「ポケットに銀貨一枚」(ワードパレット作品)
伊野尾ちもず
不可視/ひとつまみの/手触り
[ピコーン お買い上げありがとうございます]
誰かが自販機で飲み物を買ったらしい。間抜けな電子音と共に重量感のある音が路地に響く。プシュ、と窒素が抜ける音に続いて喉を鳴らし勢いよく飲む音が響く。俺のいるところまで液体の甘い匂いと炭酸の香りが漂ってきて、思わず唾を飲んだ。
フードを目深に被った俺は、飲んでいる人物を盗み見る。街灯に照らされて浮かび上がる身なりは悪くない。大通りを歩いていたら、背景と同化しそうなくらいの平凡な服装をしている。ここからだと逆光で表情はよく見えないが、切羽詰まった空気は感じられない。
「……よし、この人なら」
ひざに力を入れたが、俺は立ち上がることは出来なかった。不意を突いて響いた音にその場で崩れ落ちる。間抜けな電子音より更に間抜けな音は俺の腹から出ていた。腹が減りすぎて身体に上手く力が入らない。仕方ない、ここ数日は水しか口に入れてないのだから。
溜息。
目の前にいた人物は飲み終わったらしく、容器を自販機横の回収ボックスに放り込む軽い音がして、足音は遠のいていった。あの分だと俺が影から見ていたことにも気づいていないだろう。
……否、気付いても何もしないだろう。連中は平和ボケしていて、俺の状況なんて想像もつかないだろうから。拗ねて家から飛び出したガキ、それも腹が減れば帰る家のあるガキにしか見えていない。声をかけてねだれば買ってもらえるかもしれなかったが、自発的に恵んでもらうことは期待できなかった。
ゆっくり壁をつたいながら立ち上がる。ポケットの中に入っている端末のつるりとした手触りを確認して俺は唇を噛んだ。この端末だけが今の俺の生命線。電源が入らなくなったら、文字通り死を意味する。
俺が生まれるよりずっと前、現金は廃止されて世界中全て仮想通貨になった。昔の人が布の財布を持つように、俺たちは身元証明を兼ねたモバイル端末で金を管理している。支払い時に指紋認証をクリアしないと使えないので、他人が端末を奪っても簡単には中身を引き出せない。アナログだった頃よりずっとセキュリティ対策は万全だ。
ただ、今の俺の口座に金は全く残っていない。唯一ある金目の物は以前メタバースのゲームで獲得した勲章銀貨の1枚だけ。売ればきっと、サーバーの寝所みたいなホテルで3日宿泊できるくらいにはなるだろう。でも、その後は?銀貨を売って、数日か1週間生きながらえて、生きていく当てが見つかるか?
「無理だな」
この短期間で物分かりの良い保護者が見つかるわけがない。成人までまだ随分ある俺みたいなガキは仕事なんてできない。未成年者ナントカ保護法とか言う法律で子供は仕事をしてはいけないと決まっているからだ。例外は芸術活動だが、俺がメタバースの企画画廊に出品した絵は1枚も売れた事はない。
端末を取り出して確認するも、今現在も売れた様子はなかった。
溜息。
この生活になって何度目かわからない溜息だった。
きっかけは……いつだったか思い出せないが、親戚一同全員死んだ日だ。資産家の伯父が祝賀会を開いて親戚を集めた。その場所にテロリストを名乗る集団がやってきて皆殺しにした。偶然俺は外で迷子になっていたおかげで助かったが、父さんも母さんも弟も従兄弟たちも伯父さんもお婆様もみんなあの会場で死んだ。今でもふとした瞬間にあの時の鉄臭くて酸っぱいような臭いが鼻に戻ってくるし、目をつぶれば赤黒く鈍い色を輝かせた豪華な扉がまぶたの裏に浮かぶ。
「う、うぇ……」
あぁ、そんな事を考えたら吐き気が。
胃液で焼けた喉をさする。苦くて痛い。あの日のような酸っぱい臭いがして、また吐き気が込み上げた。
みんなと一緒に死にたかった。
頼りになる大人が誰もいなくなった時、何をしたらいいのかなんて知らなかった。法律の解説ならネットの記事にあるらしいけど、ガキ1人放り出された時の対処法は誰も教えてくれなかった。
必死で考えて、あの悪夢のような場所から1分でも早く離れたくて1人で家に帰った。誰もいない家の中、買い置きされていた食料でひっそり食い繋いだ。警察にも学校にも行かなかったし、仲の良かった友達のところにも行かなかった。多分、本能的に危険を感じていたんだろう。
なんとなく感じていた危険が形を持ったのは、事件のニュースを動画で見た時だった。
資産家だった伯父が親族と共に過激派愛国団体のテロリストに殺害されたニュースには、行方不明になったはずの俺はいなかった。その場にいた「全員」が亡くなったと報道されていたからだ。
ニュースサイトのコメント欄は、伯父と事業に対する悪口と暴言に溢れていた。正しいか間違っているか俺には判断できない悪い話で溢れかえっていた。全部が理解できたわけではないが、連中は俺たちが死ぬことを望み、テロリストを使って叶えて喜んでいるように見えた。
直感的に俺は悟った。
敵は、世界だ。この社会全部だ。
きっと、警察や軍の代わりにテロリストを使ったんだ。警察もグルだから、事件の時もすぐに駆けつけてくれなかったんだ。
もし俺が俺であると周囲に知れたら、伯父さんや父さんのようにレンコンみたいな穴を開けられる。
強く握った拳が震え、少しの恐怖と共に湧き上がったのは負けん気と怒りだった。
俺は連中よりずっと長く生きてやる。俺が生き延びる限り、連中に復讐できる。生きているだけで復讐になる。
そこまで考えた俺は、早速荷物をまとめて家を出ることにした。これ以上ここにいたらあっという間に見つかってしまうと思った。
家を出た日から誰にも頼らず1人で生きてきた。貯めてあった貯金を切り崩し、メタバースに置いてあったインテリアを売却し、バーチャルペットの犬も売って、食料とサーバーの寝床みたいなホテルの宿泊料にした。漫画喫茶やネットカフェは昼間の潜伏には良かったが、大抵の場所は夜間の利用を断られてしまうのでホテルを借りるしかなかった。
口座の桁が減っていき、ゼロになったのは数日前のこと。今は腹が減りすぎて、皆んなが死んだあの日がどれくらい前だったのかすら思い出せない。
もう一度、溜息。
端末の今の充電では翌朝まで持たなそうだと気付いた俺は公共充電スポットに足を向けた。
公園で水が飲めたり、トイレが使えたり、ワイヤレスフィデリティに接続できるのと同列にモバイル端末の充電スポットが設置されている。誰がいつ使うのも無料だし、空中送電範囲にいる人なら特に制限はない。今の生活になって初めてありがたさがよくわかった。
公園のスポットに向かう途中にある商店から、鳥を炙る良い香りが漂っていた。店先でグルリと回転しながら焦げ目がつけられる鳥肉。ひとつまみの塩を振りかけられて脂がジュワッと音を立てる串焼きの様子を、俺は乾いた口で見ていた。飲み込むだけの唾も出てこない。
確か、昔はスリとか言う店先の窃盗犯がいたと聞いた。人とぶつかってよそ見をさせている間に品物を盗んだそうだ。そんな時代があったとは到底俺には信じられない。
店員と客の間には値段や広告の浮かぶ透明なシースルー板があって、直接商品に触ることはできない。直接触れるのは音と香りだけだ。
客でごった返す店先を足早に通り過ぎて公園に入る。俺の他はくたびれた服を着た大人たちがいた。
街灯みたいな形の充電スポットに集う人は、まるで人工の光に吸い寄せられる羽虫のようだと以前は思っていたが、今は違う見方をしている。人工でも良いから光が欲しかったのだ。事情はそれぞれ違うのだろうけど、俺とも共通するのは、家に今帰るわけにいかないということ。休める場所が本来あるべき場所に無い人たちだ。
昔は諸事情あって家がない人をホームレスと呼んで、支援してくれる団体がいたと聞いたことがある。今は、いない。ホームレスと呼ばれる人たちは表向きいないし、彼らが公然といないなら支援団体だって勿論いない。教科書のコラムには、かつて感染症が大流行した年に家も職も失った人を対象に炊き出しをする動画が載っていた。
でも、福祉の充実を掲げるこの国では、家も仕事も全員分あるし、仮に職を失っても次が見つかるまで家を失わずにすむ支援があるのだ、と社会の授業で先生は言っていた。とても幸せなことで、先人たちの努力のおかげだとも言っていた。
「その結果がこれなんだよな」
この世界は不可視なものが沢山ある。見えないから存在しないものとして切り捨てたところにも、人がいたんだ。今の俺のように。
「でも、生きていたいんだよ、俺」
端末を取り出そうとした時、公園の入り口が騒がしい事に気づいた。目をやると、警察の制服の色味が見えた。かすんでよく見えないが、間違いない。
うるさい鼓動を抑えながらすぐにフードを被り直し、慎重に反対側の出入り口を通って公園から退散する。路地裏をふらりと歩きながら見上げた空は星や月の代わりに鈍く光る曇り空だった。
足元を見ていなかったせいで、道の段差で体勢を崩した。下り階段が視界に入って、世界が上下逆転する。
「っ痛……!」
次に気が付いた時はもう転落した後だった。視界いっぱいに暗い空が満ちている。遠くに吹っ飛んだ端末から通知音が鳴った気がした。
割れるように頭が痛い。全身が重くて動かない。地面になったみたいだ。
『足元を確認しなさいって前も言ったでしょ』
「か、あさん……?」
あぁ、母さんの声がするなんてぼーっとし過ぎだな。最近、眠れてなかったからか。
それとも、何も食べていないからか。
「俺、復讐で、き……」
俺は、大きく、深く、溜息をついた。
***
「おぉい!こっちに子供が倒れているぞ!!」
「なんだって!?」
「早く、救急隊呼ばないと!」
人だかりの真ん中には階段下に倒れた少年の姿があった。後頭部から出た血で血溜まりができている。
「おい、少年!しっかりしろ!」
屈強な大男に耳元で怒鳴られても少年の表情は半目のまま変わらなかった。
「なんだってこんな子供が……かわいそうになぁ」
「本当、まだあんな小さい子がねぇ……親は何やってんだろうかねぇ?」
人だかりからヒソヒソ声が響く。心配そうな声の中に珍しい事態を他人事として面白がる音が隠し切れていない。
「救急隊通ります!道を開けてください!!」
慌ただしくやってきた救急隊のストレッチャーに乗せられて連れていかれる少年。彼らが気付かず置いて行った端末を、1人の刑事が拾い上げた。彼は、例のテロ事件の捜査で交番勤務の職員も交えて公園まで来ていたところだった。
階段から落ちた衝撃で端末の画面は蜘蛛の巣状に割れている。
刑事がスリープを解除するとメタバースの企画画廊から通知が入っていた。
『突然DM失礼します。企画画廊に出品されている絵を拝見し、大変感銘を受けました。つきましてはあるだけの絵を言い値で買いたいのですが──』
ぼんやりと画面を見ていた刑事だったが、ふと目に凄絶な光が灯った。
「もしかして、さっきの子は……!?」
「どうしたんです?」
横からの顔を覗き込む男性。少年を最初に見つけて介抱しようとした屈強な大男は新米の刑事だった。不安そうに見つめている彼の様子を気にも留めず、刑事は自分の端末を取り出して直属の上司に電話をする。
「テロ事件の生き残り少年を見つけました。救急車で病院に行ったところなんですが、もしかしたら間に合わないかもしれません……えぇ、はい……はい。了解しました。では失礼します」
通話を切ったところで新米刑事が唖然とした顔をしていることに刑事は気がついた。
「さっきの少年が例の生き残り……」
「あぁ。過激派連中を検挙できる折角の手がかりなんだ……頼む。少年、生きてくれ」
刑事が端末を畳んで仕舞うと、視線の先に事故担当の警察職員が向かってくるのが見えた。
どこかの家のテレビからニュースが流れていた。
『次のニュースです。過激派愛国団体によるテロ事件に関し、行方不明になっている少年がいると警察が発表しました。事件についてなんらかの事情を知っていると思われる為、警察は少年の行方を探しています。被害者の中で唯一の生き残りと思われる、少年の名前は──』
〈了〉
「ポケットに銀貨一枚」(ワードパレット作品) 伊野尾ちもず @chimozu_novel
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