8
(そういうことか……!)
右腕の代わりに巨大なサメを生やした男。その姿を見て、塩野彰は事態を察していた。エレンたちが探していたのはこいつだ。こいつを秘密裏に捕まえることがエレンたちの目的だったのだ。
尋常ではないこの怪物。その存在を公にできないのも頷ける。虎夫がこいつに襲われたときは、虎夫の体と血煙のせいで、彰は怪物のサメの部分しか見ることはできなかった。だからエレンに聞かれたとき、「サメ」と答えたのだ。もし彰が怪物の全身を見ていて、エレンに対してそう言っていたら……今頃彰たちの命は無かったかもしれなかった。
(下手すりゃここで失うかもしれんがな!)
内心叫び、彰は硬直したままの島崎大介と筒井麻世の体を引っ張って走り出した。
「〈おい! あんたも!〉」
走りながら、彰は英語で兵士に呼びかけた。だがそれがよくなかった。兵士は彰の声にびくりと体を震わし、
「〈くそ! 出来損ないの失敗作め!〉」
逃げ出すどころか、その場で短機関銃を構えて撃ち始めてしまった。怪物の人間部分が、素早く右腕のサメを盾にする。放たれた弾丸はすべて、サメの巨体に叩き込まれていった。傷口から血が噴き出し、サメが苦しげに身悶えした。
やがて弾が尽き……サメが動きを止めた。
「〈……やったか?〉」
兵士がそう呟いた瞬間、
「シャァァァァァァァァァァァァァク!」
雄叫びと共に、サメが動いた――怪物の人間部分が、己の右腕である巨大サメを持ち上げ、振り回したのだ。
サメの巨体が兵士に直撃する。兵士の体が吹き飛び、窓ガラスに当たって跳ね返った。その落ちていく先で、サメが大口を開けていた。為す術も無く、兵士はサメに呑み込まれてしまう。そして……サメの体から流れる血が止まり、その傷口がふさがった。
その様子のすべてを彰たちは見届けて、
「走れ!」
知らず緩んでいた足に力を入れ、廊下を駆け出していた。
「なんなんすかあの化け物は! 冗談は形だけにしておいて下さいよ!」
「もういやぁ! 私無関係じゃない! 全然無関係じゃないっ!」
大介と麻世が抗議の悲鳴を上げる。その声を、もちろん怪物が気にするはずもない。怪物は右腕のサメを左腕で抱え、信じられない速度で追いかけてきていた。巨体にもかかわらず、動きは素早い。彰たちが角を曲がれば、しっかりそれに着いてきていた。
「くそっ、なんて速さだ!」
このままでは遠からず追いつかれてしまう。彰は走りながら周囲を見回し、
「――!」
柱の陰に金属のカバーを見つけて、それに駆け寄った。
「島崎!」
彰が一声叫ぶと、すぐに大介は察し……懐から取り出したキーを彰に向かって放り投げた。一部の従業員だけに渡されるマスターキー。今晩ホテルに入るために、大介に予め手に入れておくよう頼んでおいたキーだ。彰はそれを受け取ると、間髪いれずカバーに向けてかざした。そして、解錠の電子音が鳴るが早いか、むしり取ろうとするかのような勢いでカバーを開けた。その内側にあったのは、防災システムの手動操作盤だ。操作方法はマニュアルを読んで記憶している。彰は迷うことなくボタンを押し、防火シャッターを作動させ、
「……って、何で動かねぇんだ!」
作動中を示すランプは灯ったのに、シャッターが下りてくる気配はまるで無かった。
「こんなところで不具合っすか!」
「ほんとに何なのよぉこのホテル!」
彰の隣で、大介と麻世が悲痛な声で叫ぶ。彰も叫び出したい気分だった。正式オープン前日だというのに、防災システムの不具合すら放置しているとは思いもしなかったのだ。
そうする間にも、あの怪物は目前にまで迫ってきていた。怪物が一瞬足を止め、振りかぶるようにサメの腕を背後に回す。そしてボールを投げるように、勢いよくサメを前へ。
「――うっそだろ!」
サメが、飛んできた。サメの腕を投げ下ろした勢いを利用して、怪物は右腕のサメごと宙を飛んだのだ。
サメが大口を開ける。どんな人間も一呑みにしてしまえる巨大な口が、ぐんぐん迫ってくる。その口の暗い穴を見て、彰は己の死を覚悟し――ダンッという大きな銃声が響き、突然防火シャッターが下り始めた。いや、下りるというよりも、壊れたように落ちてきた。
ねずみ色のシャッターが視界を塞ぐ。迫ってきていたサメが見えなくなり……耳障りな金属音が廊下に響き渡った。
シャッター越しに、どこか悔しそうな怪物の声が聞こえてくる。未練がましくシャッターが揺れるが、さしものサメも、壁やシャッターを破壊するのは容易ではないようだった。しばしして……怪物の気配は遠ざかっていった。
「電化製品が動かないときはやはり、こうするのが手っ取り早いな」
安堵の吐息をついた彰の耳に、女の声が聞こえてきた。聞き覚えのあるその声に、はっと彰はそちらに顔を向ける。もたれ掛かるように壁に寄り掛かり、苦しげに肩を上下させている金髪の女……さっき別れたばかりのエレンが、目の前に立っていた。
ホテル三階の診療所に入り込み、エレンは上半身裸になって傷の手当てをしていた。左肩にできた傷口の血はまだ止まっていない。その傷の形から、銃弾によるものだろうということがわかる。それを見た途端、彰の脳裏をあの伍長の顔がよぎった。
「……要するに、裏切られたってわけだ」
「……君はほんとに、余計なことにまで頭が回るようだな」
遠慮の無い彰の言葉に、エレンが苦笑を浮かべた。それは彰が初めて見る、エレンの弱々しくも穏やかな表情だった。
「ああ、君が察した通りだ……私は伍長に裏切られた。私と違い、伍長にはヤツを殺すつもりなど無かった……最初から伍長は、このホテルを、ヤツの力を観察するための実験場にするつもりだったのだ……」
エレンが傷口に消毒液をかけた。浮かんだ苦悶の表情は、傷の痛みによるものだろうか。それとも部下に裏切られた苦しみ故のものか。エレンにとってみればそれはショックなことだろう。エレンがあの怪物を殺そうと一生懸命な中、伍長は怪物が殺されないようエレンをずっと騙し、誘導してきたのだから。
(俺たちが歩いて行った先にあの怪物がいたのも、あの男の企みか……)
あの男はきっと、サメ探知のシャークレーダーを持っている。それを使って彰たちを怪物のいる方へ向かわせ……目撃者と、エレンの残りの部下を怪物に殺させようとしたのだ。そして一人になったエレンを、伍長は自ら殺害しようとした……あの男の粘っこく嫌らしい目を思い出し、彰の背中を冷たい汗が流れ落ちた。
「で……あの怪物は何なんだ? 何であんな怪物をあんたたちは作り出した?」
首を振り、彰はエレンに問いかける。だがエレンは無言で、傷口にガーゼを当て……そこで手が止まった。片手では、もちろんガーゼを押さえながら包帯を巻くことなどできない。それを見て、彰はエレンに近づくと、その肩に包帯を巻き始めた。
「ここまで巻き込まれたんだ。俺には知る権利があると思うが?」
そう言いながら、包帯をきつく縛る。エレンは痛みにうめき声を上げ、
「あれは、サメの遺伝子によって変異した人間……シャーク・マンだ……」
観念したように怪物の名前を口にした。そして、米軍によるその計画を話し始めた。
サメの異常増殖と新種発見、そして繰り返されるサメの襲撃により、アメリカは甚大な被害を受けていた。海を奪われ、砂浜を奪われ、川に湖に沼、更にそれらの水辺をサメに奪われた。国民はサメを恐れ、サメが潜む水を恐怖するようになった。そんな中、サメに対抗できる人間を生み出そうとして発案されたのが、「シャーク・マン計画」であった。サメの遺伝子を人体に注入し、サメと同等の力を兵士に与えようというのである。ゆくゆくは兵士にとどまらず、銃犯罪から身を守るために国民が銃を持つように、サメ事件から身を守るために誰もがサメの力を手に入れられるようにすることまで考えられていた。
だがその計画は、最初の一人で躓くことになってしまう。恐るべき獰猛さと食欲を持つサメの遺伝子は、とてもではないが人類に制御できるものではなかったのだ。サメの遺伝子を注入された被験者第一号は、全身の筋肉が異常発達すると同時に、右腕は巨大なサメへと変わってしまった。そして、サメのような獰猛さをもって、己の食欲を満たすために人を襲う怪物になってしまったのだ。しかもあの怪物は、変異前の人間の知恵と知識まで持っているのである。
「……私たちはサメに対抗しようとして、サメと人のハイブリッドモンスター――シャーク・マンを生み出してしまったのだ……」
エレンの長い説明を聞き、彰は思わず天を仰いでいた。
「……ったく……ほんとお前らはろくなことしねぇな」
「……耳が痛いな」
エレンが自嘲の笑みを浮かべる。だが、こんなところでエレンを責めても何の意味も無かった。それよりも今考えるべきは、あの怪物――シャーク・マンをどうするか、である。
「それで、おたくらの伍長さんはこれからどうするつもりなんだ? シャーク・マンの観察はもう済んだんじゃないのか?」
「いや……むしろこれからが本番らしい。このホテルが正式オープンとなり……そこにやってくる大勢の客を全員、シャーク・マンに食わせるつもりなのだ」
エレンのあまりの発言に、彰は絶句した。そんな彰を見ながら、エレンは言葉を続けた。
「シャーク・マンの右腕のサメは、人を食えば食うほど巨大化していくのだ。伍長はこのホテルの客を食わせ、どこまでシャーク・マンが力を手に入れるのか見るつもりらしい……」
「バカか! そんなことで化け物を更に大きくして……それで満足のいくデータがとれたとして、その後はどうする! 巨大なサメを放置して知らんぷりか!」
「知らんぷりなどしないだろうさ。むしろ逆だろう。巨大サメの存在を利用し、米軍による日本国内への武力介入や、軍事予算の増額を正当化するつもりのはずだ。もちろんあのシャーク・マンが、自分たちが作り出した化け物であることは隠してな……君もご存知のことだろう。これがいつもの軍のやり方だ。くそ真面目に国民を……人々を守ろうなどと考えていた私の方がただのバカなのだ……」
そう言ってエレンが肩を落とす。その姿を見て、彰は自分が彼女に助けられていたことを思い出した。地下のゴミ収集所で、彰を気絶させるに留めたのはエレンだ。それにさっき、防火シャッターを下ろして彰たちを守ったのも。敵を殺すこと、人を守ること、どちらも軍人の仕事だが……きっとエレンは、愚直なまでに後者であろうとしているのだろう。
(……まいったね)
彰は後頭部をかいた。自分はエレンに助けられた。そのことを自覚すると、どうにも見捨てられなくなってしまう。助けられた以上、最低限恩を返す義理があると思ってしまうのだ。
(ま、いいか……最初からそのつもりだったわけだし……義理は他にもあるしな)
まだクビになっていないのなら、自分はこの会社の社員だ。だったら職場を守る義理がある。いけ好かない客たちでも、顔を知った以上見捨てない義理がある。そしてエレンに命を助けられたのなら、彼女に恩を返す義理があった。一生懸命にはならない、だが後ろ指をさされない程度には義理を尽くす。仕事と同じく、これが彰の日常のスタンスなのだ。
「よしっ……決まりだな」
「……何を言っている?」
突然の彰の言葉に、エレンがきょとんとした顔を向ける。そんなエレンに、彼女のジャケットを放ってやりながら、
「何ってもちろん、サメ……いや、鮫男退治だよ」
にやりと笑って、彰は言った。
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