僕の幽霊

深澄

僕の幽霊

 拝啓 きみへ

 僕はきみの名前を知らない。だから、便せんは何十枚でも書けるけど、封筒に宛名が書けない。だけど、それでいいよな。きみは僕になり、僕はきみになる。名前なんて、いまさらいらない。便せんのまま机に入れておいたって、きみはすぐに見つけてくれるだろう?

 今こうやって手紙を書いているのは、ちゃんと残る形で伝えておきたいからだ。

 この選択に、僕は何の後悔もないってこと。いつかきみが、僕の未来を奪った、なんて悔やまなくていいってこと。僕は、きみが僕になってくれることが、心底から嬉しいんだ。

 なんだかかっこつけすぎた文章になりそうだけど、笑わずに読んでくれよ。


 *


 僕たちが出会ったのは、夏の夕暮れだったね。息苦しいほどの蒸し暑さが、ほんの少し遠のいた夕方。ゲリラ豪雨が去った直後で、僕は濡れねずみだった。雨水を滴らせながら歩いていたんだ。

「ねぇ」

 僕がその声に気づいたのは、何かに足を引っかけて転んだのと同時だった。

「わ……。ご、ごめん、大丈夫?」

 まぬけに地面に張りつく僕の隣に、きみはしゃがみこんだ。赤いサンダルからのぞく水色の貝がらみたいな爪を、僕は見つめて言った。

「誰?」

「別に。通りすがり。ごめんね、足引っかけて。まさかこけるとは」

「え? きみが引っかけたの?」

「うん」

「通りすがりでやることじゃなくない?」

「だね」

 立てる? ってきみが言うから、僕はすりむいてひりひりするひざを無視して、アスファルトにあぐらをかいた。ゲリラ豪雨が体の芯まで染みこんでいたから、パンツが濡れるのなんてどうでもよかった。

 きみは見た感じ僕と同い年くらいだった。鮮やかな色合いのキャミソールに隠れた胸のふくらみは目立たず、ショートパンツから伸びる脚は白く細い。左肩の、僕と同じようなところにほくろがあった。高いところで結んだ長い黒髪だけが妙につやっぽく、未発達の身体と不釣り合いなほどだ。だけど僕は、その違和感を美しいと思った。クラスにいるどんな女子よりも、きれいだと思った。

「で、なんか用なの?」

 僕が尋ねると、きみはまた、別に、って答えた。「別に」で足を引っかけられちゃかなわない。新手の通り魔か何かのつもりだろうか。嘘つけ、と僕は軽くきみをにらんだ。そうしたら、きみはその視線をかわして言った。

「ね、手、出して」

「え?」

「手」

「手?」

「いいから」

 きみは少し苛立ったような声を上げる。なんで僕が苛立たれなきゃいけないんだろう。僕は仕方なく右手をきみに差し出した。きみはそっと、しゃぼん玉にでも触れるように慎重に僕の手を撫で、その後ぎゅっと握った。きみの目には、悦びとも恐れともつかない、僕の知らない感情が浮かんでいたのを覚えている。その目のまま、きみは僕に尋ねた。

「時間ある?」

「まぁ……なくはない」

 戸惑いつつ答えるときみが目を輝かせるので、僕はちょっと後悔した。なぜって、絶対にめんどうなことになると思ったからだ。突然人の足を引っかけたり手を握ったりするような人が、まともな人なはずがないだろ? 僕にはちゃんと答えてやる義理はない。適当に用事をでっちあげて帰ってもよかったんだ。それなのに嘘をつけなかったのは、きみに見とれてしまっていたからかもしれない。何とも言えない妖しさを感じ取ってしまったから、かもしれない。

 とにかく、きみは僕の手首をぱっとつかんで僕を立たせた。

「ね、こっち来て。この道は人がいっぱい通るから」

「別によくない?」

「だめなの」

 そう言ってきみは、強引に僕を小さな公園まで引っ張っていった。

「手離してよ」

「やだ。もうちょっとだから」

 きみは、はじめて犬のリードを持つときのような、興奮と緊張と喜びとを浮かべて笑う。

 僕らが入った公園は、昔僕がよく遊んでいた公園だった。当時は多くの子どもたちの笑い声にあふれていたが、最近は少子化のせいか、散歩する老人くらいしか見かけない。そんなさびれた公園のベンチで、きみは開口一番こう言った。

「あたしね、幽霊なの」

「は?」

 幽霊、という言葉にはまったくそぐわない、異様に明るい口調だったから、僕は全力で眉をひそめた。それに、幽霊なら脚はないんじゃないのか。きみはくっきりと全身が存在していて、成仏しきれなかった人間の魂の残骸には見えなかった。だけど一方で、妙に晴れやかなその口調が、逆に真実味を増しているような気もしていた。

「幽霊なの」

 同じ口調できみは繰り返す。その目に沈む静かな諦念に気がついたとき、僕は確信した。どうせ信じてはもらえないだろう、と考えているらしいきみの、夕陽に照らされた横顔はひどく大人びて見えて、ただの同い年の女の子とは思えない。

「そうなんだ」

 僕は呟いた。幽霊なのだとしたら、きみは僕に何を要求するだろう。命? 魂? 身体? どれも、正直いらない。

「命でも取る?」

 たとえ幽霊だとしても、きみはそういう類のものではないだろうと思いつつも、僕は尋ねた。そうしたらきみは目を瞬いて、

「信じるの?」

とささやいた。それは見た目相応に子どもらしい表情だった。

「まぁ。じゃなきゃ人に触ってあんなに喜ばないかなって」

「……よく見てるね」

「そうかな」

「そうだよ」

 きみは一気に緊張が解けた様子で、僕の隣で立ち上がり、大きく伸びをした。僕はそれに少し腹を立てた。何の幽霊だとか、なぜ僕にだけ見えるのかとか、他の幽霊は僕には見えないのかとか、そういうことを何も説明しないつもりなのだろうか。僕は、顔には表れなかったかもしれないが、ずっと混乱したままだったのに。だから、きみの正面をふさぐように立って、たぶんかなり冷たい口調でまくしたてた。

「きみが幽霊だったらなんなの? 僕に何か用があるの? 何もないならどっか行ってよ」

「ごめん」

 きみがこぼれ落ちるように謝る。

「でもね、あたしたち、また会うよ」

「え?」

「今日はもうお別れ。でもまたすぐ会うと思う」

「なんで? 僕に取りつくつもり?」

「ううん。でも絶対会う」

「よくわかんない。ちゃんと説明してよ」

「もう時間だ。あたしたち、夕暮れ時にしか会えないんだよ。だから今日は……じゃあね。おやすみ」

「ちょっと!」

 伸ばした腕は透けていくきみの身体を通り抜け、気づくと僕は自分のベッドの上にいた。天井に向けて突き出された腕が震えていた。そっと指を握りこむと、夏の空気よりもひんやりしたものが触れた気がした。


 *


 あれは夢だ。きみは、僕の脳みそが作り出した幻影だ。頭ではそうわかっているのに、心はかたくなにそれを拒んだ。

 あの夢を、きみを、忘れようとした。しかし、忘れようとしている限りは忘れられていないのと同じだ。

 ——また会うよ。

 そう言ったきみの不思議な声色が鼓膜のすぐそばにへばりついて、時々震えた。要するに、僕はきみにとらわれていた。

 きみが再び僕の前に現れたのは、やっぱり夕暮れ時だった。夏は終わりかけ、どこからか強い潮の香りが鼻を刺す夕。散歩に行こうと家を出た、その目の前にきみは立っていた。いや、浮いていた。

「また会うって、言ったでしょ」

「なんで浮いてるの」

 呆れたような僕の声には答えず、きみはまた、そっと僕の腕に触れた。

「ふふ、やっぱり触れる」

「嬉しそうで何より」

「雪、驚かないよね」

「雪?」

「きみの名前」

「は?」

「あたしが今つけたの」

「……意味がわからん」

 冗談でも演技でもなく頭を抱えたのは、あの時が初めてだった。しかし、きみと喋るときはいつでも、頭を抱える思いをすることがそのうちわかった。

 きみは、あははっ、と明るく笑って、

「散歩がてら、話そっか」

 と僕の背を叩いた。

 きみは僕と外を歩くとき、必ず人気のない道を選んだ。きみが幽霊なのだと聞いてからは、僕を「一人で喋っている怪しいやつ」にしないための、きみなりの配慮なのだとわかったけれど、話しているうちに薄暗くなっていく細い路地は、やはりなんとも気味が悪かった。

「雪はさ」

「いや、だから」

「あぁ、ごめん。雪って呼ばない方がいい?」

 きみが少し悲しげに眉を下げるので、僕は慌てた。

「いや……まぁ、別に、いいけど……。なんで雪なの?」

「雪の心が凍ってるから」

「は?」

「でも、氷じゃ名前っぽくないでしょ。だから雪」

「凍ってる……」

 僕はその言葉を口の中で呟いた。凍るという言葉に反して、それは僕の心を温めた。初めて世界に当てはまったような気がしたのだ。

 とはいえ、心が凍っている、ということが何を表すのかを、はっきりとは理解できなかった。冷酷さを意味しないらしいことだけはわかったけれど。

「確かに、そうかも」

「ん?」

「いいよ、雪で。きみは?」

「え、あたしの名前?」

「そう」

 僕がうなずくときみは目を瞬き、それからすっと逸らした。

「ない」

「へ?」

「名前、ないよ」

「ない?」

「……だって、だっていらないもん。あたしずっとひとりだったから、呼ばれることなかったし」

「あ……」

 そうか。幽霊は孤独なのだ。話し相手もいなければ、自分を認識する存在すらいない。だから、僕に触れることができただけで、きみはあんなにも喜んだ。僕が普通にきみの存在を受け入れ、会話するだけで、こんなにも楽しそうにする。

 そのことを、僕はこの時ようやく理解した。初めてきみに会ってから季節がひとつ巡ろうとする間、きみのことを考え続けていたのに、幽霊であるきみの心に考えが及ばなかったことを、僕は強く恥じた。

「ごめ」

「謝んないでよ」

 きみは笑い、僕の手を両手で握って顔をのぞきこんだ。僕とほとんど身長が変わらない分、顔が至近距離にあって、僕は耳が熱くなるのを感じた。

「ね、雪が名前つけて」

「ぼ、僕が? いいの?」

「うん。だって雪しかあたしのこと呼ぶ人、いないよ」

「……そっか。じゃあ」

 きみの名前を考えようとして、ふと僕は気づいた。

「待って。生前の名前とか、ないの?」

「んー、もう忘れた、かな」

「そ、っか」

「だいぶ長い間死んでるからねぇ。ほら、早く、名前」

「わかったよ」

 きみに急かされて考え始めたものの、どれほど考えてもしっくりこない。きみが僕を「雪」と呼ぶように、鮮やかにきみを表す名前が見つからない。

 きみは幽霊だ。そして、僕の心を初めて理解してくれた人だ。明るく、しかし時々憂いをにじませる。それを表す言葉がない。

「そんなに悩む?」

 きみの笑いを含んだ声に顔を上げたとき、空に浮かぶ宵の明星に気づいた。別れの時間だ。僕はそれを見つめて、それからきみに視線を移した。

「次会う時までに」

「……また会うつもり?」

「……そうじゃないの?」

 きみの言葉に、もう会えないのかと心臓が痛んだ。そのことに僕は驚いた。

 まだ会うのは二回目なのだ。しかも、第一印象は最悪。いきなり足を引っかけて転ばせ、突然に幽霊だと告白し、何も説明しないまま別れ、また唐突に現れた。印象がよくなる出来事などなかったはずだ。それなのに、どうしてこんなにも心が惹かれるのだろう。また会いたいと思ってしまうのだろう。

 もう会えないのだとしたら、僕の中で何かが大きく変わってしまう。

 そんな気がした。

「うそうそ。会えるよ。また、すぐにね」

「今日は?」

「もう、お別れ」

「……いつも、話が進まなさすぎると思う」

「あはっ、確かにね。あたし、まだ雪に何も説明してないや」

 きみの邪気のない笑顔に、僕は一生何もわからないままでいいとさえ思った。

 人を知ることは恐ろしい。だから、深く知ってしまわないように、浅く浅く、うわべだけ取りつくろって付き合っていく方がいい。

 それが、僕がこれまでの人生をかけて——といってもわずか十四年だけれど——身に着けた処世術だった。

 相手を深く知れば知るほど、相手の嫌な面が見えてくる。それは逆に、僕の嫌な面が相手に透けていくことでもある。そうやって、嫌な面ばかりを知って知られて、人からの印象が悪くなっていく。距離が遠くなっていく。

 僕はずっと、クラスで浮いていた。いつからだったかは、もはやわからない。小学校の低学年の頃は、まだともだちと呼べる相手がいたと思う。しかし、高学年になるころからは、なんとなく周囲とかみ合わないと感じ始めた。そして、中学校で三年過ごす間に、もう戻れないところまで来てしまった。まともに相手を知ろうとしても、自分が傷つくだけだ。それならばもう、知ることなどやめてしまえ。上澄みだけすくって、沈殿している汚い部分は見ないようにして。誰にでもいい顔だけを見せて。

 それが一番楽なんだ。

 だから、きみのことを知るのが怖かった。同時に、きみに知られるのが怖かった。僕のくすんでにごった内面を、知られるのが怖かった。クラスどころか、社会や世界からも浮いてしまう僕を、誰かが受け入れてくれるとは思えなかった。

 僕の心を「凍ってる」と看破したきみにさえ、何もさらけ出せないと思った。

「雪」

 きみが僕の「名前」を呼ぶ。本当の名前とは似ても似つかない名前。しかし僕にとっては、「雪」が本名だと感じる。

「何?」

「おやすみ。またね」

「うん」

 きみの身体は前回のようにゆっくりと透き通っていく。僕は指先できみの影に触れ、目を閉じた。

 開くと、いつもの天井が視界を覆う。


 *


 秋の間中、きみはたびたび僕の前に現れた。週に二、三度は会っていたんじゃないだろうか。会うたびに、きみは何も説明しないままに喋りたいことだけを喋り、したいことだけをした。

 ついでに言えば、名前をつけるという宿題のことは、きみは忘れ去っていた。結局似合う名前を見つけられていなかった僕からすれば、きみの気まぐれがありがたかった。まぁ、もしかすると、察して触れずにいてくれたのかもしれないけれど。

 例えばある時は、「久しぶり」といういつも通りのあいさつもそこそこに、

「秋といえば?」

なんてマイクを握るまねをしながら僕に尋ねた。僕が呆れ戸惑っていると、きみは笑いながら、

「わかんないの? 焼き芋に決まってるじゃーん」

と僕の背を叩く。そして、道路に停まっていた焼き芋屋のトラックの前まで僕を引っ張り、二つ買わせた。きみは嬉しそうにそれを頬張って、満足げな笑みとともに消えていった。目が覚めた僕の耳には、間延びした焼き芋屋の売り文句が反響していた。

 またある時は、僕の学校の話を聞きたがった。成績がいいことを話すと「へぇーっ」と大げさに驚き、わずらわしい文化祭準備のことを話せば、少しむっとしたように僕を羨んだ。友達のことを聞いてきた時、僕がはぐらかすと、きみは深追いしないでいてくれた。そこに、僕は自分と似たものをきみに感じた。

 あぁ、そうだ、「花火がしたい」と駄々をこねたこともあったよな。だけど、秋の始まり頃ならいざ知らず、当時は秋真っ盛り、街はハロウィーンのかぼちゃやコウモリに彩られている。花火などあるわけがないのだ。しかしきみは街中のスーパーやコンビニを回って手持ち花火を探させた。あの花火探しには、たしか二、三週間付き合わされたと思う。おかげで中間テストは散々だった。結局街からオレンジと黒の装飾が消え、だんだんとイルミネーションが灯され始めたころに、きみはようやく花火を諦めた。

 そして同時に、きみは姿を現さなくなった。


 *


 また、季節が巡る。

 街路樹は葉を落とし、吹く北風は鼻の奥をツンと刺激する。学校に行くときは、学ランを着なければ震えが走るほどの寒さだ。駅ビルの中では、やけに陽気なクリスマスソングが流れ、デフォルメされたサンタクロースとトナカイのイラストがあちこちに飾られていた。

 高校受験が近づいてきて、家の中は少しピリピリしている。僕は一応優等生ということになっていたから、内申点の心配は何もなかったけれど、その分両親からの期待が僕を少しずつむしばんでいた。僕に期待なんてしても、何も出てきやしないのに。特にやりたいこともなく、かといってやりたくないこともない。受験校を決めるのも、さらにはその先の大学や会社のことを考えることも、吐き気がしそうだ。誰かがしいたレールを、ただ歩かせてくれればいいと思う。

 きみには長く会えていなかった。僕からきみに会いに行く手段がない以上、ただ待つしかない。平安時代の女性が恋人を待つときの気分だった。今なら、古文の授業で読む物語にも共感できそうだ。

 学校に着くと、とりあえず仲良くしている数人に声をかける。その後は自分の席で勉強だ。クラスメイトには、真面目くんと呼ばれているらしい。授業は適当に受け、学校の後は塾に向かう。夜の九時まで塾で授業を受けたり自習をしたりして、九時半ごろから家で晩ごはんを食べる。最後にもう少しだけ勉強をして、日付が変わる前には床に着く。ただそれだけの毎日を繰り返していた。

 味気ない、つまらない、無色透明の日々。好き嫌いのない生活。何の価値もない人生。

 幼い頃は違ったらしい。好きなものにはキラキラと目を輝かせ、嫌いなものには顔を背ける。

「動物園は好きなのに遊園地は嫌いでね。しかも男の子のくせに車とか恐竜を嫌がるのよ。あんた本当めんどうくさい子だったよ。今はずいぶんいい子になったけどね」

 母はそう言って喜ぶが、親の言うことをよく聞き、普通から外れない、ありていに言えば扱いやすい子どもが「いい子」だというのだろうか。世間も、親も、教師も、皆僕を「いい子」だという。真面目で聞き分けがよく、空気を読める。

 きみに言わせれば、そんな子どもは「操り人形」だ。

 あの秋の日々、受験のプレッシャーから一度だけこぼした愚痴に、きみがそう吐き捨てたとき、僕は腹を抱えて笑い出したい衝動にかられた。僕が「操り人形」のような子どもであることを、きみははっきりと突きつけたのだ。ミントのガムを食べた後のような、強すぎる清涼感が僕の胸を吹き通っていった。

 きっと本当に「いい子」なのは、きみのように、自分が何を好きで何を嫌いで、将来何をしたいのか、そういうことをわかっていたり、たとえわからなくても模索し続けようとしたりする人のことだ。そして、そんなきみだから、僕は僕の残りの人生を、全部あげたいと思ったんだ。

 なぁ、どうして僕たちはもっと早く出会えなかったのだろう? とっとときみにあげてしまいたかった。僕に人生なんていらなかった。未来なんていらなかった。

 別に死にたいわけではない。それほどの情熱をもって、世界を、自分を憎むことができれば、どれほど楽か。僕はただ、虚しいのだ。生きたくもなければ死にたくもない。いらない未来だけが僕の前で黒い笑みを浮かべている。それを冷めた目で見つめながら惰性で生きるしかない。その事実が、ひたすらに虚しい。

 だけど、今はもう大丈夫だ。これからきみにあげられるのだから。まだ遅くはないはずだ。まだ間に合う。きみの人生を、まだ使い果たしてはいない。


 *


 今度きみに会ったのは、大みそかだった。学校は終わり、塾に通い詰める冬休み。塾が年末営業で早く閉まったため、珍しく早く帰路についたとき、僕は視線の先にきみを認めた。

 この寒いのにきみは、初めて会った時と変わらない、キャミソールとショートパンツ姿だった。唯一、足のネイルカラーだけが変わっていた。深みのある紅、ボルドー、ワインレッド、バーガンディ。少しずつ色味の違う同系色がセンスよく並ぶ。

 見ているだけでこちらが凍えそうな格好をして笑うきみに、僕は久しぶりに会えたという感傷も何もかも忘れてため息をついた。

「きみさ……」

「久しぶり、雪」

「服は変えないのにネイルは変えるんだ」

「ごめんねー、ぜんぜん会いに来られなくて」

 僕らはまったくかみ合わない会話をしばらく続けた。やがて日が沈んでいくのに気がついた時、僕は思わずきみの腕を強くつかんだ。きみは目を瞬く。少しきまりが悪かったが、そうでもしないと、またきみがどこかに行ってしまうと思ったからだ。

「……ちょっと、雪」

「何」

「離してよ」

「いやだ」

 そらしたくなる気持ちを抑え込みながら、僕はきみの目を見据える。しばらく黙りこくったまま、僕らは見つめ合った。というかにらみ合った。

 やがて、きみがふふ、と密やかに笑みをもらした。日は沈みきり、世界は青に包まれていた。

「……何」

「初めて会った時、同じような会話したよね」

「あぁ……」

 あの時は、逆だった。きみが僕の腕をつかんでいて、僕の文句を聞き流すきみは心底楽しげだった。

 あの時から、不思議ときみに惹かれていたんだ。今ならその理由がわかる。僕らはふたりで一つだったのだ。

 表裏一体の存在。それが僕らだった。

「はーぁ、まったく、めんどうなことしてくれるよね」

 きみはたいしてめんどうでもなさそうにぼやいた。それから、ささやくように告げた。

「全部、教えてあげる」

 耳の底がうずいた。きみの瞳に宿る色は不気味で、僕の背筋に震えが走る。それはただ冷たいのではなく、甘い誘惑を含む。

 知りたい。

 そう強く思った。

 人を知ることは恐ろしいはずなのに、きみのことは、知りたくてたまらなかった。

「……うん。教えて」

 僕は、ためらいつつきみの腕を離す。指先には確かに、きみの肌の持つ熱の名残が留まっていた。

 きみはいつものように、細い路地を通ってさびれた公園に向かった。

「あたしは幽霊だって言ったけどね、あれ、半分嘘なの」

「……半分?」

「そ。幽霊は幽霊でも、あたしは、雪の幽霊」

「よく、わからない」

「つまりね。あたしは、渚のもうひとつの人格なんだ」

 渚というのは、僕の、そしてきみの本名だった。

「もうひとつの、人格……?」

「そう。二重人格ってこと」

「二重人格……」

 きみは手を伸ばし、そっと僕の頬に触れた。指先は、温かい。

「最初、渚だったのはあたしだった。だけど、小学校の途中くらい、高学年くらいからかな。雪が生まれた。雪はあたしのことを忘れ去って、渚の主人格は、だんだん雪になっていった」

 淡々と続くきみの言葉は、指先と頬の触れ合うところから僕に染みこみ、僕は強い頭痛と吐き気を催した。顔が歪み、呼吸が荒くなる。それを見たきみは、姉が弟にするように、優しく僕の髪を撫でた。

「大丈夫?」

「……なんとか……」

 大嘘だった。

 天地がひっくり返るようなめまいが僕を襲い続けていた。

 じゃあなんだ。僕は、きみを虐げて生きてきたのか。本来きみのものだった人生を奪い取り、その罪すら忘れて、その上で未来などいらないと宣い、のうのうと生きてきたのか。

 なんという愚鈍。傲慢。

 夜のとば口の凍るような静けさが、きみと一緒になって僕を責めた。顔を覆った手の間から、うめき声がもれた。

 ふふっ。

 きみのかすかな笑い声が空気を揺らした気がした。僕は怪訝な顔を上げるが、きみの顔に笑みはない。

「続けるよ」

「……うん」

 降り続く雨のように、きみの言葉は僕に注ぐ。

「あたしは、雪の潜在意識の奥底にいたの。雪の中から渚の人生を見ていたから、これまでの人生は映画のように知ってる。自分の感情の伴わない記憶として持ってる。昔から、あたしは好き嫌いがはっきりしていて、だけど雪は違った。何もかもと距離を取って生きているでしょう。そうしてきっと、無意識にストレスが溜まっていったんだと思うの。雪の意識にあたしが帰ってきたのは、かなり最近のこと。それからは、夕方から次の朝まで、あたしが渚になれる時があったの。あたしたちが入れ替わるとき、あたしたちはお互いの姿を見ることができた。というか、会わないと入れ替われなかったの。だから、最初のうち、あたしは雪に会うために街中を探し回ってたよ」

「ちょ、ちょっと、待ってくれ」

 僕は混乱して、流れるようなきみの言葉を押しとどめた。

「探し回ってたって、きみは、僕から独立して存在してたってことなの?」

「まぁ、そういうことかな。幽体離脱みたいな感じ。雪が入った渚に会って、その中にあたしが入ると、雪はあたしを受け入れたまま眠るの。あたしは一度、渚の人格から追い出されているから」

「う……ごめん……」

「いいから。他に質問は?」

「えっと、きみが僕だけに触れたのは」

「それは、あたしが入るべき身体だから」

「あ、きみに会った後、夢から覚めたみたいに感じたのは……」

「そうだね。あたしがその間、渚だったから。雪の意識では、あたしと会った後、すぐ目が覚めたように感じたんじゃないかな」

 きみの言うことは、雲をつかむようにファンタジックなことばかりだったが、僕はそれを受け入れざるを得なかった。頭がどれほど理解を拒んでも、心の奥底がきみの言葉に呼応するようにうずいたから。それはきっと、僕がきみから生まれた人格だからだろう。

 僕がきみの言葉を受容しようとしている間、きみは黙って夜空を見上げていた。その時に僕はふと気づいた。

「あれ、今日、消えていかないのは?」

「いまさら気づいたの?」

 きみは呆れたように眉を上げ、薄く笑いながら言った。

「雪が、あたしを引き留めたからだよ」

 つい先ほど、きみに置いていかれるという恐怖心から、きみの腕をつかんだことを思い出した。同時に、日が沈んだのを見届けたきみの言葉も。

 ——はーぁ、まったく、めんどうなことしてくれるよね。

 言葉と異なり、楽しむような感情がにじんでいたきみの声色。

「きみは、このあとどうなるの」

「どうなるって?」

「普段みたいに、僕の中に入れるの?」

「入れるよ。だけど、そんな必要はなくなる」

「……どういう、こと」

 嫌な予感がよぎった。それはしかし、僕にとっても非常に魅力的な可能性だった。

「あたしが、渚になれるようになったの。いつでも」

 予想した通りの言葉が発せられる。それは、僕の頭のてっぺんから足にまで、一気に落ちるようだった。

 つまり、僕はきみを引き留めたことで、自分の人生を危機にさらしたということだ。

「なりたい?」

 僕は尋ねた。やはり予想通り、きみの返答は「もちろん」だった。


 *


 あの日、僕はきみと入れ替わることを受け入れた。ただ、ほんの少し、時間の猶予をもらって。

 約束の日は、中学の卒業式。

 きみが猶予を持たせたのにはいろいろと理由があったけれど、そのひとつは高校受験だった。今まで受験勉強をしてきたのは僕で、きみが突然受験することになったら、知識はあっても経験が足りないと考えたからだ。なんとも現実的な事情だけれど、きみのこの主張に僕も深く納得したので仕方ない。

 もうひとつの理由は、やり残したことをしたいから、ということだった。

 きみの説明によれば、きみが渚に戻った後、僕はおそらく徐々に消えていく。どれくらいの時間をかけて消えていくのかはわからない以上、やり残したことはやっておくべきだときみは言った。

 そうは言っても、僕にはやりたいことなどない。本当に、何もないのだ。虚しさに気が遠くなりながらきみに告げると、きみは笑った。

「じゃあ、花火しようよ」

「花火?」

「この前、できなかったでしょ」

「いや、今も売ってないんじゃないの。真冬だし」

「そんなことないって。ネットならあるはず」

 言われるがままにネットショッピングで花火セットを検索すると、なるほど、確かに数々の値段帯の花火が表示される。その中から二つを選んで購入し、ついでに冬場の花火に必要だと書かれていた、静電気対策グッズもいくつかカートに入れた。花火は、約束の日の夕方に、隣町の海岸ですることになった。

 花火だけでなく、きみがやり残したことはまだあった。旅をする、ときみは言った。そんなものこれからいつでも行けるだろう、と僕は思ったが、幽体離脱のような状態でしか行けないような場所に、今のうちに行っておきたいのだという。危険な国や海の底なんかは、確かに身体を得てしまうとかえって行きにくい。あまりのアクティブさに、僕は尊敬を通り越して少し苛立った。

「きみはさ」

 今後の話を終えた後も、門限まではかなり時間があったため、僕はきみに尋ねた。

「どうしてそんなに生きたいの?」

 ずっと気になっていたことだった。

 僕は、人生の虚しさに耐えられなかった。先は見えず、何も選べず、後悔だけが降り積もり、まるで曲がりくねった洞窟の中を彷徨うような、そんな人生を想像するだけで気分が悪かった。

 だから、常に自分の好きなものと嫌いなものを知り、僕に見えない人生の先に目を凝らして、何かを探しながら生きたがるきみを、理解できなかった。

 きみは何を探しているのだろう。何のために生きたいのだろう。

 女性の人格のまま男の身体で生きることは、きっと苦しいはずなのに。

 普通と違うものを愛して生きることは、きっとひどく孤独なのに。

「なんでそんなこと聞くの」

 きみは苦笑しながら僕を見つめた。まるで僕の心の中の疑問や葛藤をすべて理解しているかのような美しい笑みは、初めて会った日、夕陽を浴びていたあの横顔と同じだった。

「なんでって……」

「あたしはね。知りたいから生きるの」

「………………」

「あたしが何を愛して、何を憎んで、どうしてこの世に生を受けたのか。生きる意味を知るために生きるの」

「……普通じゃなくても?」

「普通じゃないから」

「苦しくないの」

「苦しいよ。でもそれでいい」

 意味が分からない、と僕は呟いた。

 きみは普通じゃない。何も感じられない僕よりも、ずっと普通じゃない。普通ではいられない苦しさを知っているのに、きみは生きたがった。苦しみの先に何かを見つけられると確信しているのだろうか。苦しみたくないとは思わないのだろうか。

「ふふ。雪だって普通じゃないでしょ。苦しい?」

「……そりゃあ」

「死にたい? 生きたい?」

「わ、わかんないよ……。どうでもいい……」

 目を逸らしながら僕が呟くと、きみはかすかに笑って黙り込んだ。

 しばらくして、きみは唐突に言った。

「雪さ、小説書きなよ」

「は?」

「書けそう」

 何を根拠に、という言葉を飲みこみ、僕は答えた。

「考えとくよ」


 *


 明日は卒業式だ。

 つまり、約束の日。僕の、人生最後の日。

 きみに最後に会ったあの大みそか以来、勉強の合間にちまちまと書き続けていたこの手紙も、そろそろ締めたいと思う。

 初めは伝えずにいようと思ったけれど、やっぱり言うことにしよう。この手紙は、きみの言葉に動かされて書いた、僕の最初で最後の小説だ。ここまで読み返してみて、やっぱりぜんぜん小説を書くのに向いているようには思えないけれど、一応書ききれたのでよしとしてほしい。

 明日、ふたりで花火をするとき、僕たちはどんな話をするのだろう。きみが渚になった後、僕はいつまできみを見ていられるのだろう。もしできることなら、きみの人生をすべて見届けたいと思っている。渚に戻りたいなどとは当然思うわけもないけれど、きみが生きる意味を見つけられるまで、一番近くで見ていたいと思う。

 気づいたかな。初めて、僕は自ら、何かをしたいと思ったんだ。

 きみのおかげだ。

 きみに出会えて、きみに僕の人生のすべてを明け渡すことができて、僕は心底嬉しい。

 だから、僕にはやっぱり理解できないけれど、きみが生きたいように生きられることを、心から願っている。

 敬具 雪 


 追伸

 きみの名前を、今ようやく思いついた。あとで、花火をするときに伝えるよ。

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