ラエティティア

らーゆ。

ラエティティア

 今年もお盆休みが来てしまったか⋯⋯。そう思いながら俺は最近買った本を読み進めようとしていた。娘の麻里がガキを三匹も連れて来やがる。まだ一日目というのに障子は穴だらけ、皿も二枚割られた。オマケにこのキンキン声ときたら。喧しくて本が一行たりとも読み進められねぇ。こんな調子で俺の頭の中は文句で溢れていた。

「じいじこれ見てー!」

 亮太が庭から呼んだ。ほら来たよ。文句を垂れながら重い腰を上げて縁側に向かった。

「だんごむし集めた!」

 万遍の笑みで亮太が立っていた。ったく何やってんだか⋯⋯ん?それは俺の⋯⋯!

「いい加減にしろ!」

 俺は亮太の手からそれを奪い取った。

「うっ、うわぁーん! ママー!」

 母の形見の入れ物をこんなふうに使いおって! これだからガキは嫌いなんだ。なんにも分かっちゃあいない。そう思うと口をついて出た。

「泣けば許されると思ってるのか!」

 俺は亮太の頬をぶった。しまった、やり過ぎた。などという思いは一寸も湧いてこなかった。俺の声を聞いてか麻里と妻の久美子が走って出てきた。

「どうしたんです昇さん!?」

 妻が心配そうに聞いた。俺は手に持っている物を差し出した。

「あらまぁ! お母様の形見じゃありませんか! でもいくらなんでもこんな小さい子を叩くなんて⋯⋯!」

 妻が珍しく強い口調で言ってきた。

「俺が悪いってのか! 謝りもしないとはけしからん! 麻里も育て方が甘いんじゃないか!? 久美子、お前も何か言ってやれ!」

 久美子の言葉が俺のストッパーを外してしまった。

「じいじなんか大嫌いだ!!」

「ああそうかい! こっちだってお前みたいな奴願い下げだね! もう勝手にしな!」

 そう怒鳴った俺へ向ける三人の表情が、よりいっそう曇った。そのあとだった。ウチの中へ戻ろうと足を進めた瞬間、突然視界が揺れだした。初めは暑さで目眩がしたのかと思ったが、違った。目眩にしてはやけに視界がカラフルだと思ったのだ。暫くしてそれは治まった。しかしそこに広がっていたのは、よく知っている庭とは全くかけ離れた場所だった。


 「レディースエンドジェントルマン! ボーイズエンドガールズ! エンドエトセトラ! 待ちに待ったフェスティバルが始まるよ!⋯⋯」

 一体ここはなんなんだ? さっきまでウチにいたというのに。怒りで脳の血管でも切れて死んだか? そんなことを考えていると誰かに甲高い声で話しかけられた。

「やぁおっちゃん!」

 振り返ると、目が五つある、人のようなものがいた。身長が亮太と同じくらいしかない。服を着ていないのに、右足には茶色いミサンガのようなものを付けている。

「おいらはこのラエティティアの住人で、オクルスってんだ。おっちゃん達新人の案内役をしてて⋯」

「ちょ、ちょっと待て。なんで目がそんなにあるんだ? というかここはなんだ? いったい何が起こったんだ?」

 どうせ夢かなんかだろうと思っていたが、いやにリアルな五つ目の人を見て、現実なのだという実感が急に湧いた。周りをよく見ると、鼻がなかったり、手がたくさん生えていたり、角や羽が生えていたり、そんな人で無き人で賑わっていた。

「ちょっとそんなに焦んないでよおっちゃーん」

 からかい混じりにオクルスが言った。

「あ、あぁ、すまない。それで結局、ここはいったい⋯⋯」

「あーはいはい。ここはおっちゃんが住んでた世界とは別の世界で、今日からおっちゃんの住む世界だよ。んで今から行くところがおっちゃんの⋯⋯」

「ま、待ってくれ待ってくれ。今日から住むって、もう元の世界には戻れないのか!?」

「戻れないこたぁないけど⋯⋯今まで戻りたいって言った人は居ないんだよ。まー住んでみりゃ分かるって!」

 まったく胡散臭い。

「大丈夫! なんたってここはラエティティア! 愛と喜びに満ちている! 悲しみや怒りは無いんだ!」

 彼は俺の心を読んだかのように言った。

「無い? どういうことだ?」

「ラエティティアの世界にはラエティティアの国しか無いんだ。戦争も紛争も無い」オクルスは自慢げな表情を見せた。

「そうだとして、悲しみや怒りまで無くすなんていくらなんでも無理じゃあないのか?」

「えーっと、ウェヌス様が禁止してるっていうか⋯⋯、そもそも負の感情が生まれないようになってるんだ。多少の不安くらいは感じるようになってるけどねー」

 今度は、上手く言い表せて満足、というような表情を見せた。

「負の感情が生まれない? それってなんだか⋯⋯寂しくないか?」

 そう言って初めて、自分に負の感情が無いことに気付いた。頭では「寂しい」と思っているのだ。それなのに心の方は、「寂しい」なんてものは全く知らないとでも言い出しそうな感じだ。そういえば、ここに来てから亮太に対する怒りもすっかり無くなっていた。

「寂しいなんて感情はとっくに忘れたよー」

 オクルスは呑気な声色で言った。

「あ、もうこんな時間。ここで話しててもラチがあかないから行くよ!」

 細くてゴツゴツした、指が四本しかない手で俺の腕を引っ張った。

 少し歩くと、大きな建物が見えてきた。

「あれがおっちゃんが住むとこ!」

 オクルスが指したのは立派なお屋敷だった。緑が青々と茂る、広い庭があった。

「なんだか世界観が台無しじゃないか?」

「それはこっちが言いたいよー!」

 オクルスはケタケタと笑った。

「おっちゃんの理想がそのまんま反映されてるのさ!」

 オクルスの言うように、そこにはまさに俺の理想が詰まっていた。ゆとりのある木造建築。空間的にも時間的にも余裕のある暮らし。待ち望んでいた静かで平穏な生活が、すぐそばまで来ていた。

「本当にこんなとこに住みたいのか? 変わりモンだなぁ」

 オクルスは多すぎる目を全部使って物珍しそうに俺を見た。


 三日ほど経っていた。俺はその間、大きな屋敷でもったいないほど優雅に過ごした。ずっとここで暮らしたいと思った。朝起きてコーヒーを飲んで、本を読んで散歩をして、庭の鯉に餌をやって⋯⋯。

「おっちゃーん!」

 オクルスが俺を迎えに来た。今日はウェヌス様とやらのところに行くらしい。道中、過ぎていく街はとても生き生きとして見えた。笑顔と幸せに溢れていた。

「おっちゃん! 着いたよ」

 そこには眩い光を放つ美しい女性が立っていた。

「よく来てくれた。ノボルよ。私はウェヌス」

 何で俺の名前を知っているのか、今更疑問にも思わなかった。俺はここに呼んだ理由を問うた。

「そなたに愛を与える」

 何を言っているんだ? 俺は口を開けてポカンとしてしまった。

「ここに住むためにみんなウェヌス様の愛をもらうんだ」

 オクルスが小声で補足した。

「その通りだ」

 ウェヌス様は微笑んだ。

「母親は俺が生まれてすぐ死んだ。だから愛ってモンがよくわからねぇんだ。顔も知らない」

 ウェヌス様はそうかとだけ言った。すると突然俺を抱き締めた。俺は動けなかった。

「心配するでない」

 彼女が耳元で囁いた。とても優しい声だった。どこかで嗅いだことがあるような懐かしい匂いがした。ウェヌス様の温かい光に包まれて、俺は六十三にもなって初めて母の愛というものを知った。

「これでそなたもラエティティアの住人だ」

 ウェヌス様はまた微笑んだ。

「いや⋯⋯元の世界に帰る」

 俺は言った。ウェヌス様とオクルスが、驚いた顔を見せた。

「この世界に永住すれば、最高水準の生活を約束できるのだぞ」

 ウェヌス様はそう言った。暫く沈黙が続いた。この世界が嫌になったのではなかった。ただ、家族を愛する気持ちでいっぱいになっていた。

「わかった」

 ウェヌス様が急に言った。そして俺に何かを渡した。

「これを持っていけ。私を忘れるでないぞ」

 彼女は優しい声で言うと、光の中に消えていってしまった。

「本当に行っちゃうのかー? どこまでも変わってるなぁ」

 オクルスはいつもと変わらない声色で言った。

「あぁ、世話になったな」

「どういたしまして! この道に沿って行けば元の世界に戻れるよ。それじゃあね! 後悔するなよ! おっちゃん!」

 オクルスと別れ、俺は貰ったものを眺めながら歩いた。偶然だろうが、それは母の形見と色違いのものだった。


 無事に元の世界に戻ることができた。俺は縁側に向かって一歩踏み出していた。そうだ、この瞬間に視界が揺れて⋯⋯。振り返ると亮太が泣いていた。俺は思わず駆け寄った。

「すまなかった⋯⋯」

 俺は亮太を抱き締めながら言った。みんなが目を白黒させながら俺を見ていた。

 その日から俺は毎日孫たちと遊んだ。トランプやオセロをしたり、公園に行ったりした。とても充実した数日間だった。俺と家族をつないでくれたウェヌス様とオクルスに礼が言いたい。お盆が終わって、俺はいつも通り、コーヒーを飲みながら本を読んでいる。こんなに寂しいウチは、初めてだ。

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