第7話 愛

「どう、して・・・・?」


 窓で隔てられた車内での私の呟きは、貴弥さんには届かない。


『あ・け・て』


 そう、大きめに口を開いて言い、窓の向こうの貴弥さんは助手席のドアを指さす。

 私は何も考えることができず、言われるままに助手席側のロックを解除し、ドアを開けた。


「誰とドライブしてたの?」

「えっ・・・・」

「男、だよね?」

「あのっ、怜ちゃん・・・・」

「怜ちゃん?あぁ、従兄の。怜汰くん、だっけ」


 そう言うと、貴弥さんはスマホを取り出して電話を掛け始めた。


「あぁ、怜汰くん?美織がお世話を掛けてしまったようで申し訳無い。いや、今から僕が連れて帰るのでご心配なく。じゃ」


 切り際のスマホからは、微かに怜ちゃんの声が聞こえた。

 怜ちゃんもきっと、驚いただろう。私と同じくらい。

 一方的に通話を終えた貴弥さんは、いつもと何も変わらない優しい微笑みを浮かべて、私に手を差し出す。


「さぁ。一緒に帰ろう」


 まるで催眠術にでもかかってしまったかのように、私の体は勝手に動いた。

 預けた片手を軽く引かれ、怜ちゃんの車から降りた私は、そのまま貴弥さんの胸の中へ。


「見つけたよ、僕の美織」


 耳元で、貴弥さんがそう囁いた。



 自宅に戻る車中では、何も聞かず。何も語らず。

 いつも通り安全運転の貴弥さんの助手席に、私は人形のようにおとなしく座っていた。

 でも、頭の中はまるで洪水のように、恐怖と疑問が渦巻いていた。


「疲れたでしょ。随分遠くまでドライブしたからね。先にシャワーを浴びておいで」


 いつもと何も変わることなく、穏やかに私を気遣う貴弥さんに、私は湧きあがる感情を抑えることができなかった。

 けれども。


「どうして・・・・?」


 口をついて出て来たのは、この、たった一言。

 このたった一言が、全てに繋がっている。

 固唾を飲んで見守る私の頬に、貴弥さんの温かい手がそっと触れる。

 そして、彼は言った。


「それは、僕の言葉じゃないかな?」


 包み込むような、優しい眼差し。

 穏やかな、微笑み。

 まるでそれは麻酔のように、私の感情から『恐怖』という痛みを取り去ってしまうような。

 後に残ったのはただ、純粋な疑問だけ。


「どうして、怜汰くんと一緒にいたの?彼と何をしていたの?」

「それは・・・・」

「どうして結婚指輪まで外しているの?その洋服、美織のじゃないよね?どうしてそんな服を着ているの?どこで、着替えたの?彼の前で?」


 どこを探しても、貴弥さんの中には怒りは見つからない。

 彼の中にあるのは、私と同じ、純粋な疑問。


「怜ちゃんは私にとってお兄ちゃんのような存在で」

「怜汰くんは、美織の従兄だ。法律上、従兄は婚姻関係を結ぶことができる」

「怜ちゃんはそんなんじゃ」

「じゃあ、どうして?」


 私の頬に触れていた貴弥さんの手が、私の顔を上向ける。

 彼の視線に絡めとられた私は、抗う気持ちさえ、手の平ですくった砂のように、指の隙間から零れ落ちてゆく。

 でもせめて。

 貴弥さんの怜ちゃんへの疑惑だけは、晴らさないと。


「誰も知らない場所に、行ってみたかったの。だから、怜ちゃんにお願いして」

「僕の知らない場所に、じゃなくて?」


 貴弥さんは変わらない。

 いつだって、ずっと。

 いつでも。どんな時でも。

 私だけを見ている。

 穏やかに、優し気に、愛おし気に。


 私にはもう、口にできる言葉は何もなかった。

 ただ、小さく頭を横に振る。


「そう・・・・シャワーを浴びておいで、美織。寝室で待ってる」

「はい・・・・」


 言われるままに、私はバスルームへと向かった。

 怜ちゃんが用意してくれた服も、下着も、全て脱ぎ捨てて。


「ごめんね、怜ちゃん。・・・・ありがとう」


 肌を刺激する熱いシャワーに身を委ねている内に、涙が溢れて来た。

 私の中のこの澱は一体、どう洗い流せばいいのだろう?

 鏡の中に写る私。

 胸元に残る、心臓の手術痕。

 だいぶ薄くはなったものの、それでもまだはっきりと分かる。

 この下で鼓動を続ける心臓は、貴弥さんが治してくれた心臓。

 私は貴弥さんに生かしてもらっているのだ。

 あの手術の日から、今もずっと。


 きっと私は、死ぬまで貴弥さんから離れる事はできない。


 そう、悟った。

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