第30話 リヒム・クルアーン(後編)
部下から急報を受けたのはフォルトゥナ侵攻の前日だった。
フォルトゥナに向かわせた斥候から連絡があったのだ。
『見慣れない傭兵たちがフォルトゥナ周辺に潜んでいる』と。
今にして思えばラークとは別に個人的に斥候を向かわせたのが功を制した。
確実にアリシアを救うため、軍とは別で動いていたのだ。
それでも──間に合わなかった。
「ハァ、ハァ、アリシア。どこだ。アリシア!」
阿鼻叫喚の渦だった。
小さな村は炎で包まれ、山火事で逃げ惑う村人に後ろから刃が突きたてられる。
抵抗する男たちは斬り裂かれ、女は男たちに囲まれ凌辱の上で殺される。
子供だろうが老人だろうが容赦なく殺され、転々と死体が転がっている地獄。
(クソ、クソ、クソ、間に合わなかった……!)
イシュタリア帝国の軍旗が翻っているが、間違いなく傭兵の仕業だ。
どこぞの馬鹿が軍規を横流しにしたのだとこの時のリヒムには考える余裕すらなかった。部下たちに鎮圧の指示を出し、炎に包まれた村でアリシアとその妹を探すことに邁進した。
「アリシア、アリシア────ッ!!」
「…………ム?」
村の神殿まで差し掛かった時、声が聞こえた。
リヒムは神殿の壁にもたれかかる、痩せた女の姿を認める。
かつて比べて大人びているが、愛嬌のある顔つきと甘そうな唇はそのままだ。
見間違えようがなかった。
「アリシアっ!!」
「リヒム……ひさし、ぶり」
「良かった。無事で、まに、あ……った」
リヒムの言葉は途切れた。
アリシアの足に矢が刺さっており、彼女の顔は土気色だった。
「アリシア」
「久しぶり……リヒム。ハァ、ハァ……こんなところで、奇遇だね」
「……っ、待ってろ。今すぐ助ける」
幸いにして足の傷はそこまで深くない。
今すぐ応急処置をして医者に見せれば助かるはずだ。
明らかにそれだけではない症状から目を背けるリヒムの手に、
「……ダメ」
アリシアは力強い手を重ねて、その動きを止めた。
ゲホ、と彼女は咳き込む。その手には血が塗りたくられていた。
「アリシア、それは」
「……手紙、見た?」
「……手紙? いつのだ」
「まだ、届いてない、か。うん……えへへ。タイミング、悪いなぁ、もう」
アリシアは力なく笑いながら、動こうとはしなかった。
「わた、し。病気、なの。発作が、出て……もう、ダメみたい」
「…………え?」
否定の言葉が咄嗟にでなかったのは彼女の身体に触れていたからだ。
ぞっとするほど冷たく、呼吸は浅い。心の音が分からないほど微弱だった。
「もう、助からない、の」
「そ、そんなこと言うなっ! 医者に見せれば、まだ……」
「分かるの!」
アリシアは叫んだ。
「分かるの」
涙を流しながら呟き、また咳き込む。
「わたしは、もう……死ぬ。余命一ヶ月も……とっくに過ぎてる」
「アリ、シア……」
「ね。リヒム。わたし、あなたの、こと……親友だと思ってる」
「それは、俺だってそうだ。お前が居たから、俺は……!」
家族を知った。友情を知った。憧れを知った。
孤児であった自分にここまで豊かな感情を与えてくれたのは、間違いなくアリシアだ。もしもアリシアが居なければ、自分は今も一匹狼のまま、何のために生きているか分からなかっただろう。
「うれしい……」
じゃあ、さ。とアリシアはリヒムの胸を掴んで。
「わたしを、殺してほしい」
「え」
何を言っているのか分からなかった。
囁くような声で耳に入る情報を理性が否定し、脳が拒絶した。
「な、何を、言ってるんだ」
「わたしを殺して」
アリシアは儚げに、しかし、確かな声で言った。
「そんな、そんなの出来るわけがっ!」
「このまま、死ねば。わたしはシェラに病気だってバレちゃう。あの子は、医療の心得も、あるから……」
「だからって諦めるのか!? すぐに治療すれば間に合う可能性も!」
どれだけ重ねても言葉は薄っぺらかった。
他の誰よりもアリシアに触れている自分だけは彼女の死を感じ取っていた。
絶望と悲しみに歪むリヒムの頬をなでながら、アリシアは微笑む。
「お願い、あの子にはだけは、病気だったって、知られたくないの」
「最後、喧嘩、しちゃったから。あの子に、消えない傷を、残したくない」
「苦しいの。痛いの。もう、我慢するの、疲れ、ちゃった……」
余命宣告された寿命から長く生きる苦労と痛みをリヒムは知らない。
一体どれだけ堪えれば今にも死にそうな身体で息をしていられるのかを。
しかし、小さな体に想像を絶するほどの苦痛があることは察せられた。
「リヒム……わたしを、楽にして?」
「………………っ」
リヒムは唇の端から血を流し、俯き、震える手で短剣を抜いた。
「……ありがとう」
「すまない。俺が、止められていれば」
「ふふ。いいえ……あなたが、気にすることじゃ、ない。遅いか、早いか、だけ」
アリシアは優しく微笑んだ。
「妹を……シェラを、助けてね……まだ……無事な、はず……」
「あぁ」
「あの子、意地っ張りだから……勘違い、するかも、だけど。優しく、して」
「あぁ……」
「あなたなら、安心、して……」
「……………………っ」
過ごした時間は僅かでしかない。手紙で会話した時間のほうがずっと長い。
それでも、リヒムにとってアリシアは唯一の友で。
そして恐らく、アリシアにとってもリヒムは。
「あぁ、もう何も見えないや……」
「…………っ」
瞳から焦点を失ったアリシアが首を傾ける。
燃えさかる炎の向こう、そこに妹の幻影を見ながら──
「シェラ……大好きだよ」
「……っ」
薄く微笑みながら手を伸ばそうとする、親友の胸に。
どす、と。リヒムは短剣を突き刺した。
「あり、がとう……」
親友の最後の微笑みを目に焼き付け。
リヒムは彼女の妹を探すべく、毅然と身を翻す。
ごうごうと燃えさかる火勢が、悲痛な少女の声をかき消したまま。
◆
アリシアを殺した後、リヒムはフォルトゥナの鎮圧にあたった。
シェラを探すためにもまずは戦いを止めなければならなかった。
「草の根をかき分けてでも探し出せ! 絶対にどこかにいるはずだ!」
「はっ!」
私兵に指示を飛ばしながら焦りばかりが募った。
傭兵たちは皆殺しの指示を受けていたようで、生きている者はほとんどいなかったのだ。もしも既に死んでいて炎に焼かれていれば判別できないし、死体を並べて確認するしかなかった。
しかしどこにも、アリシアに似た少女の姿はなかった。
後に分かったことだが、リヒムの到着とほぼ同時に引き際を見た傭兵が攫えるだけの女を捕え、奴隷商人に引き渡したらしい。そこにシェラが入っていたわけだが、軍の指揮と捜索を並行で進めていたリヒムは気付くことが出来なかった。
「将軍、一晩探しましたが、もう……」
「……っ」
私兵を使って捜索を続けるのにも限界があった。
今、リヒムがシェラを探している間にもイシュタリア帝国の戦争は続いていたのだ。イシュタリア帝国はアナトリア国民百数十万人をほとんど殺し尽くした。
ゴルディアスの秘宝が誰かに継がれていれば皇帝の脅威となるかもしれない。自身の他に秘宝を知る者を許せない、皇帝の強欲さが顕れた形だ。
宣戦布告もなく非戦闘員すら手にかけた帝国の残酷さを諸外国は非難したが、自然の要害を持つアナトリアを一夜にして滅ぼした帝国に下手な真似は出来ない。皮肉にも帝国の強大さが示されてしまい、彼らはこの戦争を『アナトリアの悲劇』と呼んだ。
戦争終結後もリヒムはシェラを探し続けた。
山の中に小さな足跡が見つかったのだ。
それがシェラのものである保証はなかった。むしろ可能性は低かった。
既に死んでいるだろうと部下に何度も言われた。
それでも──リヒムは探すことをやめようとはしなかった。
そうしなければ、
奴隷商人にわたりをつけ、隣国へ調査員を派遣し。
どこかにアナトリアの女が流れていないか何度も探して。
そのどれもが空振りに終わった。アリシアの妹ではなかった。
転機は戦争終結後、一年経った頃だ。
『火の宮の連中が力をつけてきている』
アナトリア虐殺を指揮した『鳳龍将軍』とリヒムは犬猿の中で、その原因を調べてみると、どうやらクゥエルという料理官が辣腕を発揮しているらしい。宮廷とも懇意な奴隷商人の息子だそうで、リヒムは奴隷商人の伝手を頼るべく密かに火の宮を訪ねることにした。
そして──
暗雲の下で宦官二人の乱暴される少女を助けた。
それがシェラだった。
見間違えようがない。アリシアに似た可愛らしい子だ。
(……これで約束を果たせる。アリシア、もう大丈夫だ)
みすぼらしい恰好だった。痩せぎすで見るに堪えない。
だが、紫紺の瞳には現状に決して屈しない強さがあった。
その瞳に、リヒムは魅入られた。
一目惚れだった。
「やっと見つけた」
一年間ずっと探し続けてようやく見つけた親友の妹。
捨てられた猫のように警戒する少女に、もう大丈夫だと手を差し伸べて。
「触らないでっ!!」
パチン、と手が振り払われた。
「お姉ちゃんを、殺した男……!」
心臓に剣を突き立てられたような衝撃だった。
(あぁ、そうか。この子は)
きっとあの時、あの場にいたのだろう。
燃えさかる炎の向こうで、自分がアリシアに手をかけたところを見ていたのだ。
(そりゃあ、許せないよな)
恰好を見れば酷い扱いを受けてきたことは一目で分かる。
アナトリア人がイシュタリアでどんな扱いを受けるかを知っている。
シェラに拒絶されたのは当然だ。この手を取ってもらえないのは当然だ。
アナトリアへの戦争を止められなかった自分に。
介錯のためとはいえ、アリシアに手をかけた自分に、そんな資格はない。
『お願い、あの子にはだけは、病気だったって、知られたくないの』
『最後、喧嘩、しちゃったから。あの子に、消えない傷を、残したくない』
アリシアの最期の言葉が脳裏に蘇る。
今ここでシェラにすべてを話せば、この子はどう思うだろう。
十中八九、信じない。
イシュタリア人の言葉など信じる道理はない。
それでも──
(俺がアリシアを殺したのは事実だ)
すべてを話したところで、誰も救われない結末になるのも明らかだった。
話したところで自分が楽になるだけだ。シェラの心は傷ついてしまう。
もうアリシアは帰ってこないのだから。
どうすればシェラを救えるだろうかと、必死に考えた。
姉の死を受け入れて彼女が前に進むためにはどうすればいいのかと。
答えはすぐに出た。
「誰のことかは知らんが、殺したアナトリア人などいちいち覚えていない」
自分を悪者にしてしまえばいい。
正真正銘、姉を殺した犯人として彼女の復讐対象となろう。
そうすれば、少なくとも復讐を前にした彼女は生きていける。
大嫌いなイシュタリア人に囲まれても、復讐の焔を燃やしていれば負けたりしない。
(生きろ、シェラ)
リヒムはシェラを引き取ることを即断した。
これまでの酷い環境を忘れさせるほど甘やかすことを決めた。
たとえ自分がそうできなくても、家族を通じて彼女が癒されればいい。
シェラは火の宮を離れてからどんどん綺麗になっていった。
だんだんと表情が明るくなっていく彼女に惹かれなかったといえば嘘になる。
正直に言えば、抱きしめたくなることは何度もあった。
そのたびに思い出した。
アリシアを殺した事実と、彼女と交わした約束を。
けれど──
「あんたを殺す用意は出来てるんだよ。
(すまん、アリシア。約束は守れなかった)
万が一にも自分が死ねば、彼女は何も知ることが出来なくなる。
それは、違うと思った。
彼女がラークについて故郷にいくほど姉を好いていたのなら。
隠し通すことで彼女が危険にさらされるなら、もう打ち明けたほうがいい。
それで折れるほど弱い女ではないと、彼女自身が教えてくれた。
「……生きろ。シェラ」
呟き、矢の雨が降り注ぐ真っただ中にリヒムは突っ込んだ。
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