第8話 決壊する感情

 

 身体が風になったようにふわふわしていた。

 三十分以上かけてピカピカに磨かれた肌は嘘のように艶を取り戻し、髪のほうも痛んではいるものの若々しさを取り戻している。一仕事を終えたスィリーンたちは満足げに息を漏らし、服を着せたシェラの前でうっとりしていた。


「シェラちゃん、最高に可愛いわぁ。食べちゃいたい」

「まだまだ磨きがいがある。良き」


 さすがに一年かけて痛んだ肌や髪がすべて治るわけではない。

 身体は痩せ細ったままだし、そもそも姉のように顔の造形がいいわけではないから、きっと二人のこれはシェラを働かせるための方便なのだろう。そう思いながらルゥルゥと目が合うと、彼女は口元をほころばせた。シェラは「ふん」と鼻を鳴らして目を逸らす。


(あなたたちの思い通りになんかならないんだから)


「では行きましょうか。閣下がお待ちです」

「うふふ。今日はラドワの最後の手料理ですから、張り切ってると思いますよ」

「シェラの料理にも期待。お腹空いた」

「……まさか一緒に食べるんですか?」


 シェラはアナトリアの辺境出身だから詳しくはないが、王都に住んでいるような貴族たちは侍女に働かせてぐうたらしていると聞いた。身分の違いを大事にしていて一緒に食事をとるようなことはないし、使用人は主が食べた残りを下げ渡されるのが普通だとか。


「うちはみんな家族だからね」

「閣下は身分や民族で人を差別はしません。故にそういう方針なのです」

「……あっそ」


 貴族社会に詳しくないシェラにはそれがどれほど珍しいことかも分からない。

 人の家族を奪っておいて自分の家族は大事にすることに反吐が出るくらいだ。

 戦争だから、の一言で片づけられるのは他人だけである。


「シェラちゃん、すごく綺麗になってるから。あとで水鏡持ってきてあげるね」

「別に要りません」


 スィリーンの言葉にそっけなく答えるシェラ。

 そうこうしているうちに、一行は食堂へ到着する。


 将軍の食堂とあって大広間のように広い場所を想像していたが、思ったよりもこじんまりとしていて、庶民的な雰囲気がただよう食堂だった。きれいな絨毯や道具類も一級品の物を使っているところは、やはり貴族なのだと感じる。食堂の奥に座っていたリヒムはシェラを見て目を見開いた。


「旦那様、いかがですか? シェラちゃん、綺麗になったでしょう?」

「ん。なかなかに」

「……」


 リヒムは黙ったまま呆けている。


「旦那様?」

「あ、あぁ、そうだな」


 リヒムは取り繕ったように咳払いし、挑発的に笑った。


「ずいぶん綺麗になったな。さすがは我が家の風呂釜役女官キルハンジュ・ウスタだ」

「ありがとうございます」

「当然」

「……私が綺麗? 冗談は顔だけにしてください」


 シン──……。

 和やかな空気をぶった切るシェラ。


 美人で気立ての良い姉と比べられていたシェラの自己評価はどん底だ。

 周りからも『愛想がない』『目が生意気』『足が細すぎる』とよく言われたものである。


「ルゥルゥ」

「ありがとうございます、スィリーン」


 スイリィーンから水鏡を受け取るルゥルゥ。

 平らで大きな皿の上に水が張ってあった。


「そんなに言うなら自分で確かめてください」

「……」


 水鏡を持ち「さぁ覗き込め」と催促してくる。

 シェラは眉根を寄せたが、ルゥルゥが一向に引かないのをみて音をあげた。

 どうせお世辞や悪戯の類だろうし、さっさと否定して終わらせよう……。

 そう思って水鏡をのぞき、シェラは固まった。


「………………誰、これ」

「あなたですよ」


 水面に映った自分の姿に戸惑いを覚えたシェラ。

 すかさずルゥルゥがシェラのほっぺを引っ張ると、水面に映る誰かも同じ顔になっていた。


「……ほんとに、私?」


 燃える夕陽のような紅色の髪は艶めいている。透き通るような肌は荒れているものの、水面に反射してきらりと光った。アメジストの瞳は呆然と丸くなっており、全体的にまだあどけなさが抜けないが、大人の色香を漂わせ始めている。こんな女、シェラは知らなかった。見かねたスィリーンが助け舟を出す。


「シェラちゃん、一年もひどい目にあってきたんでしょ。だったら知らなくても無理ないかも」

「ぁ……」


 成長期、である。

 シェラは一年前、十五になったばかりだった。

 思春期の一年は自分が思う以上に身体に変化を与えていたようだ。


「シェラザード。君は君が思う以上に美しい」

「……っ」


 リヒムが優しく告げた言葉にシェラは奥歯を噛みしめる。


(あんたなんかに言われたって……)


 こいつは、姉を殺した男だ。

 大嫌いで最低なイシュタリア人を代表するような将軍なのだ。

 それなのに、頭のなかに声が響いている。


 美しい、美しい、美しい……。


 ジン、と目頭が熱くなった。

 今まで誰もそんなことは言ってくれなかったから。

 ただただ姉と比べて虐められて、名前を呼んでなんてもらえなかった。

 それなのに、初めて言われた相手が姉の仇だなんて──


「……っ、だいっきらい……!」


 感情が決壊する。

 その場にうずくまりそうになって、でもイシュタリア人の前で情けない姿を晒すのが嫌で。光の粒をまきちらしながら、シェラはその場から走り出した。


「あ、シェラちゃん!」


 バタン、と食堂の扉が閉まる。

 今日の主役が居なくなった室内に気まずい沈黙が満ちた。


「……旦那様。言わなくてよろしいので?」


 ルゥルゥが心なしか責めるように口を開く。


「『アナトリアの悲劇』は旦那様が引き起こしたものでは」

「ルゥルゥ」


 リヒムは厳しい口調で言った。


「全ての責任は俺にある。それに……彼女の言葉は事実だ」


 淡々と、彼は言う。


「彼女の姉を……を殺したのは俺だからな」


 その瞳に陰りがあることに気付いたのは、その場でルゥルゥだけだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る