第38話 船の上で
「良い風ですわね」
「…そうだな」
この暑い夏場にはとても涼しい風だ。
だがどこか、その涼しさが今は虚を感じさせる。
「…白斗さん、白斗さんは何をすれば自らの意思で私の婚約者になってくださるんですの」
「……」
「きっとどれだけの大金を積み上げても、白斗さんは頷いてはくれないでしょうし、私が願いを叶えて差し上げると言ってもおそらく頷いては下さらないでしょう…でしたら、どうすれば良いんですの?」
「俺は、別に美弦とそういう関係になりたくないわけじゃないんだ、幼馴染としても好きだし恋愛としても…好き、なのかもしれないと最近思い始めてる」
「でしたら─────」
「でも、それで今までの美弦との関係性まで消えると思うと、それが怖いから、俺はその美弦の申し出を許諾できない」
得るだけならまだしも、ずっと一緒にあったものが無くなる可能性があるのなら、俺はその道を選ぶことができない。
「…現状維持は衰退というのは、ビジネスだけではなく何事にも併用できる言葉だと、私は考えていますわ」
「…え?」
「ですので…私は、もし白斗さんにこの申し出を断られるのであれば、白斗さんとの今までの関係性を全て断ち切りますわ」
「それは─────」
「それだけの覚悟がある、ということですわ」
当たり前だが美弦は本気のようだ。
俺の退路を経った、そういった心象だ。
「私と致しましたも、早く決めていただきたいんですの」
正面に向き合いながら、美弦は言葉までも真っ直ぐだ。
…俺が焦ったいんだろう、それは俺自身だってわかってる。
わかってはいるが…
「俺は美弦と婚約なんてできる器なのか?」
「…私を怒らせたいんですの?」
「違う、ただの事実だ、今日のパーティーだって、俺からすればこんなすごい船に乗れること自体が人生経験としては大きすぎる経験だが、美弦からすればきっとなんともないことだろ?」
「そんなことはありませんわ」
「え…?」
俺は美弦がこの豪華客船のことを小さい船と称したことをまだ忘れていない、あの衝撃発言は俺の記憶に新しいところだ。
「白斗さんと初めて乗った船、思い出に残らない訳がありませんわよ」
「…そうか」
なんだ、そのズルすぎる回答は。
…だが。
「前にも言ったが、美弦にはもう肩書き上だけでも婚約者は居るだろ?」
「そちらはもう手回しが済んでいます、白斗さんが首を縦に振ってくださるのであれば私たちのことを邪魔する存在は一切ありません」
何をどう手回ししたら今婚約者の人をそうも簡単に無かったみたいなことにできるのかわからないがおそらく嘘ではないんだろう。
「白斗さん、これが白斗さんの意思で決められる最後の機会です、もしここで断られてしまったら、もう…」
…もう、俺たちは幼馴染でも居られなくなる、ということだろう。
「…ちょっとだけ、考えさせてくれ、すぐに戻る」
「はい」
俺は少し冷静に考えるために一度船内に戻った。
「できれば早く返答して欲しかったですわね…あんなにかっこいい白斗さんとあんなに長時間向き合っても倒れないなんて!良く頑張りましたわ!私!」
船内に戻ると、ブリッジへの入り口となる廊下に甘奈さんが居た。
「甘奈さん…?」
「はっくん?こんなところで何してるの〜?」
「あぁ、えっと…」
流石にそのまま美弦に婚約を迫られてる、なんて言えるわけがないか。
「ちょっと風に当たりたくて…」
「…そっかそっかぁ〜、はっくんって今好きなことか居るの〜?」
「え…?いきなり何を…」
「たまには恋バナしようよ〜!で、どうなの?」
「…甘奈さんに言うとろくなことにならないような気がする」
「わかったよ〜、理由教えてあげる、もし居ないなら…私がはっくんの恋人になってあげようと思って」
「…は」
頭でもぶつけたんだろうか、とうとうおかしくなってしまったらしい。
今までも大分この人はおかしいと感じたことはあったが、今が飛び抜けてその所感が強い。
「嘘だと思ってる?なんならファーストキス、今貰ってあげよっか?」
そう言って本当に顔を近づけてくる甘奈さんに動揺しつつも俺はその顔を止めて冷静に言葉で返す。
「俺のファーストキスはもう済んでる」
「…え?!そうなの!?」
「誰って…それは…」
さっき風に当たったはずなのにまた顔が熱くなってきた気がする。
「あ!はっくん顔赤〜い!そっか〜好きな人とファーストキスしたんだね〜」
「…え?」
「だって好きでもない人にキスされたならその人のこと恨むはずでしょ〜?でもそんなふうに照れてるってことは好きな人とキスしたってことだよね〜!」
「好きな、人…」
俺のファーストキスは、美弦…好きな、人。
「なぁ〜んだ、もうはっくんがファーストキス好きな人と済ませてるんだったら、私はまだ独り身だね〜、残念残念」
甘奈さんは高いテンションでそんなことを言いながら廊下を歩き去って行った。
「なんだったんだ…」
ただ単に酔っていたんだろうか…だがそれにしては今の俺に刺さる言葉だったな。
「…そろそろ戻るか」
俺は…決意を固め、ブリッジに戻った。
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