第76話「将来の夢」
ハロミスの二曲目、三曲目が終わり、四曲目が始まる。
この楽曲の後にはMCがあり、その時点でメンバーが揃っていないと急遽予定を変更して俺たちの出番を飛ばし、ハロミスがライブを続行する。
予定にないぶっつけ本番の演奏をするなんて、むしろ失敗するリスクも大きい。
そんな約束をしてしまうあたり、そういうところも彼らの主人公感を強めていく。
俺はもう何度目かというほどの、時計を確認する為にスマホの画面を見た時、高鳴る鼓動にようやく気が付いた。
恐怖で、緊張している。
ここにきて、焦り始めた自身の心境に震える。
本当にいつ来るんだよ、ランボー。
そう思った瞬間、楽屋のドアが開いた。
「ランボー! おせえよ!」
スパコンの怒声が聞こえ、俺もドアの方を見る。
そこには、息を切らしながら、「すまねェ。待たせたなァ」というランボーの姿があった。
頭と両手を包帯でグルグル巻きにして、フラフラの足取りで柊木に支えられるランボーの姿が。
「……どうしたんだよ、それ」
「ああァ、ちょっと転んだんだァ。大丈夫だ、ライブやるぜェ」
そういいながら、ギターケースを柊木から受け取ろうとするが、指までグルグルに包帯が巻かれており、上手く握れない。
その瞬間に、痛みに呻くかのように顔をしかめた。
「…………」
言葉が、出ない。
何も言えず呆然とする俺の前に、サラがとある女子を引き連れてランボーの背後から楽屋に入ってきた。
その女子は、ランボーのクラスの委員長、川上理科だった。
彼女は顔面を蒼白にして、唇を震わせて「ごめんなさい……!」と頭を深々と下げた。
その彼女の肩をサラが優しく起こし、「あなたのせいじゃないわ。でも、彼にはちゃんと説明して」と俺を横目に言う。
瞳に涙を溜め、嗚咽が混じりそうな声で川上は事情の説明を始めた。
◇
私はあの日の夜。
両親に自分の気持ちを打ち明けた。
私は、自身が描いた絵を、わざわざ額に入れて作品として仕上げた。
少し汚れてしまったけれど、それはあえてそのままが良いんだと思った。
この絵を完成させるのは、一人じゃできなかっただろうから。
蘭越君がいたからこそ、彼に憧れ、そして励まされたからこそ、この絵の完成に至ったんだと思う。
自分の一番好きな景色。
川の上にかかる、悠然とした人工物の橋。そしてそれを染め上げる朝日。
それは遥か遠くまで続く道のスタート地点のような気がして、私はそこから未来へ向かおうと決意した。
夕食後、両親に進路のことで相談があると言い、進路希望調査表と自分の絵を部屋から持ってきた。
進路希望調査票は、まだ両親が勧める理系大学の名前が刻まれている。
今日はそれを消し、芸術系の大学を記す事を直訴するつもりだ。
「それで、進路について何が問題なんだ?」
お父さんは、眼鏡を押し上げすぐに問題を聞いてきた。
それはまるで、進路は確実に決まっていて、その過程にある障害をどう取り除くかということしか考えていないかのようだった。
「私、絵を勉強したい」
その言葉は、いつものように情けなく震えることも、その場の空気を読んで事を荒立てないようにする気もない、私の本心から出た直球の言葉だった。
それを聞いたお父さんとお母さんは、目を丸くして慌てふためいて、きっと私を説得しようと躍起になる……そんな想像をしていた。
「馬鹿げたことを言うな。そんなことをしている余裕があったら、早く勉強をしなさい」
けれどお父さんは、何の驚きも見せず、冷静沈着にそう返すのだった。
お母さんは、何も言わずに食器を洗っている。日常の家事を止めるまでもないと、その背中はそう言っている。
「え……冗談ではない、本気、だよ」
「理科。受験勉強でストレスがたまるのは理解できる。二年のうちから受験勉強に取り組むのは辛い事もわかる。だが、この高校生の一分一秒はその後の人生のそれとは比べ物にならないほどの価値があるんだ。無駄にするんじゃないよ」
むしろ、優しく諭されてしまった。
激怒された方が、私も言い返せる気がした。
なのに、お母さんもお父さんも、まともに取り合ってくれなかった。
「絵、せめて、見るだけでも……」
額に入った絵を差し出す。
お父さんは受け取らず、目で見下ろしただけで感想を口にする。
「ん? 何だこの絵は。どの画家を参考にしたんだ。お父さんは芸術には疎いから分からないな。……しかし、この絵を描くまでにどれくらい時間を消費したんだ。遅れた勉強を取り返すために参考書が必要だったら言いなさい」
「もう、いい」
私はそういうと、絵を引っ込めて、真っ先に玄関に向かった。
そして、家の前にある電柱の側に、乱雑に額を放り捨てた。
そこは資源回収の定位置で、翌朝にはその他の雑誌や瓶類と一緒に回収され廃棄されるだろう。
私の絵。
蘭越君が好きだと言ってくれた絵。
けれど、その絵は。
お父さんの心を動かす事が出来なかったようだ。
私はそのまま自室に行き、布団の中に埋もれて枕に顔を押し付けて泣いた。
部屋の外では、お父さんとお母さんの会話が聞こえる。
『理科もだいぶ追い込まれているのよ。もう少し気を遣ってあげてくださいね』
『ああそうだな。何か疲労が回復できる栄養の取れる物を買っておこう』
私が絵を描いたことに見向きもしないお母さん。
私の絵に込めたメッセージを理解できないお父さん。
そして、二人を納得させるだけの実力を持たない私。
こんなことぐらいで、たやすく心が折れてしまう私。
すぐに泣いて、自分の中に閉じこもってしまう私。
全部、嫌いだ。
この名前は呪縛のように私に縛りついて、一生苦しめるんだろう。
お前の進む道はこれだと、突きつけられて。
渡された地図通りの道を効率よく進んで。
なんの冒険も感動もないまま、整えられたレールの上を進み、いずれ年老いて死んでいく。
私の人生は、なんてつまらないんだろう。
そう思うと涙が溢れて止まらなかった。
もう、どうでもいいや。
ひとしきり泣き続けると、体から虚勢を張る力すらも抜けていく。
翌朝。
私は気を失うように眠っていたようだ。
既に陽が昇り、世界は動き出し時刻はもう昼に近い。
普段であれば、休みの日であろうと朝は両親に起こされるのだが、昨日の一件のせいか睡眠を十分にとる事を優先されたようで、今日は起こされなかった。
私は、スマートフォンにある通知に気が付く。
蘭越君から。結果を教えてほしい旨の内容。
私は、頼りない指先で絵の事はあきらめる内容を伝えた。
まもなく、既読となる。
『待ってろ。今すぐ行く』
その一言に、私の心は白日の下に晒されたような気持ちになった。
◇
息を切らして、現れた蘭越君に昨日の経緯を説明する。
私の家の前。
住所をメッセージで教えると、私は着替えを済ませて家の前の電柱にもたれて彼を待った。
昨晩捨てた絵は既に資源回収によって運ばれており、電柱の陰にはもうなかった。
私はそのポッカリと空いた空間を認識しながら、やがて現れた蘭越君に昨夜の事を告げる。
「わりィ、オレは行くぜェ」
するとすぐに、彼は踵を返して走り出そうとする。
「行くって、どこへ? ライブは?」
私は、彼がこの後大事なライブがある事を知っている。
知っていて、こんなことをしてしまったのだ。
「大事なモン、取りに行くんだァ! もちろんライブにも遅れねェ!」
そういい、疾走する蘭越君の後ろ姿は眩しすぎて、私の行動力の無さや意志の弱さが浮き彫りになったかのようで、より一層自己悪感が湧いた。
*
ようやくライブ会場に登場したランボーは両手を大怪我していた。
両手は包帯を分厚くグルグル巻きにされている。そうしないと、流血が外まで見えるからだと柊木は言った。
どうやら、ここまでくる道中でドラッグストアに立ち寄り、何とか怪我を隠せるようにしたのだろう。
「クソッ……少しばかり、ギターが弾けねぇかもしれないが、歌は歌えるぜェ……」
そういうランボーの息は絶え絶えで、体の怪我によって体力は万全ではない事がありありと伝わる。
声量も出ず、指先も怪我をしている。コンディションは最悪だろう。
「さァ……リハできなかった分、ちょっとはセッティングを……」
それでもなお、歩いていこうとするランボーに俺は声を荒げた。
「……ざっけんな! ふざけんなよ!」
その瞬間、楽屋に居る全員は呼吸をすることを忘れたかのように、静まり返った。
「……なんで、なんで大事なライブの前に怪我なんかしてんだよ!」
生まれて初めてかもしれない。
俺は、自分の気持ちが抑えられなくなるぐらいの怒りで、叫んでいた。
楽屋に居た一同は返す言葉もなく、激昂する俺に驚いている。
ランボーが、のっそりと振り向く。
その顔は真剣な表情で、俺の怒声を正面から受け止め、それでいて俺に立ち向かうようだった。
だから俺は余計に腹が立ち、口は暴走を始め勝手にまくし立てる。
「解散がかかったライブなんだぞ! すげぇ人数が見てるんだぞ! 失敗できないんだよ……、俺の夢、なんだよ。ネクスト・サンライズを勝ち抜いて、RISE・ALIVEのステージに立つ、その為だけに、俺の青春はあるんだ……それを、そんな絵なんかの為に無駄にしてんじゃねえよ……!」
そんなつもりはない。
頭では、分かっているはずなんだ。
俺がどれだけの気持ちで臨んでいるとかそんなことを言い張ったところで、意味がないことぐらい。
けれど、その時の俺には、俺たちのバンドが解散するかもしれないライブよりもランボーが川上理科の絵を守る事を優先したことが理解できなかった。
「あァ……? クチナシ、テメェはオレの大事なモンを『そんな絵』呼ばわりするつもりかァ……」
ランボーは、俺に対抗するように目頭を尖らせる。
「そうだよ、別に絵なんて書き直せばいいだろ」
「ちげぇだろォ! 魂込めた一瞬の作品っつうのはそんな軽々しい気持ちで、やり直しができるもんじゃねェのはオレたちが一番よく知ってるだろォが!」
ランボーもランボーで、俺に負けないほどの怒気を含んで叫び返した。
遠くから、ハロミスの演奏と盛り上がる会場の熱気が伝わってくるが、対照的に楽屋の雰囲気は凍り付く。
「オレにとってはなァ、完成したこの絵を見た時に衝撃が走ったんだ。それまでオレが悩んでいたモヤモヤを全部スッキリ吹き飛ばしてくれるような答えがここにはあったんだよォ」
「知らねぇよ! じゃあどうすんだよこのライブは!」
お互い譲る事の無い、平行線の怒鳴り合いだった。
「待って!」
その終わりのない口論を止めたのは、なんと川上理科だった。
「蘭越君は……何よりもバンドの事を大切にしているの、それは信じてほしい」
震える声で俺とランボーの間に彼女は立つと、俺に向かって説得するように話を始める。
「私の絵を大事にしてくれることも、蘭越君の夢のための大事なことなの。だって蘭越君は、ずっとずっとこのバンドを続けることが将来の夢だって、言ってたから」
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