月脈

白井戸湯呑

月脈

 人が生きているなんていう証明は誰にもできない。なぜなら自分自身すら生きているという確証はないのだから。

 それと同じく。

 人が死んでいるなんていう確証は誰にも存在し得ない。なぜなら自分自身であっても死ぬのだと証明できないからである。


     *


 深夜。

 薄暗いと言うにはあまりにも暗すぎて、しかし暗黒というには近代社会において発生した発明品の数々により光がもたらされたために闇の居場所というものがなくなってしまっている歪な景色。

 そんな深夜、とある橋の欄干の上に私は黒い影を見た。その影は人の形をしており、ただ純粋な興味の瞳で橋のかかっている谷の底を眺めていた。こんな深夜である、谷の底など眺めたところでそこに見える川が見えるわけでもなく、ただ雄大に広がる原初の闇が包んでいるだけだと言うのに、だ。

 誰が言うまでもなく、彼が言うまでもなく、その影の主は今ここでこの橋の欄干から谷底に身を投げ出すことでその人生という劇に幕を下ろそうとしているのだということがありありと伝わってきた。誰も彼もがそうであるとは言わないけれど、その影の主の瞳だけは「死にたい」という原始的恐怖を誘発するはずの人だけに留まらぬ全ての生物に定められた起源に反する不可思議な事を語っていた。

 最初は、「私は赤の他人であり、他人の生死に私が関与するというのはあまりにも傲慢不遜というものだろう」、とただ影の主の気がついていないこの場所から、せめて私だけでも彼の最後を見届けてあげようとその勇姿を眺めていた。しかし、待てど暮らせど飛び降りず、終いには影の主の顔がくしゃくしゃに歪んでいき、小さな泣き言が静寂に包まれた空間に微かなバックグラウンドミュージックのように流れたのであった。

「僕はどこで間違ってしまったのか」

 などと、

「結局僕は……」

 だなんて、自ら命を還そうとしている者にしてはあまりにも腰抜けな、こちらの腰すら抜けてしまいそうなその態度に、観客でしかないにも関わらず淑女として恥ずかしながら多少の怒りを感じてしまった私は、仕方なし、と思い立ち、「……よし」と一つ気持ちを切り替え影の主の最後の大舞台のマクガフィンとして心ばかりの手助けをしてあげようと欄干へと近付いていった。

 弟は口癖のように「姉貴は人の心がわからない」、だなんて失礼極まりないことを言ってくるが、私はどうしようもなく人間なのだ。人の心がわからないなんてことはない……ハズである。どちらかと言えば人の心がわかっていないのは弟の方なのだが、それはまた別の話である。今この物語に関係のないことなので、この話は中絶しておくとしよう。

 近付く私に欄干に立つ影の主も気付いたようで、強張った顔の恐れた瞳で私を見た。傷つけられることを嫌がる小動物のような、恐れの瞳。

 私は少しでもその恐怖を拭ってあげようと、社会の荒波の中で得た完璧な作り笑顔で影の主に笑いかけた。登校中に好きな子に出会った時に見せる幸福からくる自然な笑みのような、そういう自然物の人工化。贋作の笑顔だなんて、笑い話ではあるのだけれど。

「そんな所に立っていたら危ないですよ?」

 語りかけるようでいながら、独り言のように話しかける人の精神を撫で下ろす話術を用いて、影の主へと語りかける。或いは、実際に私の独り言だったのかもしれないけれど——しかし、極限状態だったのだろう。そのただの独り言でしかない私の言葉に、影の主は反応を示した。

「い、いいんですよ。危なくて」

「危なくていい? おかしなことを言うんだね、キミは」

 わかっていながら気付いていないふりをして、私はカラカラと笑ってみせた。カラカラと笑って、余裕をみせた。言っても、私にできることはそうないのだと言うことを、忘れているはずがないのだから。だから、変に行動は起こさずに、ほんの少しだけ、背中を押してあげる。

「おかしい……確かに、可笑しいですね」

 自嘲するように彼は笑うのだろうと思っていたのだけれど、しかして彼の笑いは心底悲しそうな、辛そうな、叫びのような笑みだった。引きつってはいないし、心の果てから笑っているのだろうけれど、影の主の身体も精神も、とっくの昔に笑い方と言うものを忘れていたのだろう。人間、本当に辛い時こそ何も言えないものなのに、こんな救難信号も同然の笑みをする影の主の周りの人間は、その笑みに何も見出せなかったのだろうか? 見抜けなかったのだろう。だって、人は一人で生きるものなのだから。自分一人生かすのに、必死なのだから。

「少し、話さない?」

 小首を傾け、少しあざとく影の主を誘ってみる。

 影の主は少し怪しむようにして私を睨んだが、元より死のうとしていた身である。私がどんな人物で、影の主に何をしようと——あちらからしたら何をされようと、どうでもいいことなのだろう。自分の身を第一に考える必要なんて、今のこの人にはないのだから。

 諦め。

 悲しいものである。

 努力したところで何も生み出さないとは言え、諦めると言うのは言い表し用のない悲しさというものを微かに秘めている。悲しさというか、虚無感だろうか? 空っぽだから何もなく、何もないから諦める。虚しいにもほどがある。いくらなんでも、悲しすぎるだろう。だってそれでは、この世に何も残せない。

「死のうと、思っていたの?」

 欄干から降りて、横を歩く影の主に私は訊く。

 影の主は少し口籠もった後に、「はい。死のうとしていました」と驚くほど素直に告白した。口籠もったということは、死ぬこと自体、未だそれが『悪』だという思考ができるくらいの余裕はあるようだけれど、その『悪』を自覚しながら『悪』を執行できる者ほど恐ろしいものであるのもまた真理である。

 過去、私も一人の『悪』を自覚しながらにしてその『悪』に間をやつす「 」に出会ったことがあるけれど、彼と呼称すべき存在は、あまりにも人間からかけ離れていて——人と呼ぶにはあまりにも困難な執着駅まで到達してしまっていた。

 『悪』は『悪』であるのだから、行ってはいけない。

 そういう常識は、人間でありたいのなら忘れてはいけないことなのだろう。

「やっぱり、死のうとしていたんだね」

 私は同じ質問を返す。

 自分が何を行おうとしていたのか、その認識から始めようと考えたからである。

「はい。……でも、橋の下に広がる暗闇を見ていたら、なんだか怖くなってしまって……なんて言うんでしょうね。みんなに、家族にさえも忘れられてしまうような気がして……」

 闇に全部食べられてしまうのではないかという、そんな血に刻まれた恐怖の記憶。人が紡ぎ続ける死への恐怖、明日の見えぬ恐怖、未来への不安。

「忘れられたくないの?」

「忘れられたくは……ないですね」嘲るように笑って、影の主は言う。「少なくとも三年くらいは、引きずっていて欲しいですね」

 私達はどこへ向かうでもなく彷徨い歩く。目的地なんてありはせず、文明の光も遠のいていく。太古、月の光は人を惑わす魔性の光として扱われていたようだが、しかし、ふと見上げた空に光る月というものは、こんなにも綺麗だ。太陽のように人の眼を焼くことはないし、星々に囲まれているが故に唯一の存在でもない。そんな謙虚さが、私は好きだ。

「なんで死のうと思ったの?」

 気になったから、訊いてみた。

 死にたくなるからには、それ相応の理由というものがあるだろう。そうでなくては、ならないというものだ。

「そうですねぇ……生きているのが辛かったんですよ。生きていくのが、辛かったんです。明日があるって考えたら、こう、憂鬱な気持ちになってしまって」

 『明日があると考えたら』、だなんて傲慢だな、と思った。明日も生きている保証なんてないのに、どうしてこの人は明日に夢を見られるのだろうか? それが悪夢であれ、不思議極まりないことである。

「死ぬことは悪いことだと思いますか?」

 影の主は当たり前のことを訊いてきた。

「うーん、どうだろうね。別に、死ぬこと自体は悪いことでもないでしょう。だってさ、人は人であり人でしかない、つまりどうしようもなく生物であるんだし、生物である以上いつか死ぬんだから、君がしようとしていた自殺だって、それが早まるかどうかって違いだけだし、別に死ぬことそのものは『当たり前のコト』なんじゃないかな?」

 だから当たり前に返してみた。

「死ぬってなんだろうね」

 この人の考えが知りたかったから、訊いてみた。

「動かなくなるってことじゃないですか?」

 平凡な考えが返ってきて、少し退屈を覚える。

「生きるってなんでしょうね」

 今度は影の主から質問が出た。

「耐えるってことじゃないかな?」

 助言のようなものを返してみた。

「なんで辛い思いをしてまで生きていなきゃいけないんでしょうか?」

 現代社会そのものに対しての恨言のようなことを、影の主は訊いてきた。

「死んだらその辛さが他の人に押し付けられるからだよ。辛くて死んだらその辛さは親や同僚、友人とかに分配される。これ以上辛い思いをしたくないから、死ぬことが悪いと思われてるんだよ」

 よくわからないながらに必死に自分の考えを言葉に変えてみた。

 頑張ったというのに、影の主は少し不満気に顔をしかめて、「それは、死ぬことが悪いっていう方の答えじゃないですか?」、だなんて調子に乗ったことを言ってきた。今ここで殴り殺してあげようかとも思ったけれど、一つ呼吸をして意識を切り替えることで静かに耐えることに成功した。

「うん。じゃあ、濁さずに言ってしまうとね、耐えて耐えて耐え抜いた先に何か眩いものがあるんじゃないかって先人が信じて、そう生きたからだよ。その原初の絶対命令はいつまでも血に刻まれていて、生まれ落ちたその時からその命令に私達は従わなきゃいけないからなんだよ」

 私は、父親から伝え聞いたこの世の真実とも言えるような、純粋で濁りのない真理を影の主に掻い摘んで話した。

 それを聞いた影の主は絶望したように顔をしかめて、

「そんなの、理不尽じゃないですか」

 と一言、ぽつりと呟くだけであった。

「理不尽も理の内だよ。そんなことを言ったら、先生や上司を敬う必要もなくなっちゃうしね」

「それは……また別の話になってしまいますね」

「また別の話だからね」

「………………」

「………………」

 微かな沈黙。

 お茶を濁すためのささやかな軽口であったが、どうやら逆効果であったようだ。

「どうして、キミは死を決心するまでに追い詰められたの?」

 沈黙というものは一種の死と同じなので、腫れ物を扱うように触れていなかった、触れてはいけないと思い手を出さなかった"ソレ"に、殺されるよりはマシであろうと考え私は触れた。

 その問いに対面した影の主は、苦虫を噛み潰したような顔をして目を逸らし、それでも何かを決心したかの様にぽつり、ぽつりと語り出す。

「間違っていることを誰も止めなかったから、それこそ間違っていると思って止めたら、それが悪かったみたいで嫌がらせ? のようなものを受けまして……」

「イジメってはっきり言ってもいいんだよ」

「はい……ありがとうございます。イジメを受けていまして、こんなに辛い思いをするくらいなら、いっそ死んでしまってもいいんじゃないかって思ったんです」

「思い切りがいい子なんだね、キミは」

 辛い、なら死のう。

 普通、そうはならないだろう。

「いえ。お姉さんみたいに、僕の話を聞いてくれる人がいたんですよ。大学生のお兄さんで、僕の話を最後まで聞いてくれて……別に、死んでみてもいいんじゃないかって……」

「『死んでみてもいいんじゃないか』?」

 死ぬことを推奨する人間だなんて、

 はたしてそれは、正しく人間なのか。はたまた人を惑わす悪魔なのか。

「『君が死ぬことで、君が背負ってきた辛いものは全てそのイジメていたクズ共の元に還元される。君が死んだからといって、君の背負っていたそのあまりにも重たすぎる重りというものはなくなることはないんだよ。一のものは形を変えても一だからね。うん、まあ、あれだよ。君の人生を賭けた一世一代の大勝負。一世一代の嫌がらせ。不当に背負わされたんだから、本気で返すのもまた一興なんじゃないかな?』……って」

「………………」

 面白いことを考える人もいたものだと、ある一定以上の関心を覚えた。きっとその人は個人から見た世界だけではなく、他者から見た世界——自分のものとは違う歪んだ世界というものもしっかりとわかった上でそう言っているのだろう。

 あまりにも壊れている。

 伝え聞いただけでボロボロのその人の本性は、一体どれほど崩れているのか、やはり少し気になってしまった。

「……やっぱり、死ぬのはやめようかと思います」

 不意に、影の主はそう言った。

「どうしてだい?」、と私は訊く。

「いえ、少し、心の整理がついたと言いますか……もう少しだけ頑張ってみようかなって思えて。余裕がなかった僕に、余裕ができて……別のやり方でやり返してみようかな、なんて」

「………………」

 感極まって、目元に涙が浮かんでしまった。

 視界がぼやけて、心の底から感動に身を委ねてしまう。

 正面に立つ影の主の「生きる」という覚悟を聞き届けた私は、感極まった末に気持ちに突き動かされるばかりに影の主に抱きついた。首の後ろに腕を回して、よく頑張ったと褒め称える。

「………………⁉︎」

 動揺したように影の主はふらつき、自らで体を支えることができない様で、そのままずるりと倒れ込む。

 回した私の手は赤く染まり、今の今まで生きていたのだと思わせる仄かな暖かさやや感じながら崩れ落ちた彼の空っぽの肉体を見る。人にはこれほどの血液が内包されているのかと素直に感心できるほどの血液が首の切り傷から止め度もなく溢れ出し、私は手に握られたナイフに滴る血液を舌で舐めてみる。

 血の味——というか、鉄の味がした。とても美味しいとは言えないものだ。

 頸動脈を高速で切断されて痛みを感じる間も無くそのまま絶命できるなんて、これほどの安楽的な死というものはそうそう存在しないだろう。自殺。それも彼が行おうとしていた転落死というものは、やはり落下する最中の恐怖などがあるものだ。そういうものも何もなく、気が付いたら死んでいたなんて、彼は幸福ものだ。

「おやすみなさい、愛しい貴方」

 私はぽつりと呟く。

 その言葉を聞き届ける者は、誰もいない。

 ふと空を見上げた。

 煌々と。

 ああ、こんなにも——


 ——月が綺麗だ。

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月脈 白井戸湯呑 @YunomiSiraido

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