第29話 リヒム・クルアーン(前編)

 

 リヒム・クルアーンは帝都のスラム街出身だ。

 両親は没落した元貴族の平民で三歳の時に殺され、スラムに落ち延びた。

 スラムは煌びやかな帝都の闇を煮詰めたような場所だった。


 戦争による版図の拡大が帝都に影を産んだのだ。

 負傷や病気によって働けなくなった兵士、借金が膨らんで店をたたんだ元商人、戦争休止によって職にあぶれた傭兵、病気になって捨てられた娼婦、などなど……。


 幼きリヒムの周りには社会から落ちぶれた者たちが多く居た。

 互いに利用し、互いに監視し、時には殺し合うような日々だった。

 窃盗、詐欺、殺人、麻薬、放火、凌辱、裏切り、すべて日常茶飯事だ。


 パンを盗まなければ生きてはいけなかった。

 大人は信用できない。ただ、おのれの力のみが信じられる影の世界。

 光に彩られた世界をそっとうかがう、それがリヒムの日常だった。


「ねーねーお母さん、あれ買ってー!」

「もう、しょうがないわね。お兄ちゃんと分けるならいいわよ」

「わーい! にいちゃ、一緒に食べよ!」

「しゃあねぇなあ、もう」


 家族が欲しかった。


 獣のように暴力でスラム街の頂点に立ったリヒムに付き従う者達が何人もいたが、彼らは自分が強いからついて来ているのであって、この力が無くなればあっさりと別のボスに尻尾を振ることは明らかだった。打算と裏切りを孕んだ関係にはうんざりだ。裏切られるのにも飽いた。


 手と手を取り合い、時に軽口を叩き、それでも絶対の信頼で結ばれた家族。

 もしそのような存在を手に入れることが出来たなら、自分も『人』たり得るのではないかと思った。


 ある時リヒムは敵対していた暴力集団を潰したところがとある将軍に見つかり、兵士にスカウトされた。


 リヒムは承諾した。

 暴力の世界で生まれ育ったリヒムは人としての教養をに身に着けていく。

 スラム街でのノウハウを生かしてまたたく間に出世していくが、やはり、そこでも打算の関係からは逃れられなかった。


 将軍でこそなかったが、リヒムの力を利用しようと多くの者が近づいて来た。


「なぁにあなた、浮かない顔してるわね?」


 そんな時に出会ったのがアリシアという女だった。

 国家間交流の一環として留学に来ていた彼女の警備を担当したのがリヒムだ。

 仏頂面のリヒムの頬を突いて、面白そうに彼女は言った。


「そんな顔をしていると幸せが逃げちゃうわよ? ほら、これでも食べなさい」

「……なんだこれは」

「ふふ。わたしの新作。イカと香草の砂糖和え」


 皿に乗った料理を口にすると、生臭さと砂糖の甘さが口の中を蹂躙した。

 思わず口元を抑えたことをリヒムは鮮明に覚えている。


「まっず……!!」

「あははは! そうよね、まずいわよね、これ! すっごくまずい!」

「失敗作を食わせたのか!?」

「あら。美味しいなんて一言も言ってないわよ」


 ふざけやがって。と思った。

 何なんだこの女は。と思った。


「ほら、もっと処理……じゃない、食べなさいよ」

「誰が食うか!」


 それからリヒムとアリシアの交流は始まった。

 不思議な女だった。

 天真爛漫かと思いきや努力家で、誰よりも朝早く起きて料理修行に励んだ。

 つかみどころがないかと思えば物憂げな顔で遠くを見ることもあった。


「ねぇリヒム。わたしね、妹がいるの」

「へぇ」

「これが天使みたいでね、まだ二歳なんだけど、可愛くて可愛くて!」


 家族のことを嬉しそうに語る彼女が羨ましかった。

 共感してやれないもどかしさがあった。


「いいな、それ」


 ぼそり、と呟くとアリシアは微笑んだ。


「あなたにもいつかできるわよ、大切な人が。その人と家族を作れば?」

「ならお前が家族になってくれればいい」


 リヒムはその言葉を発するのに幾分かの勇気を要したのだが、アリシアは真面目に受け取らなかった。


「馬鹿ね。そういう台詞は本当に大事な時に取っておくものよ」

「俺は君を特別に思ってる」

「リヒムはただ、憧れてるだけ。わたしに自分が持ってないものを見ているだけ。それは恋じゃないの」

「……そういうものか」


 そう言われれば納得してしまう、その程度の思いではあったけれど。


「恋っていうのはね、その人のことを見ているだけでどうしようもない気持ちが湧き上がってくるような、そんなものなの。愛しくて愛しくて、気が狂いそうになるのよ」

「君は恋をしたことが?」


 茶目っぽく笑うアリシアの顔を、リヒムは一生忘れないだろう。


「ふふ。本の受け売りよ」


 それがアリシアと交わした最後の言葉だった。

 短い日々だったが、彼女との交流はリヒムに決定的な変化をもたらした。


 上司と交流し、部下との接し方を変えた。

 軍の指揮を高めたリヒムは戦場で華々しい戦果を飾っていく。

 その功績が認められて公爵の養子になり、身寄りのない者達を集めた。


 その間もアリシアとの交流は続いており、手紙が届くたびに温かい気持ちになった。彼女からの手紙はほとんど妹絡みだったから、あのアリシアを夢中にさせる妹にも興味を持った。


「また会いたいものだな」


 その矢先だった。


 皇帝スルタンからアナトリア侵略計画について聞かされたのは。



 ◆



 イシュタリア帝国初代皇帝スルタンは遊牧民族だったツァリ族を騎馬民族に育て上げ、小さな集落から周辺小国を呑み込み国土を広げてきた異才の戦争家である。御年は七十を超えているものの、若き日から鍛え上げた筋骨隆々とした身体は王の威風を纏っている。


 そんな皇帝スルタンにも衰えが出始めた。

 後継者育成を終えた彼に老いの恐怖が忍び寄り、妄想に取り付かれ始めた。

 すなわち、不老不死の夢に。


 古今東西、不老不死を追い求めて変死した王は多い。

 西に名高い砂漠の王しかり、極東に座す武王しかり。


「馬鹿馬鹿しい。とは思うが」


 皇帝スルタンはリヒムが認知する以前から動き始めていた。

 西方の魔術師を呼び寄せ怪しげな儀式を行わせ、孤児を攫って生贄に捧げたという噂もある。

 そんな彼が新たに目をつけたのが大陸の要所である貿易国。


『食の宝物庫』アナトリア。

 かの国に伝わる『ゴルディアスの秘宝』を食べれば、不老不死の身体が手に入るという。奇しくも、リヒムにとって初めて『友』と呼べる人物がいる場所に食指を伸ばしたのだ。


「俺は反対です」


 イシュタリアにいる四人の将軍がすべて集まる大会議。

 皇帝スルタンを交えた席で、リヒムは開幕一番に投げかけた。


「確かにアナトリアは土壌が豊かで資源も多い。手に入れられればイシュタリアは大きく発展するでしょう。一方で周辺国家と結びつきが深く、下手に手を出せば諸国が黙っちゃいない。いまだにイシュタリアに反感を抱く反乱分子もくすぶっている中で、アナトリアに手を出すのは自殺行為だ」


 リヒムの意見は正論すぎるほど正論だった。

 事実、大将軍以下四人の将軍も異論は唱えなかった。

 だが。


「控えよ。黄獣将軍アジラミール・パシャ


 皇帝スルタンは忠臣の意見に耳を傾けない。


「そも、今回の会議はどのようにアナトリアを攻めるか作戦を立てる会議であり、戦争の賛否を決める会議ではない。そなたが思いつくようなこと、この皇帝スルタンが考えに及ばぬと思うか」

「それは……ですが、アナトリアは自然の要害に囲まれた国です。こちらから攻めれば甚大な被害が」

「安心せい。それについては考えがある」


 リヒムは血が出るほど奥歯を噛みしめた。

 皇帝スルタンの中でアナトリアへの戦争はもう決まっていたのだ。

 愚かな妄想に取り付かれた老人の目には狂気しかない。


「リヒム・クルアーン。それ以上口答えすれば其方とて容赦はせぬ」

「……は」


 ここで駄々をこねれば本当に何も出来なくなる。

 忸怩たる思いを噛みしめながらも、リヒムには頭を下げることしか許せなかった。


(俺に出来ることは……)


 リヒムは自分の他に皇帝スルタンと同席している将軍たちを見る。

 かの同僚たちは油断ならない猛者たちで、皇帝への忠義に厚い。


 特に『鳳龍将軍』は好戦的で、皇帝と共に領土を広げてきた英雄だ。

 その反面、部下への報償として侵略した国の略奪を黙認している節がある。


(すまない。アリシア)


 リヒムは固く目を瞑って、決意と共に顔を上げた。


「では、各自が担当する戦場についてだが……」

「俺はフォルトゥナを希望します」


 せめて、理不尽な目に合わないように。

 出来る限り犠牲を出さず、アリシアの故郷フォルトゥナを制圧する。

 それだけが自分に出来ることだと、リヒムは信じていた。


 それが、甘すぎる幻想だとは知らずに。



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