拒食症うらら

沈黙静寂

第1話

〈窶歯女うらら〉

 町のレストランで小田部おたべ未希みきと食事していた。テーブルに構えるラウンドプレートはトマトやエリンギの類が踊るパスタを抱え、豊満な香りが身体中に広がる。わたしはそれを眺めるだけで手を付けない。

「久々に町へ降りてきたのに、食べないの?」そう言う彼女はわたしの生まれた時から連れ添う幼馴染で、大きな口と肩まで伸びる紅髪を揺らして食べる。わたしの方が年下の為、嘗ては三年分の上背の差があったけど今は同じ目線だ。

 目線を傾ければラタトゥイユやピスタチオのスープ、牛フィレのステーキが嗅覚を呪い、メニューを開けば夏野菜のメインディッシュやワインの種々が購買欲を掻き立て、奥のキッチンではシェフがフランベで近くの客の心にも火を点ける。こんなにお洒落で食欲を希求する店の中で場違いはわたしだけだなと理解する。

 わたしは食べることが嫌いだ。食べるべきとされる対象に対してその命を脅かす有害な行動に一歩踏み出せない。穀物も野菜も乳製品も酒も菓子類も目に入れるだけで臍の渦が締め付けられ、肉なんて以ての外。一口ならまだしも、少しでも許容量をオーバーした瞬間吐きたい衝動に駆られる。水とカロリーメイトさえあれば生きていけるわたしが無駄な栄養を摂る必要は無いのだ。目的は他にもあるけど。

「お腹空かないから」

「またそれね、はいはい」残すのは財布と腹に勿体無いから私が食べるよと未希は続ける。わたしの拒食を知っているはずの彼女は外食の度に二人分注文してこちらの食指を窺う。嘘を吐きながら影の雑草を毟り食うとでも思っているのか。他人にはよく身形の為に無理していると曲解されるが、ただ痩せこけたモデルに何の面白味があると言う。

「これだけでも食べな」諦めたかと期待した未希はスプーンに緑の液体を乗せて持ってきた。相手が親ならば「うるせぇ黙れ!」と命じる所だけど幼馴染の台詞は柔らかい舌触りに覚える。親不孝者で申し訳なかったけれど、置き手紙を残して何も言わず出て行った両親も両親で不心得だと思う。

「あーん」仕方ないからその小匙一杯を口内へ放ろうとすれば、未希の視線への羞恥と相俟って顎関節が軋む。彼女は微笑み、呼吸を詰まらせながら嚥下するが味はあまり分からない。誰かと食べるご飯は人一倍不味い空気を調味料とする。贅沢を口に入れて気分悪いと言う贅沢な悩みだ。要らないんだよ、この腹の中に入っているモノなんか。甘い物を食べて幸せ、ラーメン啜って腹一杯という文化を外側から眺める。この前体重を計ったら三十九キログラムもあった。人生が満ち足りていないのに満腹になる状況には腹が立つ。

 まだ町に居た頃、給食を食べるのが嫌で通学途中に自殺を試みたのを思い出す。台所から包丁を盗んでランドセルに隠して、往路か復路で腹を刺して死のうと思った。刃先を垂直に立て十分間見つめたは良いがチャイムに間に合わないと止めて、結局出血さえ出来ずに台所へ戻した。

 わたしは死ぬ勇気が無かった。その後は給食を食べる度に水道で嘔吐し、弁当持参を要求される外出時はトイレに流した。野菜を噛む音が教室に響いて辛かった。皆の視線が大嫌いだった。わたしは成長して不食の権利を獲得したのだ。

 だから今日もその場で直ぐに吐いた。残ったスープに飲み込んだ以上の容量を注いで液面が黄色くなる。慌てる未希はハンカチを取り出しわたしの口元を吹きながら言う。

「……ごめん、今日はいけるかと思って」謝る彼女にわたしは朦朧としながら頷く。どうしても食べさせたい表情からはあぁ失敗したと落胆が見えた。テーブルを整理した彼女は黄色の汁まで啜り上げて完食へ向かう。わたしは皿に倒れる物より親友の欲が満たされていく姿に惹かれ、世の食べ物は全て彼女の胃袋に収まるべきであると感じる。わたしと未希は正反対だからこそ真性で特別な友達関係だ。町の知り合いは信用出来ず自然と縁が切れた。綺麗に食事を片付けた彼女はお粗末様と唱えて鞄を背負う。

「人間さえ食べられない、なんてね」


 わたし達の民族は他の人々と体質が異なる。それはヒトを食の対象とし得ること。恐らくヒトであるわたし達は同じヒトを食べると快感の境地へ至るらしい。と言ってもヒト以外の食料で充分生命を維持出来るので食人鬼以外の運命も選択可能だ。その家系で拒食のわたしはヒトさえ食べないので例外中の例外ということになる。

 レストランを出て関門で通行証を提示し、町から村へと帰る。わたし達の暮らす「村」は人食い集落として「町」から隔絶され、日頃は村の土地でしか得られない食材や資源を町へ売って生計を立てている。とは言え発展する一方の町とは文明度の格差が広がり、こうして偶に出掛けて都会の雰囲気を味わう。遠く別の地にも同族は存在すると言われているが噂はあくまで噂だ。周りからの白い眼は静粛に縮こまってさえいれば避けられる。

 嘗ては町への居住が許されていたが、ある時町の人が食べられたと話題になり揉み合いが過激化した結果、更なる犠牲者が出たと言ってわたし達は追いやられた。事実は闇の底に落ちたけど、町の不安を取り除こうとする政治的な陰謀だったのではないかと睨んでいる。

「……あぁおかえり、何処の店に行った?」眼鏡を掛けた黒髪で気鬱な女は舟見ふねみ。わたし達より七つ年上で頼り甲斐のありそうな風貌から放たれる頼りない言動が魅力だ。

「仲見世通りの奥の方ですね。二人は何をしていました?」

「んにゃむぁぐなるかぐぁ……今食ってんだよ!」問い掛けた内の一人、明るい水色の髪で眼を充血させる女は梶里咲かじりさきと言い、未希の一つ年上だが風格を全く感じさせない子供臭い行動を取り、常に何か食べている。今握り締めているのは農場のキャロットのようで、早々と人食に遭遇する事態にはならなかった。

「うるせぇな……見ての通り読書中」答えてくれるのは舟見だけ。だだっ広い村は基本的にこの四人が占有し、町人が来るのは極稀で入れば襲われる土地として忌避されている。過去に各々の食歴を訪ねた際には未希は人食を「ある訳無いよ」と言い、舟見は「そりゃあるよ」と言い、梶里咲はその時もモゴモゴ騒いで聞き取れなかった。舟見に何故どうやってと訊けば、昔食べた時のオーガズムが忘れられないから、熊を山野から誘導して獣害と思わせて殺して食べる、とハイリスクハイリターンな経験を語ってくれた。

 だが快楽以外にもヒトを食べる効用はある。それは食べた相手の記憶を最近一人まで追憶し、食べた相手が食べた人の記憶も遡れるというものだ。つまり食物連鎖の最高次の者は複数の記憶を保持出来る。ただし別の者を食べれば手前の記憶は忘却され、食物連鎖の直線が長くなればなる程古い記憶は曖昧となる。運良く数珠を繋いだ所で千年前の風景を振り返ることは出来ない。また健康面から一日に摂取可能なヒトは一人までという制限がある。これは「確かに見覚えの無い映像が脳のメモリーを食っている」という舟見の証言から事実であるようだと分かった。

「お前がアタシ等の悪評に一役買っているんだからな」舟見は梶里咲に苦情を入れるが当人は聞く気配を見せない。その緩んだ態度に堪忍袋を引き裂いた黒髪が言う。

「好い加減にしろよお前!」

「むむあぁぁ!?何だと!?」仲の悪い二人の恒例行事が始まろうとしたので「まぁ落ち着いて」未希が宥めると鼻息荒く離れる。四人グループの一片に傷が入れば組織は持たないので出来る限り協調して欲しい。

 わたし達が毎日昼頃集まるこの場所は森林の入り口近くにあり、食料調達や開拓事業について相談する。喧嘩が収まったようだし川辺へ釣りにでも行こうかと考えていると、見覚えある顔がこちらにやって来た。

「……………………おい!お前ら!!!」遠くからシャウトする人間が拡大されるにつれ、平たいハットと巻き上がる髭が存在を主張してくる。帽子を脱ぎ日焼けした顔に汗を垂らす姿に皆ピリッと張り詰める。

「お前ら何してくれたんだ!!」近距離で怒鳴り散らす彼の名はトーマス。町人代表としてわたし達に治安や物資の不満を言うのが役目で、彼が森を潜ることで何か恩恵を受けたことは無い。何ですか、と控えめに未希が訊く。

「お前らだろ!俺の妻を滅茶苦茶に殺したのは!」今日はどんな御門違いな言説を唱えるのかと思ったら想像以上の内容が四つの耳を貫いた。

「何があったんです?」

「どうせ知っているだろ。昨夜、仕事が終わって家に帰ると車庫の前で妻が死んでいた。俯せと辛うじて分かる程無残な倒れ方で、頭と脚先の肌色に内臓が横たわり衣服が血を吸って重かった」当事者からの速報で彼の荒れぶりに多少理解が及んだ。事の説明で怒りを止める彼の眼には一粒の涙が生まれる。

「何故わたし達が食べたと思ったんですか?」未希は構わず追及する。

「こんな死に方、悪魔が食ったとしか考えられないだろ。太腿に刻まれた歯形は『食べ残し』を意味しているだろ!?」パートナーの臓器をよくまじまじ観察出来るなぁと尊敬するけど、真相を突き止める意思はグロテスクに映えるのか。とすれば今頃町では殺人事件で大騒ぎなのだろうか。

窶歯女やつばめうらら、お前が責任持てよ!」不意に姓名を呼ばれたわたしの肩が跳ねるが、冷静に対処しようと返事を考える。拒食という好印象を利用して一応わたしが村のリーダーとなっている。

「確かに気の毒ですがわたしはカロリーメイトしか食べないので違います。他の人は」未希は当然首を横に振り舟見は「違う違う」手を振り、梶里咲は「んぁ?ぁあ何?」片手の木通を齧りながら思考停止で反応する。後ろ二人が怪しい訳だけど仲間割れは避けたいので、今度はわたしが情報を仕入れる。

「失礼ですが奥様の名前をお伺いしても良いですか?」

「あ?フレネッタだよ。何回も喋っただろうが」愚痴と同時に身内話まで聞かされていたのは記憶にあるが、夕飯は何にしよう等と空想で時間を潰したので内容は知らない。その名前に所縁のある者は居ないようで皆黙る。

「トーマスさんとフレネッタさんは不仲ではありませんでした?」時々都合上か二人で村に来ることがありその度に甲高い声を互いに向けるので、ただの痴話喧嘩以上に確執のある関係だという覚えはあった。

「仲が悪くても勝手に死なれると気持ち悪いんだよ!」一般的な倫理観を持つ彼は妻の死を確と嘆いているように思えた。これだから人食いは人の心が読めないと差別し怒鳴り切った彼は嘆息し、これ以上居たら食われるかもしれないからな、と笑うように元の方向へ帰ろうとする。

「……イイか、この中に絶対に犯人が居る。四日後にまた来るからそれまでに畜生を晒上げにしておけ」

 そう言い残して彼は仲見世通りの方へ消えていった。

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