反論をしてみたくなった。
「別に、一人で抱え切れないものがあってもいいじゃないですか。誰かと、一緒に抱えれば」
これこそ、子供の詭弁なのかもしれない。
だが、今の俺にはそれを言う権利はあるはずだ。
少なくとも、大人と呼べる年齢では無いのだから。
俺には酒を飲むことも、夜道を一人で自由に闊歩することもできない。
ただの、子供なのだから。
「……ふふっ、そうだね。君には、あの愉快なバンドメンバーと、そして隣の可愛らしい彼女もいることだしね」
「え、いや」
咄嗟に言われ、俺は言葉に詰まる。
果たして、アキラさんは女性の呼称として彼女と呼んだのか、自分の中で判断に迷ってしまったからだ。
「そう、私にはバンドメンバーが居ないんだ。一人でやってきたから。もちろん、ライブの時にバックでいつも演奏してくれる人たちは居て、音楽的に意思疎通は出来ているんだよ。私は『AKIRA』というミュージシャンの顔と名前と、歌と作曲を担当している八神アキラに過ぎない。沢山の人の努力と誇りの結晶である仕事の上で、初めて『AKIRA』が成り立っているんだ」
彼女はそういうと、どこか納得したような表情でラーメンをすすった。
既に伸びてしまった麵は、それでも芳醇な風味のダシをめいっぱい吸い込んでいて、これはこれで味のある事だろう。
「実はね、似たような苦悩を東京へ進出する直前にも悩んでいたんだ」
「え、それって……」
俺は過去を想起し、俺の過去の出来事にも別な視点があったことを知る。
「そう、その時も考えが頭の中で暴走してしまって、少し頭を冷やしたくて、早朝のアーケード街で歌ってみたり、夜の川に風を浴びにいったりしたもんさ」
アキラさんはコッソリ打ち明けるように、悪戯っぽく笑みを浮かべながら言った。
「あの……」
その時、口を開いたのは、俺の傍らでコチコチに緊張していたサラだった。
アキラさんは、そんな彼女に向かっても柔和な笑みを向ける。
「どうかしたのかい? トッピングに煮卵がほしいか?」
「い、いえ……違います。その、私は音楽の事は完全に素人なんですけど。でも、だからこそ聴き手というか、リスナーの気持ちは凄く分かると思うんです」
そう前置きをするサラは、自分の中で纏まらない感情を喋りながら確かめているようだった。
「ファンレターを送った方の気持ちが、私と同じかどうかは分からないですけど。でも、自分を変えてくれた歌っていうのは、多少の事では揺らがないと思います。……だって、その歌をどう受け取るかは自分自身の価値観なわけで。その歌に人生を変えてもらったというのも、結局は自分がどう受け取り、どう変わるかじゃないですか。だから、それを否定するのは、自分自身を否定することになる……。誰しも、やっぱり自分が一番大事なはずです。だから、自分が好きな歌って、その人の中に一生残り続けて、心の一番大事なところに大切に保管されるような気がするんです」
彼女の言葉に、アキラさんは静かに頷く。
俺は、彼女にとっての大切な歌について想像を巡らせ、やっぱり止めて目の前のラーメンを思いっきり啜った。
「ありがとう。君たちのおかげで、なんだかお姉さんは元気がでたよ。付き合わせてしまって悪かったね。……大将! お会計は私に任せろ」
そういうと、アキラさんは颯爽とクレジットカードを取り出した。
「ごめんな、姉ちゃん。うちはカードつかえへんねや」
「……少年、本当に申し訳ない。ここは君の男気が試されているようだ」
「あはは……いいっすよ。いつか、返してくださいね」
俺はそういうと、ポケットから財布を取り出し、なけなしの紙幣で支払った。
けれど、アキラさんに奢ったという事実は支払う金額以上の価値がある気がした。
屋台を出て、分かれ道に立つ。
次に会う時はライブのステージであるという約束は、もう必要ない。
俺はただ、あの人と並び立つために、粛々と課題をクリアしていくだけだ。
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