第32話 親子関係果てし無く続く。
憶良と言えば、「銀も金も玉も何せむに まされる宝子に如かめやも」を思い出します。ある国文学者によると、憶良は百済からの渡来人だったということですが、トンデモ説ym7562-2019(きらびやかでもないけれど)
まず、こんな過疎棄村の文にコメント頂き動転し真面目に返信をと思い、チェックしようとし、まずは「銀も金も。。」から、そういえば、以前気になってた記事に。http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/246014.html
上野 誠氏によると、「私達は今この歌を詠んで、子供への愛情というものが最も大切だという風に読むのですが、そう読むのは誤りなのです。当時は子供への愛情というものを公に言うっていうことは許されなかった。多くの仏教経典の中には、人間の煩悩の中でも一番大きいものは子供への愛なのだから、その子供への愛を断ち切ることが仏教者として一番重要だということが書いてあるわけです。それをあえて否定して、「そうかい?」と、人間らしく生きるということについて言えば、「子供への愛情というようなものを失うっていうことは、どういうことなのだ」ということを、堂々と問いかける文学だ。という風に読まなければいけないのです」。
この文を読んだ当時はソンナモンかなあだったけど、検索してみたら詳細な記事が
万葉集を読む(12)~山上憶良「子らを思(しの)へる歌 巻五 802~803番歌」(1)
http://flac.aki.gs/Manyou/?p=3042
まさに頭が良くて日々勉強に勤む人達との知識量の歴然な差にクラクラと。
ついでに下記も読む
万葉集を読む(7)~山上憶良「惑へる情を反さしむるの歌 巻五 800~801番」(1) http://flac.aki.gs/Manyou/?p=3004
当時のインテリで唐語を操り、仏教、儒教、漢詩、和歌、漢文、万葉仮名と、
なんでもござれ凄腕の高級官僚、筑前守の憶良さん。
小学生の作文ではないので、裏の裏まで読み応えが有ると評価されたのでした。
あの「子への愛」の文は、序、長歌、反歌に分かれていて
釈迦如来の、金口に正に説きたまはく
「等しく衆生を思ふことは、羅候羅の如し」と。
又説きたまはく「愛びは子に過ぎたるは無し」と。
至極の大聖すら、尚ほ子を愛ぶる心ます。
況むや世間の蒼生の、誰かは子を愛びざらめや。
長歌
瓜食めば 子ども思ほゆ
栗食めば まして偲はゆ
何処より 来たりしものそ
眼交に もとなかかりて 安眠し寝さぬ。
反歌
銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも。
ブログ主や、井上さやか先生の論説を読んだ後では、これらの文章のそこかしこに
落とし穴、袋小路、隠し戸が有るように思えて素直に文意を。。。
勿論、仏教では「愛」は執着でネガティブな意味が付随してるはず、吾子可愛やと結びつかない。後世だけど、娘を蹴飛ばした西行さんなんかは仏道の具現者視されてるし。
羅睺羅君などは、お父さんの釈尊が出奔した時はお母さんのお腹の中で五年後に遅出したとか。。。
瓜食った栗食ったには、原典有りでそれは
陶淵明さんのボンクラな子供達の愚痴愚痴
の詩「責子」、同じ境遇者として良くわかります。
上野氏が言われるように反歌だけ観て
「お子ちゃま第一」主義の憶良像を、
描かない方がイイ。
もう少しグダグダ書いてたのに手違いでアッチの世界へ、
最後に。
「ある国文学者によると、憶良は百済からの渡来人だったということですが、
トンデモ説?」
私事です。我が半師匠のカラヤン画伯が最近日ユ同祖論に凝り凝りになりまして強烈折伏の日々。
山岳ユダヤ人、残留ペルシャユダヤ人、ハザール人等で忙しいので東洋の端の方まではと逃げを打ってますが、何時迄持つやら。
全ての言説には存在理由が有るとすれば、
日ユ同祖論も憶良渡来人説もOKなのでしょうが。
その国文学者は令和について
「元号は中西進という世俗の人間が決めるようなものではなく、天の声で決まるもの。考案者なんているはずがない」。
との事ですので憶良渡来人説も神のお声がかりなのでしょう。
何時もの、グダグダで本当に失礼しました。
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