第8話 狂気

 シャワーを浴び終えて寝室へ向かうと、貴弥さんは座っていたベッドから立ち上がって私の手を取り、ベッドへと誘った。

 貴弥さんと私が、幾度も甘い時間を過ごし、共に眠っているベッド。

 見慣れているはずのそのベッドが、何故だか今日は見知らぬもののように目に映る。


 ベッドに体を横たえると、貴弥さんは私の体を包んでいたバスタオルをそっと取り去った。

 遮光カーテンがしっかりと引かれた寝室は、まるで暗闇。

 まだ暗さに馴れない私の目には、貴弥さんはぼんやりとしか捉える事ができないけれど。


「きれいだ、美織」


 彼の視線を、確かに感じた。

 私の、全てに。


「ダメだよ、僕以外のものになっては。僕以外にこの姿を見せては。美織を抱く事ができるのは、この姿を見る事ができるのは、この僕だけだ」


 やがて、貴弥さんは片手で私の両腕の自由を奪い、片手を私の肌の上へと滑らせる。

 決して乱暴な扱いなどではなく、けれども拒絶は認めない柔らかな手つき。

 思わず、吐息が漏れてしまう。


「言ったよね?僕。ちゃんと、キミに。『たとえキミがどこに行ってしまったとしても、僕は必ずキミを見つけ出す』って」


 啄むようなキスの合間に、彼が囁く。


「どんなに遠くても、僕はキミ探し出して、必ず迎えに行くから」


 闇の中で、貴弥さんが私の体をそっと抱く。繊細で壊れやすい、ガラス細工に触れるかのように。


「誰よりも愛しい、僕の大事な人」


 私の頭に残っていた、純粋な疑問。

 けれども、それさえも。

 貴弥さんが与えてくれる刺激に呼び起された、体の芯から生まれた熱が、いつしか焼き払うように消し去ってしまっていた。


「愛しているよ、美織」


 貴弥さんは、何も変わっていない。

 きっとそれは、私も知らない、彼が私を見つけたときから、ずっと。

 そしてこれからも、変わることなど無いのだろう。

 変わったのは、私。

 変わってしまったのは、きっと私なのだ。


 私には勿体ない程の夫に、こんなにも愛されて。

 このうえ何を望むと言うのだろう?

 自由?

 それほど不自由している訳ではない。

 監視?

 彼は監視している訳ではない。ただ、見守ってくれているだけ。

 私を愛しているから。愛し過ぎているから。


 きっと、そう。

 幸せ過ぎて怖い。

 そんな、贅沢な悩みなのだ。

 私のこの、負の感情は。


 彼の愛撫に身を委ねて、暗闇の中で瞼を閉じる。

 貴弥さんの舌が、胸の傷跡をゆっくりとなぞった時。

 私の心臓が、ドクリと音を立てた。

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