2−1 事務所と学校

 次の日。僕は事務所に顔を出していた。事務所は電車で五つという近い場所にあるため、家から二十分もあれば着く。零細事務所なため、借りているテナントは小さなビルの一フロア。


 中に入ると、ロビーというか広い談話室のような場所に他の所属声優がいた。僕以外の男性声優で、野原聡のはらさとしさんだ。彼は舞台俳優上がりの声優で、二十六歳になるけどアニメ業界ではそんなに名前が売れていない部類だとは社長談。


「おはようございます、野原さん」


「おう、間宮。……昨日は災難だったな」


「それはもう。やっぱり役者さんってどのジャンルでも濃い人しかいないんだなって痛感しましたよ」


 野原さんは僕が子役だったことを知っている。というか、松村さん経由で子役時代に知り合っていたし、一度だけ僕も舞台で共演したことがある。舞台は二作品しか出ていなかったから、共演した方は印象に残っていた。


 そんな野原さんが奏太役に落ちて僕がその役をやることになった。そのことで関係が悪くなったりしない。この業界、年齢や芸歴に関わらず受かる人は受かって、落ちる人は落ちるからだ。


 もしかしたら昨日の場に、僕の代わりに野原さんがいた可能性もあるんだよなあ。そうだったらあんなカオスな番組にならなかっただろうに。


 野原さんは身長が百八十を超えていながら、凄く中性的な声をしていらっしゃる。線が細いながらその身長で聞こえてくるのが予想と異なる高さだから、彼もギャップ声優だ。


「間宮は何しに?台本でも取りに来たのか?」


「はい。アプリゲームのプレイアブルキャラを一つやらせていただくことになったので。それが明後日収録なんですよ」


「あー。それ俺と同じゲームだ。社長が二人とも通ったって言ってたから」


 アプリゲームはたくさん世の中に出ているために、オーディションの形式もまちまち。アニメと同じく会社側のオーディションを受けに行くものもあれば、事務所であらかじめ録ってあるサンプルボイスとプロフィール資料だけ送って終わりというのもある。


 今回は後者だ。オーディションを直接受けていない。


 だからどんなキャラクターを演じるのかすらわかっていない。


 でも声優としてはゲームは良い稼ぎ場所だ。数も多いから純粋に仕事になるし、もし追加ボイスなども録ることになれば何もせずとも仕事がもらえる。


 それこそ大量に数があるから生き残るのも大変だけど、こういうゲームから有名になる声優もたくさんいる。アニメの本数も昔に比べれば増えたけど、それだけじゃ食べていけない。だから僕たち声優はゲームのボイス収録はありがたい。


 アニメだと一話いくらというお給料だけど、ゲームになれば一ワードいくらという支払いになる。有名ゲームなどだとワード数が増えたり、それこそフルボイスのゲームもあるのでそうなればお給料も弾む。


 とても大切な収入源だ。もしそのゲームが終わっても、次回作や同じ会社の別ゲームに出してもらえたりという可能性があるので、零細事務所のウチとしても開拓していきたい市場だ。


 二人で事務所の誰かを呼ぼうとしたけど、誰もいない。誰か一人くらいいるかと思ったけど。仕方なしに、社長室をノックする。


「いるわよー」


「失礼します」


 社長の部屋に入る。社長も現役声優で、この事務所を立ち上げた立役者。この人と松村さんに声をかけられて僕たち二人はここに所属している。


 流山透子ながれやまとうこ社長。メインは海外ドラマや映画の吹き替えで、やっぱり子役時代に共演したツテでこうして声をかけていただいた。三十台半ばで、ハスキーな声のカッコイイ女性だ。


 スーツもビシッと似合ってる。身長は平均ってところだけど。


「あら、二人とも一緒なのはちょうどいいわ。これ、伝えておいたゲームの台本。新規立ち上げのゲームだから気負わずにね。ゲーム会社とメインシナリオライターは有名なオリジナルIPだから結構注目されるだろうけど、ゲームって特に当たりハズレが読めないもの。あ、野原は三キャラもいただいたから、ちゃんと目を通しておくように」


「え?三つも?兼ね役ってことですか?」


「まあリリースの時ってありがちだもの。光希は一キャラね」


 それぞれの台本を受け取る。野原さんの分は確かに僕の台本の三倍あった。アプリゲームはリリースの時にいっぱいキャラクターを出すために一人の声優に複数のキャラをあてがうこともあるのだとか。


 でもこれ収録明後日だから、全部を把握するのは大変なんじゃないかな。


 今日の主目的は一応終わって、あとは来週の予定を確認しておくくらいだったんだけど、その前に流山社長から話があった。


「二人とも。昨日の件があったから聞いておきたいんだけど、共演NGにしたい声優っている?今では俳優やアイドル、お笑い芸人も声優と一緒の現場になることがあるから、声優に限らず聞いておきたいんだけど」


「あれ?ウチってNGにしないんじゃないんですか?」


「いやいや、本当にダメな相手ならするわよ。ただ『パステルレイン』のメインメンバーの皆は諦めて。あの子らは売れっ子だし、炎上するのもあっちだもの」


 昨日と話が違ったから聞いてみたらそんな返答が。まあ、あの三人にしたって本気でNGにしたいわけじゃないし。


 一瞬本気で考えたけど。


「あー、じゃあ俺から。矢口遥香やぐちはるかをNGにしてください。あいつとは一緒に仕事したくないです」


「あ、僕も彼で。あの人とは共演したくないです」


「全員一致なのね。わかったわ、事務所の意向として伝えておく」


 僕と野原さんはおろか、流山社長ともう一人の所属女性声優さんも意見が一致するなんて。


 いや、まあ。そうなるのも仕方がない人物だけど。


 矢口遥香。こんな芸名だけど男だ。ジェンダーの問題で芸名にまで突っ込みたくないけど、正直この名前に全部現れているというか。


「間宮もあれと共演してたっけ。作品何?」


「子役の頃に、『モンスターズクラッシュ3』の吹き替えで。社長と一緒でしたよ」


「ああ、アレね。評判悪かったわねえ」


 流山社長は実力派声優だ。だからこそ、吹き替えを主にしていれば子役や俳優、お笑い芸人など吹き替えに向かない共演者とたくさん会ってきたはず。


 そんな中でもこの人がわざわざ共演NGにするなんてよっぽどだ。


「あー、あいつが台頭し始めた頃の吹き替えですか。そりゃ酷かったでしょう?」


「酷いなんてものじゃないわよ。そこそこ重要な軍人の役なのに、いつもの如くオカマの演技をしたもの。収録はめちゃくちゃ伸びるわ、監督キレまくるわ、散々な現場だったわ。ねえ?光希」


「はい。僕は子供だからと途中で帰ることができましたけど、社長なんてメインキャラだったから最後まで収録で残ったんですよね?」


「朝に始まった収録で日付変わる直前まで残ったわよ……。スタジオはその日しか確保してなかったから日にちはズラせなくて、突貫収録よ。予想通りの吹き替え評価で笑うしかなかったわ」


 結構有名シリーズの、海外でも国内でも有名なシリーズ物のアクション映画だ。襲いかかる巨大怪獣に対して軍や科学兵器でなんとか撃退するっていうアメリカの映画。


 大元の映画は賞をもらうほど好評だったが、日本語吹き替えだけは評価が最悪だ。スタジオの時間が押していたために最後の方は一発録りするしかなく、まともに休憩せず主要キャストたちが頑張ったんだけど喉の酷使とストレスで最後の方の演技はグチャグチャ。


 大元だと若い将校がイケメンでカッコよく散る役なのに、矢口は散る時もいつもの時もオカマのような演技をして、終始映像にそぐわない、狙ってもいないのにギャグのような雰囲気になってしまい、空気感がめちゃくちゃになるという始末。


 カッコイイアクション映画が、見てみたらホームコメディものに変わってた、みたいな豹変ぶりに原作初期からのファンが怒り狂って字幕版が吹き替えよりも動員できたという声優・吹き替え業界からしたら汚点でしかない作品。


 アレの被害者は共演したキャストと、配役に関わらなかった監督、音響監督だろう。映画の場合監督が選ばずに配給元が選ぶことが多い。配給元も声優や俳優の演技を確認せず、知名度で選ぶことも多い。僕がそのパターンだった。


 矢口は事務所の押しと、そのヴィジュアルで選ばれたとかなんとか。女性というかオカマのメイクをしているが、美形なのは認める。その容姿に騙された誰かが起こした惨事だ。


 あの映画、一回だけ見てそれ以降一回も見ていない。見たくなったら字幕版を僕も見る。


「収録中の態度も悪かったし、本当にあのオカマの演技しかできないのよ。先輩を敬うとか、そういう素振りも自分の演技を変えようとすらしないし」


「台本も見ないでネイルを弄ってた時は正気かと思いましたよ。当時十一歳の僕が」


「そうそう!どれだけ自信あるんだって思ってたら出てきたのがあの気持ち悪い、全く合ってない演技でしょ⁉︎唖然としたわよ!見た目あんなだけどかっこいい演技できるんだろうなって期待してたのに!キャストが揃っていない以外でシーンが飛んだ現場は初めてだったわ!」


 社長の叫びに、野原さんがウワァと白い目を浮かべていた。


 僕が子役時代に経験した最後の吹き替えだったなあ、あの現場。アレで松村さんが怒って吹き替えの仕事断り始めたんだっけ。子役の時の事務所としても、僕を押し出した作品が吹き替えの評価最悪になって頭抱えてたし。


 誰も得しない作品になったんだよな、アレ。


 声優とかそういうことを抜いても、プロとしてありえない所業だったからな。台本も読み込まずに演技を叱られるって。事前に貰った映像を見たらカッコイイ役だと知らなかったなんてありえない。


 でもあの人、どの作品に出てもそんな感じなのだ。だからその演技しかできない人で、そんな人が今も声優として活動していることに驚いている。


「野原は共演したことあったっけ?」


「いや、ないですけど。ほら、週刊誌のサッカーものがアニメ化したことあったじゃないですか。最近連載が終わった作品の『ボランチの魔術師』。あれ俺大好きで、アニメ見たら敵役の一人をアイツが演じてて」


「またいつもの?」


「シュート打った時の声が『オラァ!』じゃなくて『オハァン』みたいな気の抜ける声で。それでズバンとゴール決めてるんですよ?顎外れましたね」


 同業者だからこそ、許せないんだろう。普通下手だったり現場での態度が悪かったら干されるんだけどなあ。


 同じ声優から共演NG喰らいまくったらそれこそ一緒に出られるアニメってなさそうだけど。そうしたら個人収録のゲームの収録で細々と生きていくしかなくなる。


 その辺りを流山社長に聞いてみたかった。


「あの。何で干されないんです?同業者やアニメ監督とか、嫌われてないんですか?」


「いやー、嫌われてるわよ。けどあそこの事務所は最大派閥並みに大きいから所属タレントとしては仕事が減らないわ。それこそアプリゲームとかならたくさんキャラいるから仕事はあるでしょうし、あそこの事務所は子会社にアニメ制作会社があるから、アニメの仕事もなくならないわ」


「いや、それでも雇われた監督とかがNG出したり……。雇われだから、そんな権限ないのか」


 野原さんの疑問に流山社長が頷く。


 要するに提供元、製作委員会側が事務所だから、そこが選んでしまったキャストは監督とはいえ拒絶できないわけだ。


 たとえ嫌でも使わざるをえない。立場の関係だろう。スポンサーに弱いのはどこでも一緒だ。


「それにいくら自分の子会社アニメとはいえ、他の事務所の声優を一切使わずに作るのは無理。放送権がある動画配信サイトや地上波のスポンサーが絶対いるはずだから。他の事務所側としても共演NGを出していても、特定の声優を一緒に起用したいスポンサーの声を全て跳ね除けられるわけでもなし」


「大手だからこその悩みってやつですか」


「そ。それに彼は顔と歌だけは良いから写真集とライブをやればファンがついちゃうのよ。で、演技なんて二の次でいいファンがアニメに出せってファンレター送って、事務所が推すようになってっていう悪循環。彼の場合上手くならずに切られる前に他で売り上げを作っちゃったから切れなくなったのよ。アイドル崩れだし、収入を出しているから事務所としても手放す理由はないし」


 干されない理由はわかった。


 それでもなあ。納得できない。


 僕らは声優だ。声で演技をするのが本分だ。顔を出さず、絵や映像に声を当てる職業だ。


 その演技を二の次にして、写真集やライブで売れるなんて声優である必要がないじゃないか。女性で多いアイドル声優だってアニメなどでの演技が上手い人たちばかりだ。ヴィジュアルだけで生きている声優なんて一握りだろう。


 演技が上手いという前提条件があるなら、歌やダンス、写真集で売ることもいいと思う。それは個人の売り方次第。でもその前提が崩れていて声優を名乗るのは烏滸がましいとさえ思う。


 これは僕らが子役や舞台俳優上がりだからだろうか。


 俳優こそ、顔で売ったりする。主役を演技が上手くないアイドルがやったりする。それで集客できるから許されているのであって、アイドルが主役をやっていたらそのドラマを見ないと言う人もいるだろう。


 基本的に顔を出し続ける俳優という職業で顔が重視されるのはまだわかる。そういう需要がたくさんあることも。


 けど、声優は違うだろう。


 僕はもう俳優になれない。それでも演技ができる場所を探して、流山社長と松村さんに誘われて。やれることをやろうと前向きになって声優をやっている。


 誇りある職業だ。たくさんの子供が夢見る職業だ。楽しみにしてくれるファンが多い職業だ。


 楽しみにしてくれている大多数のファンを失望させるような、そんな声優にはなりたくない。ファンには純粋に作品を楽しんでほしい。娯楽として、人生の一助になってほしい。


 プロ意識の欠ける人も、そんな人を使い続ける事務所も、僕らとは感性が違う。だからこうも嫌悪感が出てくる。


 そうして比べて、僕らはこの事務所で良かったと心から思えるんだ。


「声優って名前が売れて顔出しもするようになれば、声優バラエティとか動画サイトに投稿したりして稼げるようになるわ。それだけで矢口は食べていけるのよ。そんなの声優じゃないけどね」


「なんつーか……。アニメにもたまに出るアイドルって感じですね。どっちが本業なんだか」


「ウチの事務所は演技重視!アニメや吹き替えとかラジオとか、とにかく声優であることを求めるわ。顔出しバラエティとかは話が来た時においおいね。でもまずは声優として自分の立場を確立していきましょ」


「はい。あの時社長に声をかけていただけて、僕は幸せです」


「俺も。こんな声だし、俳優としてはちぐはぐだった俺を拾ってくれて嬉しいですよ社長」


 プロフェッショナルとして信念がある人たちの元で働けるのは幸せだ。これで写真集やらライブやらを強制してくる事務所だったらやめていたと思う。


 そういう信念を聞いていたから、僕は声優として踏み出したんだけど。


「いやー、良い子たちを拾ったわー。あ、二人ともNGにするような人増えたら言いなさいよ?キャストだけじゃなくて、スタッフとか原作者とか脚本家でも良いから。そういうスタッフに虐められたり、酷い原作でイメージがついちゃって次に繋がらなくなってやめていった声優って多いんだから。私がダメだと思うスタッフの作品は選ばないようにしてるけど、全部は把握してないからわかったら言いなさいよ?」


「はい。助かります」


「……そういえば社長?スタッフやキャストがこうやってNGを出しますけど、それだって全部叶えられることもないですよね?スタッフ側は配給元とかの問題があるのかもしれないですけど」


 僕は子役の頃NGとか特になかったので、その辺りに疎い。困った大人ばかりだったけど、俳優として、監督として、スタッフとして。皆がプロフェッショナルだった。作品作りに真剣だった。


 だから子役の頃作品作りは楽しかった。楽しくなかった作品なんて両手で収まるほどだ。それでもこの人と一緒に仕事するのは嫌だと思ったことはなかった。


 まあ、性格面では手の焼く人が多かったけど。破天荒とも言う。


「共演NGって言っても、ほとんどが同じ場での収録でしょ?ゲームの収録なら基本一人の収録だから同じ作品に出てもNGに抵触しないわ。それにシリーズ物になって前作のキャラと新作のキャラでブッキングしちゃうこともあるからそこは仕方なくでNG相手でも一緒にイベントで登壇したり共演したりする。でも本当に嫌な人の場合全NGっていう絶対に共演は何もかもしたくありませんっていうのもあるわ。矢口のはそれにしておく?」


「「是非!」」


 野原さんと声を合わせてお願いする。まだ僕らは声優としてキャリアがないド新人だけど、それだけ拒否したい相手だ。彼と事務所だけ沈むなら構わないけど、泥舟とわかっている舟に自ら近寄ろうとは思えない。


 演技が上手くなろうと、あの態度ではずっとNGのままだろう。


「そういう細かいことの風通しが良いのは小さい事務所ならではよねえ。大きい事務所は人手もあるけど、そういう申請が煩雑で勝手に仕事組まれたりするし。ああ、それで思い出したけど光希。今週の金曜日の生放送大丈夫なのよね?」


「はい。大丈夫です。予定も特にありませんでしたし。ただ学校が始まってからサプライズで予定を埋められたらちょっと対応できないです」


「わかったわ。もうしないわよ。野原、光希が学校始まったら平日の日中のオーディションはあんた中心に受けさせるからね。二人しかいない男だから、ドンドン送るわよ」


「あざっす!まずはこの三キャラ頑張ります!」


「よろしい。あとはスケジュールの確認しましょうか。光希、あなたの入学式出席するわね」


「え、はい?ありがとうございます?」


 僕の保護者となると父さんと姉さんになるわけだけど、確か同じ日に鈴華ちゃんの入学式だから姉さんはそっちに行く。父さんは来られないから別に誰も来ないことを気にしてなかったけど、社長が来るのか。


 社長の身バレしないよね?社長ってあまり表に写真とか出回ってないし。


 来てくれるのは純粋に嬉しいから、断ったりしない。社長はもう一人の母くらいに思ってるから若干の恥ずかしさよりも嬉しさが勝る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る