06

ハーマン製薬から数十キロ離れたサンフランシスコの郊外にシェパード小児病院という小さな病院がある。

昔からある個人病院で地元の人からも親しまれていた。

 

院長のアリス・シェパードは院長室で、遅めの昼食のドーナツをかじっていた。

その目は虚ろで天井にいた小さな虫をぼんやりと追っている。

大きなため息を一つついて、デスクの上のコーヒーに手を伸ばす。

しかし目測を誤り、アリスの手はカップをはたいてしまった。


「あっ……」


口に出すのが早いか、プラカップはデスクから落下する、ペシャっと音をたてて、床にカフェオレがぶちまけられた。

しまった……とアリスが椅子から降りてカップを片付けようとした時だった。


「あぁっ! カーペット、先週張り替えたばっかりなのに!」


カップが落ちた音に反応したのは、一緒に昼食をとっていた看護師のソフィアだった。

ティッシュペーパーを持ってアリスのデスクに駆け寄り、床のカフェオレを拭う。


「デスクの上の電子機器は無事ですか?」


「大丈夫よ。

ありがとう、ソフィア」


アリスはソフィアと一緒に床のカフェオレを一緒に拭き取る。


「ずいぶん、ぼんやりとしてらっしゃいましたね」


恋人ですか?ジェスチャーを交え、ニヤニヤしながらアリスの顔を覗き込む。


「……わかる?」


「そりゃあ、もう」


苦虫を嚙み潰したような顔をしたアリスを見てソフィアはふふと笑った。


「また"ブロンドヘアのケン"ですか?」


「ブロンドでは無いけど、ケンは正解」


今度はソフィアは声を出して笑った。


「また?! どうして、院長は"ケン"に弱いんですか! いくらよくある名前でもケンと3人付き合うって! これで4人目! しかも全員からフられるとか!!」


ケタケタと笑うソフィアを見て、カルフォルニアはきっとケン率が高いのよ!とアリスは苦し紛れに言い返した。

アリスとソフィアは親子ほども年の違うが、姉妹の様に仲が良かった。


「そういえば知ってますか? ハーマン製薬が認知症の薬を発表したって。

それも進行を止めるんじゃ無くて回復できるとか」


「え? それは朗報ね。後でニュース見てみようかしら……」


「私のおばあちゃんも認知症で私の事忘れちゃうときあるから、この薬には期待してるんです」


ソフィアは屈託なく笑った後に、もう仕事に戻りますね、とティッシュペーパーのごみを集めて院長室を後にした。


 

ソフィアが部屋から出ていくのを見届けてから、アリスはPCでハーマン製薬の認知症の薬のニュースを検索した。


「ハーマン製薬の認知症の治療薬の開発に成功。

鍵は19年前に夢断たれたH102と"エンジェル"」


医療業界のニュースサイトのトップに出ていた。


記事にはベンジャミンの写真が載ってある


ベンジャミン・ハーマン。


アリスはこの男を知っていた。


19年前、アリスはハーマン一族が運営するハーマンホスピタルに研修医として勤めていた。


当時の理事長はハーマンの叔父のノア・ハーマンだった。

そこへやってきたのが、認知症の治験を責任者だったベンジャミン・ハーマンだ。


医師免許を持ち、創薬までするベンジャミンは医者になりたてのアリスにとっては魅力的だった。

しかもあの甘いマスクと、聞くと腹がうずく様なあの美声だ。

医師、看護師はもちろん、患者にまで人気だった。


そのベンジャミンから1つ不思議な頼まれごとをしたことがあった。

ある凍結胚を保管庫から持ち出してくれとないか?と言うのだ。

訝しがりながらも、アリスはその頼みを引き受けた。


エンジェルの話を読んだ時、胸がざわついた。

記事を書いた人物の名を確認する。


"ケン・ルイス"とあった。


ケン。

なんて不吉な名前だ。

アリスは顔をしかめた。


数年前にバーで一緒に飲んだジャーナリストの名前もケン・ルイスではなかったか?


パーフェクト・ウーマンと言われるアリスの弱点は酒と男だった。


酒の勢いで良からぬことを口走ってしまったのではないか?

自分でも背中を冷汗がつたうのが分かった。

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