幸運の起源




 無意識のうちに回していたペンが転がった。

 カラン、と音を立てて机を滑るそれを掴まえて、ほっと息をつく。

「おまえ帰ったら?」

 隣でブッカーを貼っていた伊達が言う。

 彼こそもう帰っても良さそうなのに、付き合ってくれているのは優しさだろう。


 会議は終わって、図書館も閉めた。

 自由に個々の行動をしている二河原にこうら高校図書局には、のんびりした空気が流れていた。

 二河原高校の部活動は五時半までと決められている。

 俺がここで帰らなかったとしても、残れる時間はわずかであった。

 ならば、書類くらいは終わらせたい。

 そんな思いでペンを回す。

「つうか、帰れるのか? 安藤先輩もいないし」

「僕、途中まで一緒だから送りましょうか」

 椿が身を乗り出し尋ねた。

 先日地元に遊びに来た椿は、俺の家もよく知っている。佐羽によれば椿の家と俺たちが住む地区は、バスで行き来ができる距離らしい。

 とはいえ、後輩に送られるほど弱っているわけではない。

 どうやら俺は、一人で帰ることもできないと思われているらしい。心外な評価にむっとするが、伊達がこちらを覗き込む顔に嫌味はない。



 先週、急に下がった気温に頭痛がすると思っていたら、あっという間に起き上がれなくなった。

 発熱していたことに気がつき、週末を含めて丸四日間寝込んだ。

 飲んでいる薬の副反応や「持病」で休むことはあっても、素直に風邪で病欠するのは久しぶりのことだった。

 いつも毎日顔を出している場所から、一週間の半分を離れていたことになる。

 熱はすぐ下がったから出てきたが、弱った喉には、学校という空間の埃がきついようだ。つけてきたマスクは煩わしいが、咳は自宅で寝ていたときより酷くなっていた。

 いきなりの七時間授業は、体に鞭を打ち過ぎたらしい。

 霞む視界は明らかにキャパオーバーを迎えていて、重い頭は簡単な文章すらまとめられない。


「議事録なら私が作っておこう。病み上がりで無理をしてはいけない」

 机の向こうから南方みなみがたが言う。

「局長、議事録なら僕が……」

 彼の悪筆を知る椿が焦ったように名乗り出て、妙なやる気を見せている南方を止めに行った。

 どちらにせよ、今日はこれ以上の集中はできないらしい。先ほどから進まない議事録は椿に預けることにして、持っていたペンを置く。


 今日は、会議の進行もできそうにない。

 そう南方に打ち明けると、何故か嬉しそうな顔をされたのは予想外であった。

 何も言うなと釘を刺されてなければ、会議中に限界を迎えていたかもしれない。南方の意味不明な行動は、時折彼にとっても無意識に人を救うから不思議だ。


 やることがなければ、休むしかない。

 ブッカーや資料でごちゃごちゃした作業机につっぷすと、伊達が呆れたように溜息をついた。


「先輩のペンって、かっこいいですよね」

 ふいに、校内新聞の原稿を書いていた流川が言った。

 顔をあげると、彼女が遠慮がちに転がしたペンに触れているところだった。

 触れる許可を出すと、流川は丁寧な手つきで万年筆のキャップを取った。用紙の端に落書きをして、中に入っていたインクの感触に感嘆の声を出す。

 カートリッジをいれるタイプの万年筆だ。

 ボールペンやサインペンと違って扱いにはコツがいるが、慣れてしまえば様々な線が書ける。授業以外ではこれと決めていて、俺のペンケースにはいつも入っている。

 黒地に金の装飾が凝らされている美しい相棒は、俺の宝物である。

「南方がくれたやつ」

「そうなんですか。局長にしては良いセンスですね」

 素直な彼女は、失言に気づくと口を覆った。

 今日は細かな叱責をする気にもなれない。

 見逃したのが肌で分かったのか、彼女はそそくさとペンを返してきた。

「レオとお揃いなんだっけ」

 携帯端末をいじっていた伊達が聞く。

「お兄さんがくれたんだって。書き心地が良かったから俺にも同じの買ってくれた」


 あれは俺が副局長になった翌日のことだったはずだ。

 箱に入った万年筆をもらったことも、何か上質な贈り物をされたことも初めてだ。

 価値に見合う返礼ができないと戸惑う俺に、南方はその分の行動を要求した。副局長としての働きだけではない、今後の全ての行動が善良であることを決意させる出来事になった。

 返ってきたペンを、大事にケースに仕舞う。

 メーカーを聞かれて答えると、流川も携帯端末を取り出した。値段を調べたらしい彼女は、また素直に眼鏡の奥の瞳を丸くした。

「レオ、人に物贈るの好きだよな」

「まりえちゃんは去年のクリスマスに手帳をもらったって言ってたよ。大事すぎて使えないらしい」

 南方は何かと理由をつけて、周囲の人間に贈り物をする。

 誕生日などの記念日はすぐに頭から抜けるようだが、本人ですら自覚していないような些細な出来事を記念にして、褒美を与えるのだ。

 贈るなら上質なもの、と決めているらしく、もらったときは俺も正直受け取り難いと感じた。

 しかし、彼にとってはそれも出資なのだろう。

 信用を得た相手からはどこまでも信頼される。

 一種の人たらしの才能を持つ男は、誰かが冗談半分でつけたあだ名を体現しているように感じる。

 

「そういえば、まりえちゃんが風邪で休みなの珍しいな。四組で流行ってるんだって?」

 メッセージアプリを開いた伊達が、何かを打ち込みながらつぶやく。

「二年の四組ってあれですよね。クラス替えの後から一度も全員が揃ったことがないで有名な」

「そう。最近はますますスカスカ。遠足までに学級閉鎖になったら笑うね」

 進学科の中でも運動部が多い四組は、各部活動から風邪をもらってくることが多いらしい。

 一年の間でも有名なのかと驚けば、流川のクラス担任が四組も教えている体育教師のようだ。話の詳細を聞くのはやめて、俺はまた机に重い身体を預けることにする。

「まりえちゃん、明日は来るって」

 伊達が端末の画面をこちらに向けた。

 眩しさに目を細める。見慣れた名前が登録されている画面に、可愛らしいライオンの画像スタンプが並んでいた。

「よかった。俺、議事録作るの苦手」

「馬場先輩、得意そうに見えますけど」

「南方が言ってることを一語一句書き残せるのはまりえちゃんくらいだよ」

 彼女の不在は、図書局にとって大きな穴だ。少なくとも、俺にとっては。

 何やら話し合っていた南方と椿が、司書室を出て行った。

 内緒話の雰囲気に、皆がなんとなく黙る。

 こういうときに佐羽がいれば、迷わず南方について行っただろう。こんなところにも非日常を感じて、落ち着かない気持ちになる。

 ふと、視界に入ったペンケースに、棒つき飴が一つ残っているのが見えた。

 さきほどの会議で一年に配った分で最後だと思っていただけに、お得感がある。


 包装紙を剥がしかけたところで、外出していた平森が戻ってきた。

 俺の顔色を見て、親切な司書教諭は車を出すと言ってくれた。

 生徒にとって下校時間が近くても、教師にとってはまだ帰宅する時間ではないはずだ。

 迷惑をかけるわけにもいかないので、今日は大人しく帰ることにした。心配の声を受け流して、荷物と飴をまとめて立ち上がる。


 校舎を出ると、ひんやりとした空気が頬を冷やした。

 六月に入っても、日が暮れればまだ凍える日も多い。

 ブレザーの前を合わせて、足早に地下鉄に乗る。

 


 二河原がある矢車地区と地元は、まあまあの距離があった。

 周囲は近場の学校を選んでいたが、地元を離れたかった俺にとってはちょうどいい遠さで、通学途中に大きな本屋があるのも気に入っている。

 長い通学時間も、本を読んでいればあっという間だ。

 途中うつらうつらしながらも駅につけば、そこからは目と鼻の先である。

 駅からも見える十字架を仰げば、座っているときには意識しなかった目眩がまた戻ってきた。


「馬場、」

 座り込みかけたとき、柔らかな声が耳に届いた。

 薄手のシャツ一枚で佇む先輩は、今日も穏やかな笑みを浮かべている。

「安藤先輩?」

「伊達くんから連絡が来たんだ。すれ違いにならなくてよかった」

「……あいつ、案外過保護ですね」

「さっき、まりえちゃんのお見舞いも行ってきたんだ。明日は学校行くって」

 安藤は手に掲げたビニール袋を揺らした。

 佐羽の親から菓子をもらったらしい。お裾分けだと言って中身を俺に渡した先輩は、当たり前のように俺の鞄を受け取って自分の肩にかけた。




 駅からのなだらかな上り坂を歩けば、閑静な住宅街が広がっている。

 雪が降る北国は道が広い。

 比較的最近になって整備された道と街並みは清潔で、車が走る音以外の騒音がない。風景は、開発が終わった時代から時が止まっているのだろう。毎日見ている町並みに面白味はない。

 見慣れた民家やアパートを過ぎ、大きな国道を渡る。

 その先に経つ病院横の路地に行けば、安藤と佐羽の家がある。

 しかし、安藤の足は真っすぐに俺の家に向いていた。


 荷物がなくなって手持無沙汰になった俺は、食べ損ねていた飴を取り出した。包装紙を剥ぎ、慣れた味を咥える。

「今日の会議、どうだった?」

 三年は午後から校舎にいなかった。

 課外学習で博物館に行くと言っていたはずだ。そちらは語ることはないのか、定例会議について彼は尋ねる。

「南方がまた何かやってました。詳しいことは聞いてませんが」

「そう。先週に話していたことかな」

「先週?」

「南方くんと、まりえちゃんで。馬場が休みだったから、会議に持ち越したんだ」

 聞けば、南方と佐羽の間で話し合いの方向性は決めていたらしい。

 結果、俺がいてもいなくても、今日の議題は解決しただろう。

 本当なら南方のような決断力のある男にとって「皆で相談」は煩わしい手間でしかないはずだ。

 進んで場を設けるようになったのは、彼なりに何か思うこと、もしくは目的があるのだろう。

 俺が口を出しても、こればかりは無駄だ。

 あの男をあの男以外が動かすのは不可能なのだと、改めて認識する。


 話しながら歩いているうちに、坂の終着点に辿り着いた。

 門が開いているから、まだ父も家に戻っていないらしい。

 勝手知ったる様子で家の敷地に入った安藤は、玄関前でようやく俺に鞄を返してくれた。

 鍵を取り出し、中に入る。

 やっぱり当たり前のように中にも入った先輩は、俺が脱ぎ散らかした靴も丁寧に揃えてくれた。

「……ぜんさん、寄っていくんですか」

「病み上がりで、疲れた顔で帰って来るだろうと思ってた。馬場が休むのを見届けるまで、帰れないよ」

 なんてことのないように告げた彼は、俺を二階の自室まで追いやった。



 安藤の過保護さは、いまに始まったことではない。

 中学二年の夏に、俺はバイクの転倒事故に巻き込まれた。

 ピッチャーとして大事な肩を壊し、最終的に野球や軽い運動までが出来なくなってしまった。

 左腕の怪我は大体完治しているが、いまでも雨が降る前はじくじくと痛む。骨折経験がある知り合いが向こう十年は痛みが残ると言っていたから、それ自体は諦めるしかないのだろう。

 だが、俺の認識外で、俺の身体はまだあきらめきれていないらしい。

 運動をしようとすると、全身が竦む。

 何かを求められていると思うと、何も考えられなくなる。

 そうなっているときの記憶は、あまり残っていない。ただ苦痛から逃れたくて、苦しい呼吸を繰り返して、時が過ぎるのを待つしかない。


 プロの選手を蝕む病名と同じものを告げられたときは、納得よりも反発する気持ちが大きかった。

 いまでも俺は、自分自身の変化を受け止めきれていないのだろう。

 体育のたびに無力な自分を責め、消えてしまいたくなる衝動を紛わす方法を、俺はまだ満足に見つけられていない。

 

 

 事故現場に居合わせ、救急車が来るまで傍にいてくれた先輩にとって、俺のそういった姿は痛々しく見えているらしい。

 彼は怪我が完治してもなお、細かな世話を焼きたがる。

 俺に無理をさせまいと重いものを率先して持ち、さりげなく負担を減らそうとする。

 安藤は、時折バッティングセンターに俺を連れ出してくれる。

 彼が中学の時と同じフォームでスイングするのを眺める時間は、俺にとって何も考えなくていい時間だ。

 出来なくなったからといって、野球が嫌いになったわけではない。

 それはきっと、彼がスポーツそのものを嫌悪しないように気をつけてくれているおかげだ。


 惜しみなく与えられる献身や彼からの「愛情」は、時にくすぐったい。

 だが、心地よさについ甘えてしまっている。

 自室に辿り着いてベッドに倒れた俺を、彼は甲斐甲斐しく世話を焼いた。

 食べかけの飴や荷物を片付けた彼は、最後に見慣れたパッケージのペットボトルを渡してくれた

 俺が好きなミルクティーだ。

 礼を言うと、彼は黙って首を横に振る。



「いいものを読んでいるね」

 部屋のあちこちに積まれている本から、安藤が一冊の文庫本を拾い上げた。

 寝返りを打って彼の手元を見れば、先日古本屋でみつけた短編集をめくっているところだった。

「『泊り客の枕もとに、O・ヘンリ、あるいはサキ、あるいはその両方をおいていなければ、女主人として完璧とはいえない』」

「有名な批評だね。O・ヘンリーは読んだ?」

「何作か。『賢者の贈り物』とか、『最後の一枚の葉』くらいで」

「同時期の作家だと、モーパッサンも面白いよ。『頸飾り』とか」

 安藤は祖父が読書家だったということで、古い作品も多く知っている。

 まだ彼の足元にも及ばないが、俺もここ数年で様々な本に触れた。

 サキの名前を最初に見たのはどこだったか。ようやく探し当てた文庫本は、はやくも俺のお気に入りになりそうな一冊だ。

「マンローの書く飄々としたキャラクターが好きだな。クローヴィスの世渡り上手なところも嫌いじゃないけど、レジナルドの不躾でどこか潔いところがスッとする」

 安藤は独り言のように言いながらぱらぱらと本をめくり、俺の反応を見て手を止めた。

 目次を眺めた彼は、口元に穏やかな笑みを浮かべる。

「ごめん。これには掲載されていないんだね」

「別の短編集ですか」

「文庫版はこの一冊しか存在しないはず。今度、持っていくよ」

 本は、永遠に同じものが販売されるとは限らない。

 年間に数えきれないほどの数が新しく出版され、古いものを擦り続けていたら倉庫が膨れ上がってしまう。

 紙も劣化し、中身も時代にそぐわなくなっていく。

 だから名著と呼ばれる作品以外は、次第に歴史という海に埋もれていくのだ。


 でも、誰かが求める限り、本は生きる。

 「愛書家ビブリオフィル」とか「愛書狂ビブリオマーヌ」と呼ばれる人間が存在するのも、誰からも見向きもされなくなった本を後世に語り継ぐためなのだろう。

 安藤の祖父に感謝しながら、まだ見ぬ本に思いを馳せる。


 本を置いた彼は、ふいに俺の額のあたりに触れた。

 何も言わないところを見るに、熱がぶり返したわけではなさそうだ。起き上がって、彼がくれたペットボトルを開ける。

 ベッドの上で飲み物を飲むだらしなさも、彼は穏やかな表情のまま黙認してくれた。

「短編集では、どの作品が気に入った?」

「『セルノグラツの狼』です」

「ガヴァネスが名家の最後の一人だった話かな。サキの作品には、たびたび野生の狼が登場するね」

 それだけ人々にとって恐怖の存在で、身近な存在だったということだろう。

 現代のこの国では動物園でしか見かけない存在だが、どこか神秘的な印象を抱くのは勝手な評価だろうか。


 考え事をしていると、階下で扉が開く音がした。

 父親が帰ってきたらしい。

 やっと立ち上がった安藤は、俺の頭を柔らかく触れた。

 寝転んで跳ねた髪を整えたらしい。

 彼のひんやりとした指先が離れ、いつも微かに漂うすみれのような香りが遠ざかる。

「明日は無理しないんだよ。本はまりえちゃんに預けておくから、ゆっくり休んで」

「大丈夫ですよ。でも、ありがとうございます」

「うん。じゃあ」

 勝手知ったる彼は、家主の見送りがなくても慣れた様子で部屋を出ていく。

 どうせ、リビングで父親が掴まえるだろう。

 俺の様子を話して、俺が無理しないように気を配るのも彼の役目で、今更止めても無駄である。


 彼が階段を下りる音を聞きながら、机に置かれた鞄を開けに行く。

 手帳と愛用のペンを取り出して、先ほど安藤から聞いたばかりの名前を書きつけた。


 携帯端末で調べてみると、件のキャラクターがまとめられた作品集が出ているようだ。

 第三弾まで刊行されるような文書を見つけたが、ネットページでは第二弾までしか見つけられなかった。安藤に訳を尋ねることにして、ガジェットを手放す。


 つい癖で回した万年筆が、カーペットに転がった。

 拾い上げて、装飾が欠けていないのを確認してから、ペンケースに大事にしまった。

 大事にしているわりに扱いが雑だと南方に叱られてばかりだが、指先で回すのにもちょうどいいのだからしょうがない。



 身体が思うように動かなくなってから、無力な自分を責めて消えてしまいたくなる衝動を紛わす方法を、俺はまだ満足に見つけられていない。

 止まっている時間をひとまず埋めてくれたのは、目の前の本だった。

 知らない世界に触れるたびに、沈んでいた心がほどける。

 何もなくなってしまった毎日に、新しい色をくれる。

 本を読むようになったことで、安藤と親しくなった。二河原で南方と出会えた。

 ある意味、怪我をしてラッキーだった。

 

 そうどこかで思っていることを告げたら、あの優しい先輩は俺を叱るだろうか。



 俺の宝物の万年筆は、消えたくなる気持ちを繋ぎとめてくれるものだ。

 あの偉大な人物の友情を手に入れ、幸運の起源となった証。



 ノートを開いて机に向かった俺を、父親が呼ぶ声がする。

 


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