村じまいのイトヨリくん

宮崎マモル

まりあさまのお椀

 一日一往復の船便は、白い波の尾をひいて港を離れていった。

 フェリーで本島まで三時間半、そこからさらに小さな水上タクシーの定期便に乗り換え、波に振り回されてようやくたどりつく。

 島と同じ名前の名字しかない集落の、バス停のような船着き場だ。周辺の島と同じように海に面して白いマリア像が建てられている。マリア像の背後に植えられたソテツの木は伸び放題で、打ち捨てられた場所で自生したユリが枯れていた。ここはかつて、隠蔽された信仰の地だった。 

 N市住民課の糸和はスマホで時間を確かめ、電波がほとんど来ていないことを知った。かすんで見える本島のほうへスマホを振ると、ようやくつながるといったありさまで、これでは庄屋の屋敷では電話を借りなければならないようだ。


 庄屋、とはなんですか?と糸和がたずねたとき、係長はえっ知らないの?と間抜けた声を出した。

「そうか、イトヨリくん昔話とか知らんか。集落で一番偉い、村長みたいな人たい」

 いや昔話はわかりますけど、今時庄屋ってという言葉を飲み込んで糸和は、はあ、とだけ言った。

「とにかくイトヨリくんは、島の庄屋さんに話ばつけて退去の日取りだけ決めてきて。これは決定事項やけん、庄屋さんの面前で書類読むだけでよかけんね」

 そう言われて三つ折りの紙でふっくらとした市役所の封筒を受け取り、翌日出張ということになったのだ。

 係長のなまったイントネーションで糸和と呼ばれると魚になったような気分がする。

 あの人、釣り好きだもんな、

「自分が来ればよかったのに」

 頭の声がそのまま出てしまった。

 船酔いが続いてまだ足元が揺れている。くだんの庄屋とやらは高齢のため、糸和は迎えを期待せず、自分で向かうことにした。

 一周数キロメートルの小さな島だ。雑木林の丘をぐるりと回った道の反対側に屋敷はある。地図には港のそばに商店と郵便局があるはずだが、もぬけの殻になって久しく、廃屋は葛に覆われてペンキの看板だけ日に焼けて白く抜けていた。当然自販機も潮風にさらされて、錆で膨らんでいる。見本も真っ白になってもとは何が売っていたのかすら判別しかねた。

 いい天気で、行楽日和だ。夏なら港の突端から飛び込んでひと泳ぎしてもいいくらいのぬけるような青空で、防波堤から海を覗き込むと透明な波の下で海藻がねむたげに揺れている。

 糸和は防波堤に腰かけ、バッグからコンビニの1リットルのお茶とおにぎりを出した。船で食べようと思って買ったのだが、船酔いでそれどころではなくおやつどきの今頃になってようやく腹がすいてきた。

 海苔のフィルムが飛ばされないようにレジ袋の奥に突っ込み、端を尻に敷いて食べ始める。コンビニのおにぎりの清潔さを糸和は愛していた。乾燥した海苔の歯触りと、機械の握った角のある米は彼を安堵させる。

 糸和は弁当が嫌いだ。とくに市役所で出される仕出しの弁当や、子供のころの運動会でクラスメイトの母親が作ったおにぎりや卵焼きを憎んでいた。

 目の前で作られる料理はまだいい。熱が通ったばかりの料理や洗ったばかりのサラダも少しは安心して食べられる。しかし、どこの誰とも知れない人間の手を経て保存された食べ物のなかで、人知れず繁殖している雑菌のことを思うと、米のすきまからもメタンがにおってくるようで、笑顔で勧めてくるだれかの歯並びすら糸和には苦痛だった。

 糸和はあかるい日光の下でもう一つのおにぎりに手を伸ばし、フィルムに印刷された工場の名前を読む。

 滅菌されたオートメーションのベルトコンベアーの上で、リズミカルな作動音で型抜きされるおにぎりを思ってほほ笑んだ。安心と安全、そしておいしい。完璧だ。

 食べ終わったごみを捨てようと船着き場まで戻ったが、待合にごみ箱がない。うろうろ探してトイレまで行くとやっとごみ箱が存在していたので、突っ込んでおいた。

 ついでに用を足してさて、と出ると人が立っている。

 想定しない人影にぎくりと肩が揺れた。

「市役所の人かぁ」

 声をかけてきたのは老人だった。陽に焼けて肩は丸まっているが背は高く、齢は七十代くらいに見える。

「あ、はい、そうです。住民課の糸和と申します」

 耳が遠いといけないと思い、少しだけ声を張って名乗る。老人は島と同じ名前を名乗った。

「遠かったでしょう、来られんけん迎えんきした」

 その後何か早口で話をつづけたようだが、方言がきつくてわからない。本土の祖父母の言葉すらたまに怪しい糸和の耳には、外国の言葉の響きにすら聞こえた。

 何度か聞き返し、かろうじて聞き取れた単語から老人が糸和を迎えに来てくれたことがわかる。

 老人曰く、南側の道は去年の台風で崩れ、屋敷への道は一本しかないらしい。

「助かります。僕一人ではよう行かれんでした」

 老人は大きくうなずくと道路に停めた軽トラを指さした。いつの型式かわからないほど古く、元は白だと思われる車体は黄ばんでいる。ヘッドライトのカバーは割れ、ボディにあちこちにへこみができていた。

 あれが庄屋の車かあ、と糸和は思うが無下にするわけにもいかない。

 なにせ、もう島民は彼しかおらず、つまりこの軽トラが島唯一の車だからだ。

 老人は助手席に積んでいた空のペットボトルやごみの入った袋をざっと車外へ掃き出し、糸和に乗るように言った。さすがに糸和は閉口し、道路に落ちたごみを集めて自販機の陰に寄せる。

「おいしかおらんし、どうせ誰も見ん」

 老人は気を悪くしたようで、むっつりと言った。

 乾いたジュースでべたべたになった助手席の座面をティッシュで拭いて糸和は乗り込む。長年のタバコのにおいがしみ込んで車内の空気を苦くしていた。

「お元気ですねえ、車運転できっとですか」

 機嫌を取るために明るい声で問いかける。

 ずいぶん若く見えるがこの老人はたしか、

「誰も通らんもん。信号もなかけん、事故もなかたい」

 そのあとも何ごとか老人は話し続けたが、糸和は適当に相槌を打った。こういうものはタイミングさえ合えば問題なくすすむのだ。


 磯と小さな砂浜が連続する海沿いの道を数分ほど走ると、海に突き出した白い土塀が見えてきた。黒い重そうな瓦が乗った平屋づくりの屋根が覗き、庭と思しき松の木が数本、不精に生えていた。普通、こういう屋敷は海を避けて陸側の斜面に作られるものだが、岩場に石を組んだ土台は波に洗われていて、建物に詳しくない糸和にはただ奇妙に見える。

「はー、見事なお屋敷ですね。お城んごたる」

 台風のときはどうするのか。陸側に目を転じるとまだ使われていそうな戸建が斜面に貼りついている。どうやらいつもはこちらに住んでいるようだ。

 軽トラは門の前の路上に停まり、糸和もそこで降りた。

 老人は年代がかった大きな鍵を取り出し、門の横の通用口をあける。

 屋敷は土塗りで、木の柱や戸は風雨にさらされ脂が抜けていたが、手入れはされているようで意外だった。

 庭には狭い畑があり、老人は自分の食べる分を栽培しているようだ。ネギらしきものが植わっていた。

 屋敷の奥には背の高い土蔵がある。海に近い場所のはずだが、周りにはぼさぼさとした松の木が生えており、屋敷の正面からは屋根しか見えなかった。

「どうぞ、ここが本家の屋敷たい」

 老人はすっと背を伸ばして糸和を玄関に導いた。風を通してあったのだろう、潮風のにおいと土のにおいが甘くかおった。玄関には電話台があり、黒電話の線と分岐して後付けの電気の線が家に引き込まれていた。

 玄関の衝立は大きな木の根を輪切りにして漆で磨いてあり、木目の穴が有機的につながっている。高さは糸和の背ほどもある立派なもので、なにか人の姿を浮き彫りにしてあった。

 よく見れば人魚だ。おとぎ話のようには美しくない。

 根の穴を避けて彫り込まれているからか、姿勢が不自然でまるで磔か標本のように見える。

「人魚がおったとですよ。磯に揚げられとったけん、絵にして彫ったとです」

 糸和が目を離せずにいると、老人が説明してくれた。

 猿か狛犬に魚のしっぽがついているような姿だった。手は何かを掴むか、もがくように見えてやけに生々しい。

「ほんとうですか」

 ただただ気味が悪い。

 糸和は衝立をよけるように大きく回り込んで廊下へ抜けた。


 通された客間は無人の割には清潔だった。車の様子から物のあふれる独居老人の家を想像していたが、花こそ活けていないものの床の間に埃一つなく、ありあまる時間をこの屋敷の手入れに費やしている姿がうかぶ。

 飾られた掛け軸は魚か、と思えばこれも人魚だった。

 川を上る鯉のような構図だった。それとも泳ぎ去る後ろ姿か。魚のうろこが艶めかしい一方で、人体の部分は水にかすんでいる。外廊下の雨戸があけられているので、ガラスをはめた障子越しに夕方の日光が入り、絵の青みが麗しかった。

 老人を待つ間バッグから書類一式を出して揃える。

 離島の通知書と移転期限、移転先の介護付き住居の案内、財産の処分に関する業者の紹介資料、住所移転届。

 この島は無人になる。

 国の政策により人口が急減した地方は水道や電気の供給を停止する。むらじまい、とプロジェクトは呼ばれていた。

 近々に定期便も廃止になり、人は住み慣れた場所から市営住宅に移される。集落に残る住民はたいてい高齢者のため、移転先は介護職員が常駐した集合住宅だ。

 市はこの島でも数度説明会を行っており、移動の費用と生活のあてができれば島民はみな素直に移動した。

 この家を守る老人だけがひとり、島に残っている。

 さびれてはいるが整えられた本宅に案内する老人の仕草からは誇りのようなものを感じたが、すでにここで生きるすべはない。船が止まれば生活必需品を買うことも、そのための年金の手渡しもできなくなるのだ。

「お待たせしました」

 老人はポットと急須や茶碗の入った茶櫃を抱えて戻ってきた。一度荷物を下ろし膝をついて襖を開けて入ってくる仕草は少し時代劇じみていて、糸和はその場にそぐわない苦笑いをもらした。

「こっちの家にはガスがなかけん、泊まっていただくとに不便ですが」

「あ、いえお部屋さえ貸していただければ充分です。ありがとうございます」

 茶をだしてもらい、一口つけたところで糸和は話を切り出した。

 一通りの説明を老人は相槌もうたず聞いている。

「冬には海が荒れます。引っ越しは何日かに分けんとできませんので、はやめに準備してください。あと」

「あなた物持ちでしょう。物置も準備させますので」

 土蔵のある家だ。もしかしたら文化財など市で面倒を見なければならないかもしれない。老人には子や親類はいない。彼の代で家は絶えることになるだろう。その場合は所蔵品は市が面倒を見ることになるかもしれないのだ。

 老人は沈んだ目で拡げられた書類をにらんでいた。

「ここには、やっぱりおられんとですか。おいはここで死にたか」

 そう言う高齢者は多い。

「お医者さんも来られんとです。お体の調子を崩されてからでは、財産もどげんもできません。いくら今お元気でも、いつ何時倒れられるかわからんのです。発見も遅れます」

 糸和は声を張り、熱心に続けた。なにせ、目の前にいるこの老人は車を運転でき、いくら若く見えたとしても齢百歳を超えている。

「この家ば野ざらしにするのは」

「わかります。ですが、しょうもなかとです。おひとりではとても」

 老人は口を噤んだ。書類を集めてゆっくり立ち上がる。

「こまります、ここでハンコば押してもらわんと」

 書類は何度も郵送した。糸和は最後の通告にきたのだ。

「一晩、時間ばください。明日の船までに決心するけん」

 老人は絞り出したような声で夕食の準備をすると言い残して部屋を出ていった。


 ネットが通じないとやることがない。

 客間で電源を拝借して本土でダウンロードしておいた雑誌を開くが、拡大するのも面倒ですぐやめてしまった。

 屋敷を探検しようかと思い部屋を出てみる。外廊下は中庭に通じ、踏み石は池に伸びていたが、池には浅く雨水がよどんでいた。草は生えるにまかされており、じきに背の高い萱や薄に飲み込まれそうだ。屋敷はかぎ型に部屋が繋がっていて、いま糸和がいる外廊下と部屋をはさんで内廊下が通っており、外廊下は屋根のある離れにつながっている。

 離れには簡易下水のトイレとタイル張りの五右衛門風呂があり、引き戸は湿気を吸って歪んでいた。溝の部分だけ金属がはまっており、簡単な施錠ができるようになっている。

 離れからは廊下は途切れ、土蔵へ降りる階段の上には屋根がなかった。直接土蔵へ行くには靴がいる。踏み石の間には玉砂利が敷いてあり、そこだけ雑草もなくきれいだった。靴を取りに行こうかと思ったが、主のいぬ間に土蔵の詮索をするのは具合が悪い。糸和は引き返して、屋敷のもう一方の端へと向きを返した。

 そのとき、声をきいた気がした。

 糸和は自分の耳を疑った。風の音だったかもしれない、もしかして季節外れのやぶ蚊が耳の脇を通ったのかも。

 陽の傾いた暗がりに、古い家屋と土蔵という装置のせいで糸和にはそれが誰かの呻き、すすり泣きに聞こえた。

 ずっと聞こえる潮騒と、ざらざらと松の木を揺する夕風にそれはすぐ紛れて、わからなくなってしまう。不安が背中を這い上がる。

 来た道を早足で戻り、もとの灯りを目指した。客間の電気をつけておいてよかった。客間までは二部屋分、客間から隣が玄関、曲がってまた二部屋ほどあるのを確認して引っ込む。風呂を借りるのはあきらめているが、トイレについては覚悟しなければならないようだ。

 玄関からの突き当りにおそらく台所があるのだろうが、おかしな造りになっているな、と糸和は思った。古い家は普通、部屋が固まっているものだ。岬に立てた屋敷のせいか、いやに細長い間取りになっている。台所から勝手口が遠いのもずいぶん変だ。まるで土蔵に食べ物を置いて、庭から行き来しているような形である。

 旧い家には行き慣れているだけで、とくに知識がない糸和でさえ不思議と思う屋敷だ。きっと史跡的な価値があるのだろう。役所に戻ったら詳しいやつにきいてみようと思って客間で茶を淹れて老人を待った。


 傾いた陽が落ち切った七時前に老人は手鍋と握り飯を持って戻ってきた。

 手鍋はみそ汁だった。肉と青ねぎと人参が入っている。握り飯は海苔が巻いてあり、中身はわからないがこれは食べられないな、と糸和は思った。

 宿のない僻地にこうして世話になるとき、糸和はいつも携帯食を持ち歩いている。世話になっている手前、出されたものに口をつけないわけにはいかないが理由をつけてごまかしておくほかない。

「すみません、僕ちょっと船酔いで……お気持ちだけいただきます」

 老人は眼をまたたいて、そうかあ、と言った。

「ひっだあなったら食えね。おろよか物ですまんね」

 そう言いながらも握り飯の皿をわきに置いて持ってきた雑煮椀に汁を注ぐ。

「汁だけでもぬっかうちにどうぞ。おいの長生きん秘訣たい」

 糸和はずい、と差し出された椀を両手で受け取った。

 椀に注がれた汁は何もかもくたくたに煮えて、具は細かく溶けていた。

 ねぎくさい味噌の奥に嗅ぎなれない獣のにおいがする。

 老人はじっと、糸和を見ている。視線の圧に負けて糸和は椀に口をつけた。

 ねぎと生姜と人参が同じ大きさに刻まれたなかに、細切れの肉が口を通っていく。薬味のきいた味なのでなんとか飲み込めたが、噛むのは勘弁してほしかった。

 今日の訪問のような田舎では、なぞの禽獣を食べさせられることもあるのだが、今までの何とも似ていないにおいが後味に広がる。半分ほどで椀を置いて、失礼のないように茶で口をごまかした。

「からだがぽかぽかします。ありがたいです」

 老人はにこにこと頷いた。

「全部、飲みんさい。力になるたい」

 片付かないからなんとかせよ、との意思も感じる。糸和は覚悟して再度椀を手に取った。二口目は一口目より気力がいる。まずいものではないのだが、他人の手作りの料理ほど糸和を苦しめるものはない。

 箸を使って底に沈んだ肉を掻きこみ、椀と一緒に老人に返した。

「ごっそうさんです。ご飯はあとでいただきます」

 手の甲で口を押え、笑顔をつくる。

 この仕事のつらいところだ。

「明日書類ば返すとき皿はもらうけん、おにぎり、残さんとちゃんと食ろうてね」

「はい」

「布団は次の間に延べてあっけん、早う休みんさい」

「ありがとうございます。おやすみなさい」

 老人は椀と手鍋を重ねて持った。

 客間を出て、足音が遠ざかったのを確認して糸和は茶で口をすすぐ。胃から汁のにおいが上がってくるようで、深呼吸しながら部屋を歩き回った。

 びょうびょうという風の音にあの声が混じっていないかと怯えながら離れに向かい、トイレと可能な限り念入りな歯磨きを済ませて小走りに部屋に戻る。

 雨戸を閉めてもらうのを忘れた。

 糸和は風の音と海の音、虫の声を聞かないように布団を頭から被って、ダウンロードした音楽をリピート再生してなんとか眠りについた。


 とんとん、とんとん、と襖を叩く音がした。

「イトヨリさん、イトヨリさん、起きてください」

 糸和は薄く目をあけて、音楽を止めた。

 本土に比べて、西の島は夜が明けるのが遅い。布団から出ると、空が白む頃合いの早朝だった。

 はあい、と間延びした返事をして糸和はズボンを穿き、襖をあける。

「おはようございます。どうかしましたか、船は昼ですからまだ時間はありますが」

 寝不足でやっと眠れたところだ、どうしても不満な声が出てしまう。棒立ちの糸和を見上げる老人の顔は切実だった。

「おはようございます、イトヨリさん。昨日のお話のことで、どうしても言わんといけんことがあって、談合させてください」

「談合……?」

 相談のことか。

「おい一人ではどげんすうかわからん。ばんばさまは一緒に行かれんのじゃ。ばんばさまがおらんと、おいはどけんも生きて行かれん」

 薄い白髪がぼろぼろに乱れて、頭皮が見えていた。

「おちついて、おちついてゆっくり話してください」

 言葉を理解するのに時間がかかる。他人と話し慣れない老人の言葉は旧く、聞きづらい。糸和は少しでも聞き取ろうと屈んで視線を合わせた。老人の目は必死で赤い。

「おいはまるままばんばさまでできちょる。ばんばさま、まりあさまがおらんとどうにもならん」

 マリア様?

「それは動かせないもんですか」

 島の史跡や聖堂なら県が管理することになっている。ならば『まりあさま』は土蔵にある聖像か。老人が狼狽するほどだ。新居には置けないものなのだろう。

 老人は空を掻くようにして手をさまよわせ、はたと落とした。

「ばんばさまは、ゆうべあがも食うたろう……」

 老人は糸和にわからない言葉で何ごとか言って、糸和の手首をつかんだ。

「とくと、とくと見てつかあさい、ばんばさまは本土には行かれん。海を離れられんのじゃ」

 百歳を超える老人とは思えぬ力で糸和を立たせると、土蔵のほうへ導いてゆく。

「ばんばさまは人魚の肉ば食うた。おいはばんばさまの孫じゃ」

 糸和には老人が何を言っているのか理解できなかった。

 老人の祖母?人魚の肉?

 裸足のまま土蔵への石段を下りて蔵の前に立つ。老人が鍵を探る間に聞き返した。

「島にはあなた一人でしょう、おばあさんなんて」

 住民票にも、戸籍にも残っていない。寺の過去帳にも。

「ばんばさまは、ばんばさまじゃ。おいのご先祖さまが生まれるとき、大けがをして人魚の肉ば食うた。寺にはそんとき破門されて、きりしたんのお授けをうけてまりあさまになったとよ」

 大きな鍵を取り出して、老人は土蔵の錠に差し込んだ。鍵の鳴る音にこたえ、扉の奥から女の呼び声がした。

「人魚がおらんくなって、海は荒れた。食うもんも無うなって島の半分が死んだ」

 老人は閂を引く。土蔵の扉が開いてしまう。声が高まるのを聞いて、糸和は本能的に後ずさった。

「そいで、ばんばさまが、まりあさまが助けてくれたんじゃ。まりあさまは百に切っても千にちぎってもすぐにふえた。ご先祖さまはみんなまりあさまに頼ったんじゃ」


 蔵の中は明るかった。

 東に向かって開いた窓が上に一つ、水平線からのぼる太陽をまっすぐに受けていた。窓を背にして壁にしつらえたマリア像の真鍮の光背が陽の光で輝いている。

 明り取りはそこだけではなかった。

 白い漆喰が一面に塗られた床と壁面に朝日をうけた波模様が散乱している。土蔵の奥半分は水槽のように深く、浅黄色の海が侵入していた。寄せて返す波が土蔵と海を隔てた鉄柵に砕け、水音がする。波は土蔵の水槽の、膝ほどに高くなった縁を越えてはこないようだった。

 磯のにおいに、鉄くさい血のにおいが混ざっていた。

 そのにおいを、糸和は知っていた。

 水の中にいる誰かを、糸和は見たくなかった。

「なんで」

「なんでその人、海のなかにおるとですか」

 喉がはりついて、それだけ言うのがやっとだった。

 女が裸のまま、海水に浸かっていた。浅い海の水が白い髪と肌に照り映えて、ガラスのようなみどり色をしている。瞳だけが黒く、ひたと糸和にあてられた。

 切断された左腿から薄く赤い血が筋を引いて流れ出ている。迷い込んだ小魚が癒えかけた傷口をつついて、肉をついばんだ。

「ばんばさまは、海におったら死なん。脚もじきに生えてくる」

 水の中の段に身体をあずけて、女が老人を呼んだ。老人は招かれるままいそいそと寄っていき、女の入っている水槽の縁に腰かけた。

 二人は顔を寄せ、糸和にはわからない言葉で低く話す。ときに内緒話をする子どものような笑い声を漏らした。

 二人の間には面影がある。たしかに血縁なのだろう。

 女と老人は孫と祖父のように見えた。

 また、きょうだいのようにも、夫婦のようでもある。

 自分はこの女でできている、と老人は言った。老人にとって女は祖母であり、母であり、もしかして妻でありそして、食べてきたもののすべてなのだ。

 その肉を、糸和も食べた。

「イトヨリさん、ばんばさまが」

 老人が糸和に声をかけた。女が輝かしく笑んでいる。

「うまかったですか、って」

 耐えられなかった。

 糸和はバネのようにきびすを返し、部屋からバッグだけひったくると一目散に屋敷を逃げ出した。

 靴は足先に引っ掛けたまま、走れるだけ走った。

 靴が脱げて転んで、追うものがないのが分かると大きく息をつく。

 起き抜けの喉が渇いて咳が止まらずえづいた。

 靴のところまで行き、素足で履きなおす。足に刺さった小石が邪魔で、糸和はもう一度靴を道路に叩きつけた。

「なんっ……なんじゃ、あれは!」

 バッグも放っていたのを担ぎなおし、今度は執拗に

 足の裏を払ってからもう一度靴を履く。

 上着を置いてきたが、取りにはいきたくない。

 書類、最終通告の書類の捺印も貰っていない。

 財布とスマホ、バッグがあるだけ上出来だった。

 混乱の中、逃げる手はずだけは持ち出した自分を褒める気持ちと、市役所職員として職務を放棄した自分を責める気持ち、そして目に焼き付いたあの二人のことが糸和の中でせめぎあう。

 美しかったから、だからなんだ。

 糸和は路肩にどかっと座り込んだ。

「いや、もう知らん、知らん!」

 老人はきっと死ぬのだろう。十年か二十年か、もしかしたら糸和より長生きかもしれない。でもきっと死ぬ。

 それまであの女の肉を食べ続けて。

 女は?

 女のあずかり知らぬところで老人が死ねば、あの女はどうなるのだろう。丹精込めて掃除をしていた老人がいなくなれば蔵も屋敷も荒れるに違いない。

 土蔵の中から出られぬまま、女はずっとひとりだ。

「あーーーっ」

 糸和は頭を掻きむしった。

 知ったことか、知ったことか。

 もとより存在しない人間だ。戸籍も住民票もない。

 市役所があずかり知らぬものは糸和の範疇外だった。

 自分の考えに冷酷が過ぎるか、とも思う。

 しかし、この出張であったことは一公務員の糸和の身に過ぎることだった。

「会えんかった、ということにするか」

 薄いシャツの背中に、秋の朝日がゆるやかにあたる。

「腹へった……」

 糸和はバッグから携帯食を探り、一口かじるとむせた。

 飲みかけのペットボトルのお茶をあおる。

 ぬるくて渋い、信頼できる工業製品の味だ。

 次の出張もしんどいに違いない。どうしようもないものをいろいろ見てきたが、今日ほどのことはそうそうないだろう。

 糸和は立ち上げって伸びをすると、割れたアスファルトの草を律儀によけながら港への道を歩き始めた。

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