「エピローグの雨後」(ワードパレット作品)

伊野尾ちもず

結び目/とけかけた/靴紐

 夫が小説家などと言いますと、普段からどのような美辞麗句を聞いているのかとお思いでしょうか。ところがさっぱり。あの人は言葉をご自分の中に貯めてらして、私の方にはビタ一文出してくれやしないのです。川端康成さんとかいう偉い作家さんがいましたけれども、夫が言うにはあの人も普段は全く話さない人だったそうです。だからと言って夫まで倣う必要はないと私は思うのですけれど。結婚するまで出版業界の仕事と言って、小説家目木南天だと教えてくださらなかったのは非道いと思うのです。

 とは言え夫は優しい人ですから、私が困るほど無口ではないのですけれど、小説の中で書いてらっしゃるような、なんともロマンチックな言葉は言ってくださらないのです。もし言ってくださったとしたら──まぁ、それはそれできっと居心地が悪くなるのでしょうけれど。

 そんな夫には小説家の仕事をする際の決まり事が幾つかあるそうです。その1つは出版に関わった方に謝辞を述べる事。編集の方や取材に応じて下さった方だけでなく、身近で関わった人皆へ宛てるのです。

 この時だけ。ええ。この時だけ、夫は直接私に感謝を伝えてくださるのです。いつもはきっと、気恥ずかしくて言えないのでしょう。けれども、エピローグの中では必ず、忘れる事なくきちんと書いてくださるのです。それがどれだけ嬉しく、心が華やぎ、私にとって支えとなっている事でしょう。事細かに書かれているわけでなくとも、焦がれるほど言葉が愛おしくて、夫には敵わないと思うのです。新刊が出るたびに、その言葉が読みたいがばかりに、電子版を 早々はやばやと購入し、他の誰よりも早く読み終えようとするのです。

 そのつもりで私は今この手に持つタブレットで新刊を読み始めたのです。鮮やかな風景描写、魅力的な登場人物たち。怒涛の展開に胸を高鳴らせて読み進めて、円満に終わる爽やかさに感動してうっかり泣いてしまいました。

 そうして楽しみに待っていたエピローグのページへ進みました。でも、そこには私への言葉がなかったのです。編集の方や取材に協力してくだった方のことは書かれているのに、私のことは何も書かれていないのです。

 何かの間違いではないかと何度も読み直しました。それでも何処にも書かれていないのです。言葉遊びや暗号の類いの気配もありません。

 何ということでしょう。心臓に氷の刃を押し当てられたかのようです。遂に私は夫の謝辞にも値しないようになってしまったのでしょうか。私は知らず知らずのうちに夫の気に障ることをしてしまったのでしょうか。

 もし、夫に見捨てられでもしたら!あぁ、私は生きていかれなくなってしまうでしょう。そのように生まれついてしまったのですから。この先1人で濃霧の密室に生きねばならぬと言われるのでしたら、きっと私は迷わず死を選ぶでしょう。

 ひとひら、涙が頬をつたいました。

 ……いけません。こんなことではいけません。何があろうと微笑まねばなりません。まだあの人は何とも言っていないのです。あの人が意地悪でこんなことをするのならば、私はさめざめ泣いているわけには参りません。

 気を取り直して散歩にでも参りましょう。 口紅ルージュを小指でポンポンと乗せて出かけるのです。大きな女優帽と色眼鏡で日差しを遮らねば暑くてならないでしょうが、ペットボトルに氷水を入れて持っていけば大丈夫でしょう。あの人の 吝嗇りんしょくがあろうとも、めいいっぱい楽しむことはできますもの。

 一歩出てみた外は大変明るく、少し汗ばむほどの陽気です。

 先程の衝撃はまだ尾を引いていますが、今日の体調自体は良い方なのです。この散歩日和に近所をぐるりと歩けば、多少気も晴れましょう。あの人を許すこともできましょう。


 * * *


 油断していました。ここがどこだかすっかりわかりません。近所を少し歩いただけのつもりでしたが、考え事の間に曲がる場所を間違えてしまったようです。

 ふわりと香ってきた温かくて甘い香り。これはきっと散歩道沿いにあるパン屋さんの香りでしょうと思って追いかけてみたのですが……余計にわからなくなってしまいました。ここが知らない場所であることに変わりはないのです。

 いつものパン屋さんとよく似た香りが漂っていましたが、その隣の店からは薔薇と百合の芳醇な香りが漂っていたのです。私のよく知るパン屋さんの隣に花屋さんはありません。あるのは石油溶剤の煙たい香りがするクリーニング店のはずです。

 それに、よくよく考えてみれば、周囲に人の気配があり過ぎます。ひっきりなしに通る電気自動車の甲高いモータ音、自転車の執拗に鳴らされるベルの音、通行人の雑多な会話する声。宣伝の為でしょうか、どこからか聞こえて来る軽快なメロディ。こんなに人や車の通行の多い場所だったとは記憶していません。商店街に近いとは言え、自動車の音はこれほど近くに聞こえませんでした。

 手の中の杖がじわりと汗ばんで張り付きます。

 えぇ、あの人を許せずに家を飛び出した私が悪いのでしょう。気を散らしていた間に曲がる角を間違えた私が悪いのでしょう。けれども、それをあの人に言えますでしょうか?このような羞恥を?

 夫に連絡をすればきっと迎えに来てくださいますでしょう。そして理由を聞くでしょう。私は1人で慣れない場所には参りませんもの、きっと何故このような場所にいるのか知りたがるでしょう。

 その時に語れる顛末などありませぬ。無理に語ろうとするならば、顔から火が出るようと表現するだけでは足りません。猛火に焼かれるが如く私は苦しむ事になるでしょう。

 照りつける日差しが心持ち強くなったように思いました。手元にある氷水はほとんど溶けてしまった事でしょう。天気予報以上に今日は暑くなっていますから。

 歩きにくさの違和感に気付き、かがんでみれば靴紐まで緩んでいます。

 溶けかけた氷、解けかけた結び目。縁は結ぶものと言われますけれども、まるでそれではいつか解けても仕方がないように思われるのです。

 握っている杖が先程よりさらにじわりじわりと汗ばんで参りました。ここで私は何もせずにうずくまるだけなのでしょうか──

柑奈かんなさん!」

 人混みのざわめきの向こうから、聞き慣れた夫の声が唐突に聞こえました。

「り、竜胆りんどうさん……」

 夫のスニーカーの靴音は慌てたように近づいてきます。同時にカサカサと軽い音もしました。

「柑奈さん、何が?」

 息の上がった夫の声で肩にそっと手を乗せられても、話せることなどありません。

「ここは隣りの5丁目。柑奈さん、体調は?危険な事でも?」

 首を振るだけで、後はだんまりを決め込む私に夫は小さく溜息をついたようです。

「今日は暑いから、帰ろう」

 点字ブロックの上でうずくまる私に白杖を持たせ直すと、つかまりやすいように腕を添えてくれます。羞恥で火が出そうな顔をうつむかせながら立ち上がると、夫は左手で肘をつかめるようにしてくれました。

 「すみません、大丈夫です」と外側に向けて言っていたのは、もしかしたら周囲に人垣が出来ていたのかもしれません。見えない私とは言え、そのように他人様の迷惑と好奇の対象となるなど穴があったら入りたくてたまりません。

「編集さんとの電話が、終わって」

 家へ向かう道すがら、不意に夫が口を開きました。

「家の中がやけに静かだと思ったら、柑奈さんが居なくて」

 何を言えば良いのか逡巡するような、浅くて何度も途切れる吐息が聞こえました。

「ボイスメモも、メールも無くて、一言も言わずに、居なくなって」

 一言ずつ区切り、事実を並べる夫の声は少し無機質でした。

「その……散歩にしては長いと思って。スマホの位置情報から……」

 そこで夫の声は一旦途切れました。どこかの家で木の剪定音が響くことと私達の足音以外、何も聞こえません。

 ゆっくり12歩進んだところで、絞り出すように夫は言いました。

「怖かった、んです」

 ようやく出てきたその震えた声には涙のにおいが混ざっていました。鼻をすする音までします。

「柑奈さん、どうして……」

「いえ、いいんです。私の勝手ですから。どうか、お気になさらず」

 言いかけた夫の声を遮って、私は話の腰を折りました。何も語ることなどないのですから。

 本当に困るまで助けに来ない夫です。いっそ、こんな日に外に出るなんて馬鹿だとはっきり言ってくだされば良いものを。ここぞとばかりに泣き落として、自らの非を認めないだなんて都合が良すぎるのです。

「竜胆さん、もう帰りましょう」

 夫が泣いてる事が何だと言うのです。妻1人の気持ちをわからずして何が小説家ですか。私は知っているのです。あの人のポケットから聞こえてくるカサカサという音は、私の元へ来るまでに路端で受け取ったティッシュや試供品です。こんな時ですら吝嗇家なのです。

 私は「今日は暑いですから」と言い、細く息を吐き出しました。


 * * *


 あの日から数日経ちました。私も夫もいつも通りに振る舞っていました。それでも、まるで長雨でぬかるんだ道を渡ろうとしているかのような、緊張感が始終付き纏い、探るような調子が声に含まれていました。

 そんな折、夫はひと抱えもある箱を持ち帰ってきたのです。

 箱の中から出てきたのは、側面がつるつるした厚みのある冷んやりしたガラスでできている水槽のような物でした。なぜか、本物の土や草のような匂いまでしますし、湿気も感じます。一体これは何なのでしょう?

 首をひねっていると、夫が何かのスイッチをパチンと押しました。途端になんと雨の音が響き始めました。ぱらりぱらりと降り始め、やがてしとしとと降る雨になりました。何かの葉に当たったのか、ぴちょんと跳ね落ちる雫の音も混じります。ちょろちょろと小川のような音もします。先程よりも土の香りが気持ち濃くなったように思えました。

「竜胆さん、どう言うことです?」

「これは最新型のテラリウム。昔は水を落とすだけの雨だったけど、今は本物そっくりの雨が降る。気温や湿度を操作すれば雷や雪も再現できる」

「大きなテラリウムなのですね」

 私が言うと、得意げに夫が鼻を鳴らします。

「蓋を開ければ中の草本にも触れるぞ」

 夫に手を取られて水槽の中の草を触ってみると、少しくすぐったいような感触がしました。植物の種類に明るくないので、触れただけではよくわかりませんが、多く葉が割れて裏側がざらついているのできっとシダだったのだと思います。

「このテラリウムなら幾ら触れても大丈夫だ」

 私のように視覚障害を持つ人の場合、見えない代わりに触れて確認します。ですが、他人の持ち物を勝手に触るわけには参りません。説明だけでは理解できない時、触れてみるまでは他所の家の庭先に置いてある鉢植えひとつ、認識することはできないのです。

「勿体ない事……それで、このテラリウムはどうなさったの?」

 その質問に、夫はすぐに答えられませんでした。ややあってから、少しつっかえて気まずそうに話し始めたのです。

 曰く、仕事関係の人と訪れた先で勧められて購入した物だそうです。金額はひと月の食費を優に越す量でした。これには私もくらりとしました。普段、あの人が言うので節約しつましく暮らしているのです。それなのに、自分の趣味には無断で注ぎ込んでしまうなんて私にはその感性が理解できません。

「いや、ほら……柑奈さんも楽しめると思った、から……その……」

「いつもの節約はどうしたのです?」

 聞き返すとあの人はもごもごと口の中で呟くばかりで、何もはっきりと答えてくれません。

「私、これでは困るわ」

 テラリウムのガラスの縁を指でなぞりながら言う私の声はあの人に届いているのでしょうか。きちんと説明できないあの人に、わかるはずもないのでしょうか。細い息遣いだけでは、何を考えているのかわかりません。無言は、とても怖い事です。

 ……いいえ、初めからそうでした。夫は口下手なのです。状況説明はできても、自分の思うことひとつ、気恥ずかしさから話すことができない人です。察する事も苦手なのです。

 夫の吝嗇の理由も私はよく知りませぬ。それでも、夫が言うのであれば何かきっと理由があるのだろうと思って、今まで協力してきたのです。

「小説の中では、できるくせに」

 呟いた瞬間、夫が息を呑みました。そして気付いたのです。今まで決して言わぬと決めていた事が口を突いて出てしまった事に。


 * * *


 ぬかるむ道を渡るような生活に、更に雨が降り、照りつける陽に乾かされて固まりました。


 それから少しして、夫の作家仲間の柊一さんが我が家に大玉スイカと瓶ビールを持ってやってきました。夫の小説が刊行された同じ日に柊一さんの作品も刊行されたので、その経過報告会というところでしょうか。

 シャリシャリと音を立てて甘く冷たいスイカを齧りながら、夫と柊一さんは新刊の売れ行きや読者の反応の話をしています。文芸雑誌に載せて貰った作品につけた書き下ろしがSNSで良い反響を呼んでいるとか、ゲラの段階で読んだ書店員のなかにいたく気に入ってポップを送ってくれた人がいたとか、そのような話です。私にはそもそも「ゲラ」が何を指すのかすらよくわからないのですけれども、2人の作品が世間に受け入れて貰えているという事だろうと思い、少し誇らしくも思うのです。

「いやぁ、今どきは人工音声の読み上げも充実していて助かりますよねぇ。柑奈さんも旦那さんの小説読んでるんでしょ?」

 柊一さんの言葉に私は頷きます。

「えぇ、読み上げソフトの充実に助けられる事も多いです。今回は、点訳ソフトを使ったのでとても早く読み切る事ができました」

「あぁ、そりゃぁ良かったなぁ。聞くより点字で読む方が楽ですかね、やっぱり」

「私は点字の方が好きですねえ。自分の好きな速度で、イメージした声で読めますもの」

 成る程今時の点訳ソフトは凄いなぁと言いながら、柊一さんはうぅんと唸りました。

「それにしても新刊のエピローグ、南天も大変だったね。エピローグに家族への謝辞を書くなって脅迫状まがいの熱烈なファンレターが届いちゃったんだもんね?」

 エピローグ!顔から血の気が引くのが私にもわかりました。そうです、エピローグです。謝辞から私を省いたエピローグです。脅迫状のようなファンレターの話なんて聞いていません。そんな重要なことを夫は私に話していないのです!一体何のことなのでしょう?

「あれは良くない。2刷には訂正を入れるよう頼んだ」

 そっけないような、少しイラついた声で夫は柊一さんに答えました。私の肌までピリピリするような声です。

「訂正入れるより、最初から折れなければ良かったんじゃぁ……」

 柊一さんの声は虚空に消えて、後には誰にも何も話そうとしない夫の沈黙だけが広がりました。

 何という事でしょう。私の心をこれでもか言うほどかき乱しておきながら、当の本人はだんまりを決め込むと言うのでしょうか。これもあの人の意地悪だと言うのですか?

 ……いいでしょう、それならば私は笑みを絶やさずに最後まで戦おうではありませんか。あの人が真実を洗いざらい全て赤裸々に語るまで、戦おうではありませんか。

「竜胆さん……エピローグ、なぜあのような事をしたのです……?」

 私の問いに、あの人はもごもごと口の中で何かを呟いているようですが、あいにくよく聞き取れません。

「はっきり言ってくださいな」

 痺れを切らして語気を強めて机の縁を軽くコツコツ叩くと、あの人ではなく、柊一さんの慌てて息を吸う音がしました。

「あぁ、だからねこれは」

「……どうして、も」

 素早い衣擦れの後、柊一さんの言葉に被せて遮ったあの人の声には、切羽詰まった重さがありました。

「どうしても、売上が欲しかった。柑奈さんの治療費のために」

「お医者様にならば、きちんと行っていますし、支払いも滞ってなどいませんよ」

「そうじゃ、なくて」

 否定するあの人の声は少し震えていました。

「移植手術」

「何のことです?私はお医者様から何も聞いていませんけれど」

「柑奈さんの、目の移植手術だっ……」

 半ば叫ぶようなその答えにしばし、私はあっけに取られてしまいました。

 何と言う事でしょう。あの人はそんな夢想話に踊らされてしまっているのでしょうか。そこまで愚かとは私も思ってもみませんでした。

 確かに今時、眼球の丸ごと再生医療がありますし、人工網膜のインプラント手術もあります。ですが、前者は相当な資産家でなければ受けられない高額医療ですし、後者は安価で腕の悪い医師による医療ミスが多発している技術です。加えて数年おきに人工網膜を取り替えねばならないのです。

「あり得ない話です。この目を捨てろとおっしゃるのですか」

 我が家であり得るとすれば、人工眼球サイボーグアイになるでしょう。その為には如何に見えずとも、我が身たるこの目を抉り出さねばならないのです。

 息苦しくなる胸を抑えて、私は無理やり口角を上げました。

人工眼球サイボーグアイにするくらいならば、この見えないままの方がマシです。如何に竜胆さんの話でも、聞くわけにまいりません」

「そんな事は言っていない……!」

「いいえ?そうとしか受け取れません」

 焦るあの人の裏返った声は滑稽にも思えました。

 私の失明は後天的なものです。網膜の細胞が徐々に壊死していく病を発症したのは幼い頃でした。少なくともウイルスが原因ではないと言われ、親族に同じ病を持つ人もおらず遺伝子疾患でもないと言われ、病の発症原因は現在も不明なままなのです。

「なんで柑奈さん……頑なに、拒むんだ……」

 あの人の弱々しい吐息の中にギ、と耳障りな歯を食いしばる音が微かに聞こえました。

 私の病には進行を緩やかにするどのお薬もあまり効かず、合併症もあり、今は明暗の認知だけは失わずにすんでいる状態です。この状態になって尚、この目を守ろうとするには深い理由があるのです。地球の血潮のような赤い溶岩が深い場所にあるように、私にも意地を通そうとする深い理由があるのです。

 黙ってしまった夫に、私は唇を強く噛んでから口を開きました。

「この目は……竜胆さん、あなたが褒めてくれた目なのですよ」

 深く、深く、地表から奥底まで届くほど深くため息をつきながら声を紡ぎます。

「お忘れになりましたか」

 声が震えぬよう、細心の注意を払う私の胸には湧きあがった黒雲から豪雨が降り注いでいました。溜まった雨で今にも押し潰されてしまいそうになりながら、必死に言葉を続けます。

「『朝日みたいだ』と昔、あなたは言われたではありませんか」

 溜息混じりの声で夫に言われたあの日、どれだけ私は嬉しかったことでしょう。幼い頃に見た、遠い記憶の中にある白くて清らかな朝日を思い描いて、胸を締め付けられるような歓びに満たされたものです。

「見えなくて良いのです……ただこの目を……この目を捨てる事だけはできないと言っているのです……!」

 息をこらえて言い切った後に広がった沈黙は、あまりに酷いものでした。夫も柊一さんも一言も何も言わず微かな衣擦れもないのです。風すらそよとも動きません。私の話は難しかったのでしょうか。理解されないような事を言ったのでしょうか。意味の通らない話でもしてしまったのでしょうか。

 もう、最初のような威勢の良さは私の中にはありません。熱い溶岩も雨水に打たれて冷え切ってしまいました。無理に口角を上げようとしても痙攣するばかりで思ったように動きません。苦い香りが鼻腔に淀むように思えます。あぁ、なんと無様な姿でしょう……

「だから、だ」

 長い沈黙の後、ひゅうと喉を鳴らした夫がようやっと口を開きました。

「再生した眼球を移植するなら、美しい目を、失わずに済むと、思ったんだ。最初から人工眼球サイボーグアイは、考えてなかった」

 頭の中に風が吹いたような衝撃に、私は息をつめて顔を上げました。いつのまにかひんやりと濡れた頬をそっと拭って声のする方へ顔を向けます。

「その目を褒めたのは……他ならぬ僕だ。いつか、持ち主である柑奈さんにも、見て欲しい。そう思ったんだ」

 一言ずつ区切るように語る夫の声は、どう言えば良いのか迷って歯に何か挟まっているように思えました。

「すまない、柑奈さん。柑奈さんの気持ちをきちんと聞いてなくて。エピローグに柑奈さんのことを書かなかったのも、脅迫状を真に受けたからで……失策だった」

「そう、だったのですか……」

 なんという、思い違いでしょう。全ては私の思い違いだったというのでしょうか。何も、夫の意地悪ではなかったというのでしょうか。

「では、今までの吝嗇は……?」

「1日でも早く、治療費が貯まるように、と思ってだったんだ……大きいテラリウムは柑奈さんの為になるなら、無駄遣いじゃないと思った」

 恐る恐る聞いて得た回答は、拍子抜けするほど慈愛のこもった柔らかな答えでした。見捨てるなど、意地悪など、考えたこともないとでも言うような答えなのです。

 今度こそ、本当に顔から火が出てしまいそうです。このように想ってくれた夫に対してなんということを言ってしまったのでしょう。してしまったのでしょう。にわかに湧き出した羞恥心で胸が痛く、つい顔を伏せてしまいました。

「え、あ……柑奈さん、何が……」

 慌てて声を詰まらせる夫の声に私は首を振って否定するしかできません。

 今まできちんと説明しなかったのは、もしかして夫の照れだったのでしょうか。一体、何年夫婦をしていると思っているのかと呆れてしまいますが、真意を汲み取れなかった私も夫のことを悪くは言えませぬ。ぬかるみに足を取られていたのは変わりません。

「竜胆さん……ごめんなさい、私、何も気付かなくて……」

 泣くまいと思っても、もう止めることはできません。溜まりに溜まった雨は決壊してしまったのです。

 縁の結び目をゆるませていたのは私も同じだったのです。解けても仕方なかったのだと今更のように私にも理解ができました。

「その……言ったら、格好がつかないと思ったんだよ」

 拗ねたように、少し不服そうな音の混じった声で夫に返されて、不覚にも笑ってしまいそうなりました。泣いているというのに、笑ってしまうのです。やはり、夫には敵わないと思うのです。

「まぁ、なんだ……南天」

 ずぅっと黙って事の成り行きを聞いていた柊一さんが不意に口を開きました。

「良い本、作れよ」

「あぁ。勿論」

 柊一さんに間髪入れず答えた夫の声はもう、小説家の仕事を誇りにする揺るぎない芯の通った声になっていました。

「それと、もうちょっと普段から褒めてやれな。美辞麗句じゃなくったってさ」

「……善処する」

 けれども、追加で柊一さんから言われたことには弱気になっておりましたので、私はやはり笑みをこぼさずにはいられなかったのです。


 * * *


 カラカラに乾いた土地に慈雨が降り注ぎ、柔らかくなった土地に草木が萌え出ました。

 もう、前のようなぬかるみでも日照りで割れた土地でもありません。


 夫が新しく書いた小説の巻頭にはこう書かれておりました。

「この小説を目を患った妻に捧ぐ」

 そして、エピローグにはこのように書かれておりました。

「恵みの雨のように支えてくれた妻へ。解けかけた結び目はあなただから解けてしまうことなく、結び直せました。心からの感謝を伝えます」


 今はまだ、私の目は白い霧に閉ざされて見えないままです。

 けれども、このエピローグを読んだ私は、きっと、夫と同じものを見て笑い合うことができると思っております。



〈了〉

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