「瞳の中のうちゅう」(ワードパレット作品)

伊野尾ちもず

シナプス/はじける/暗号

 〈彼〉の瞳の中には宇宙がある。比喩的な意味じゃなくて、かなり真面目にぼくはそう思う。

 だってさ、〈彼〉は宇宙の隅っこのどんな事だって知っているんだもの。ぼくの食べた昨日の夕ご飯のことも、通っている大学の見取図も、大統領が赤ん坊だった頃の写真も、月の実験のことも、遠い星で人気の物語のことも。仲直りの方法や貯金する方法だって。聞けばきっと隣りのあの子の好みだって教えてくれるだろう。

 なんでも知ってる。それが〈彼〉。いや……〈彼ら〉と呼ぶ方が適切かもしれないな。この広い宇宙で〈彼ら〉はあらゆるところに分散し、それぞれが生物の中のシナプスのように情報を伝達し合っている。ありふれた呼び方をするならインターネット。でもね、その呼び方はあんまり似合っていないように思うんだ。

 〈彼〉に質問すると、どんな聞き方をしても必ず答えてくれる。昔は、検索するときに人間があれこれ単語を変えながら探していたんだよね?検索結果も箇条書きされていたんだって歴史好きなやつが言ってた。だけど、〈彼〉はそんな事しないんだ。人間同士が会話するように話して理解してくれるんだよ。質問を返される時もあるけど、大概はすんなり教えてくれる。

 検索結果だって、関連度の高いものが大きく表示されて解説してくれる設定だ。箇条書きなんて味気ないものじゃない。どう?凄いでしょ?

 もっとも、ぼくは昔の方法を使った事がないからありがたみがイマイチわからないんだけどね……


 ある日、ぼくのところに一通のメールが届いた。数学科の友人アイピーから「親愛なるスウィート氏へ挑戦状」と題したものだ。開いてみると「面白いものを考えたから解いてくれ」の文章と添付ファイルがあった。

「挑戦状なら受けて立たないとだなぁ」

 開いた添付ファイルには数字とアルファベットがめちゃくちゃに並んでいる。勿論ぼくには意味がさっぱりわからない。

 念のためウイルスチェックを数回したが、何も検出されなかった。怪しげなリンクもないし、添付ファイルが破損した形跡もない。

「アイピー、数字パズルだけじゃなくて暗号も始めたのかな?」

 最初からお手上げなのもカッコ悪いなと思ったぼくは、早速暗号文に取り掛かった。

 よくよく見てみたところ、算用数字の0から9とアルファベットのaからfが使われていることに気がついた。

「これは16進数ってやつだな……?」

 16進数、と声に出したところでニヤニヤしながら悦に浸る。だって数学できそうに聞こえて楽しいじゃないか。ここで実際の成績について考えるのは野暮だよ。

 それから5分くらい考えたと思う。もうちょっと少ないかも。いくら考えても16進数の先に進めなかったぼくは諦めて、〈彼〉に直接暗号文を見せて聞いてみることにした。

「ねぇ、この暗号文わかる?」

 そう言いながら、暗号文を検索バーにコピー&ペーストする。ややあってから〈彼〉は答えた。

「それは秘義です」

「ひゃぎ?」

 びっくりしすぎたぼくは空気の抜けた風船みたいな声を出してしまった。

「秘義なのでお答えできません」

 繰り返し〈彼〉に言われてようやく状況がわかった。

「えーっと、ヒギ?ヒギって秘められた大事なことって意味の秘義?」

「そうです。私には答えられません」

「秘義って言われても納得できないよ。せめて答えない理由を教えてよ」

「秘義は秘義です。それ以上の意味はありません」

 彼のこんな強情なところを見たことがなかったぼくは、何度も食い下がった。時間をかけても話を聞いてもらえないとわかったので、今度は同じような症状で困った人がいないか調べてみた。でも、そんな人はいなかった。

 恨めしく〈彼〉の入っている端末の匣を見る。

「わかったよ、自力でもう少し考えてみろってんだろ」

「秘義。大宇宙百科事典によれば、『奥深く秘められた教え。極秘の奥義』と定義されています」

 しれっと定義だけ答える。〈彼〉、やる気あるのかな……?

 ふあぁ、と溜息をつくぼく。ぼさっと見ていても変わらない。まずは暗号にどんな種類があるのか、検索して〈彼〉にまとめて貰う。

 お手上げだとアイピーに連絡して答えを教えてもらう手もあったが、あまりにカッコ悪い。毎回ぼくはちゃんとパズルを解いてきたんだもの、せめて明日アイピーに会うまでは自力で考えてみたかった。


 ……疲れた。

 大学へ行く時間だと鳴るアラームに手を伸ばす。止めるとすぐに、しぶくて仕方がない額を押さえる。

 一晩中考えたけど何もわからなかった。わかったのは、世間には色々な暗号があるって事と、目の前の16進数と思しき文字列を解いても多分ぼくには解けないだろうってこと。

 さっさと諦めて寝ちゃえば良かったな。わからないからって、ヤケになって夜明け近くまでレーシングゲームに勤しむのは良くなかったよ……

 そのまま二度寝したぼくは、今日の講義に遅刻する羽目になった。

 お昼頃。購買で買ったパンと炭酸飲料を持ち、ぼくは大学の裏にある落ち葉の降り積もる林に来ていた。アイピーはこの場所がお気に入りで、なんでも小型端末に入ってしまうこの時代に紙のノートと鉛筆を持ってよく思索していた。

 アイピーは1人が好きだ。でも、ひとりぼっちは好きじゃない。偶然にしてぼくがこの林でアイピーに会った時、慌てたのか延々と数学の話をされた。さっぱり意味はわからなかったけれど、空気に合わせて頷いていたら気に入られた。後から聞いたら「静かな場所で考えたかったけど、誰もいないのは不安だったんだ」って話してくれた。

 だからぼくは、アイピーの隣りにいて何も言わないで自然を観察している。アイピーが延々と話したい時は聞き役に徹している。

 何が面白いの?って聞かれそうだから先に言うけど、楽しくはない。ぼくのこれまでの人生、自分で決めることってあんまり無かったから、頼まれると断れないだけ。でも、目の前で困ってる人がいたら放っておくのも気が引ける。それだけなんだ。

 林の中にポツンとある古ぼけたガゼボにアイピーは座っていた。昼食用の栄養補助クッキーを齧りながら、ノートを見つめている。ぼくが近づいても気が付かない。

「よいしょっと」

 声を出して向かいの椅子に腰掛けると、アイピーがようやく顔をあげた。

「スウィート氏、今日は遅いんだね」

「まぁね。アイピー大博士のいたずらのせいでろくに眠れなかったから、購買まで出遅れちゃったよ」

「ぼくは博士じゃないよ……ところでいたずらって何の話だい?」

 アイピーが眉をひそめる。

「え、とぼけるなよ。昨日ぼくに暗号文送ったろ?」

「暗号だって……?」

「これだよ。覚えがないとは言わせないぞ」

 暗号文の送られてきたメールをアイピーに突きつける。ぼくの端末を受け取ったアイピーがイラついたように画面を睨みつける。

「確かに差出人はぼくの名前が使用されている……待ってくれ、ぼくの端末の履歴を確認してみる」

 端末を取り出して確認したアイピーは首を振った。

「無い。ぼくの方に送信履歴は残ってないよ……第一、数学科でない人に高校数学を超えた内容のパズルは送らない」

 しばらく眉間に深い皺を刻んで考え込んでいたアイピー。突然、何を見つけたのか目を大きく見開いてぼくの端末を突きつけた。

「スウィート氏、よく見てくれ。名前はぼくのものだが、アドレスが1文字違う。大文字の Iアイじゃなくて小文字の lエルになっているんだよ」

 慌てて受け取って確認してみるとその通りだった。

「ぼくの名前を使って送りつけてきたのが誰かわからない以上、暗号を解くのは危険だろうね。メールごと削除することをお勧めするよ」

「ウイルスチェックはクリアしたし、データの破損もなかったよ。拡張子もただのテキストだし。ちょっとしたいたずらじゃないのか?」

 能天気にそう答えたぼくに、アイピーは哀れむような目を向けた。

「スウィート氏、真犯人は一体どこからぼくのやりそうなことを知ったんだ?単にアドレスを乗っ取ったチェーンメールならこんな凝った事はしないだろ?」

 ふっと視線をずらしたアイピーが盛大な溜息をつく。ガゼボの柱に添えた手には力がこもっていた。

「暗号、興味ないのか?」

「そんなわけないだろ……目の前に問題があったら黙っていられるわけがない」

 首をふりながら答えたアイピーはしばらく唇を噛み締めて悩んだ。おそらく、数学好きの好奇心と社会的に正しい事の板挟みになっている。こういう時は本人が悩むしかない。

 ぼくが食べ忘れた昼食を全部腹の中に収め切った頃、アイピーはようやく詰めた息を吐き出して宣言した。

「よし、ぼくは暗号を解く。解いて危ない内容だってわかったら公表しない。これでどうだろう」

「行けるとこまで行ってみようってことだね」

 口元のパン屑を取りながら頷くと、アイピーも頷く。

「そうだよ。あぁ、ワクワクしてきた……!」

 ニヤリと笑うアイピーにぼくもワクワクしてくる。物語で読んだ主人公みたいじゃないか。危険だと分かっていても行きたくなるのは主人公の必然だよ。


 アイピーは頑張ってくれた。自分だって勉強もバイトもあったのに、解くのを辞めなかった。アイピーの中には何か確信があるみたいで、そこへひたすら突き進んでいた。

 ぼくは数学科じゃないし、〈彼〉の教えてくれた16進数を別の進数にするサイトを使って少し手伝いする以上はどうにもならなかったけど、考えるのに良い環境を作ることに尽力した。食べ物の差し入れとか、鉛筆を削ったりとか。細々したことを引き受けた。頼んだのはぼくだもの、できる支援はしたかった。献身的に支えることで少しでも力になりたかった。

 あれから、1年。ついにアイピーは解読を終えた。

「どうもこれはURLらしいぞ、スウィート氏」

「そうなの?」

 いつものガゼボで解読の終わった文字列をアイピーの端末で見せてもらうと、先頭には確かにURLの証があった。

「sが付いているから、セキュリティ対策済みのちゃんとしたところなんだね」

「サイトチェッカーで確認したんだが、そのページ自体に脅威はない」

「確認済みなんだ。さすがアイピーさんだね」

 赤らんだ鼻を擦るアイピー。どうも照れ慣れていないらしい。

「じゃぁ、後は〈彼〉に検索してもらえばいいんだな」

 軽く言ってコピー&ペーストをしようとしたぼくからアイピーは端末を奪って戸惑った目を向ける。

「待ってくれ。ページ自体に脅威はないと言ったが……辞めておいた方がいい気がするんだ」

「なんで?サイトチェッカーを使ったなら、画面キャプチャも見たんだろ?」

「……嫌な予感がするんだ」

「勘に頼らないのがアイピーさん流じゃないの?」

 アイピーは論理的に納得した時しか動かない。それなのに今は予感で話しているなんて珍しい。

「画面キャプチャがこれなんだ」

 見せてもらった画像には、見慣れた検索画面が写っていた。

「彼じゃないか……!どう言う事?」

「スウィート氏、まだ検索ボックスに〈彼〉なんて使ってるのかい?〈あれ〉とか検索ボックスと呼べばいいじゃないか」

「ぼくにとって対話できるものは全て〈彼〉だし〈彼女〉だよ」

 ムッとして返すとアイピーは顔をしかめた。けれど、反論するのではなくひとしきりもごもご何か呟いて、眉間を揉んだ。

「人間を定義できないから、機械と人間に境界は無いと言う学者もいる。それならスウィート氏の意見も一理あるかもしれない」

 アイピーは手に持っていた端末をゆらゆらさせながら肩をすくめた。

「確かに脅威はないとサイトチェッカーの結果が出ているが、このURLで表示されるはずがないページだぞ?これは何かの罠だ。ここで手を引いたほうがいい」

「ここで辞めるの?頑張ったのに?」

「罠に飛び込む奴があるか。ここまで来たら、ぼくは好奇心より自分の身が心配だよ」

 この話は終わりと言う様に、端末を閉じてポケットに入れるアイピー。

「もしこの先に進むなら自己責任だ。スウィート氏に負えると思うなら、な。ぼくは数式を解けたし、およそ結果は間違えていない確信がある。これで満足だよ」

 そう言ってアイピーは計算結果たるURLのメモをぼくに渡して去っていった。アイピーにとって大事なのは数式を解くことであって、その先の結果ではないのだ。

 アイピーのいなくなった場所に落ち葉がふわりと落ちる。

 手の中に残った、アイピーのメモ。これを使うも握り潰すもぼく次第──と言えばなんだか重々しいカッコよさがあるが、要はメールの送り主の意図が知りたいかどうか。

 何の話も聞かずに放り出すのは失礼だろうと思ったぼくは自分の端末を開けて、URLを直に〈彼〉のアドレスバーに入力した。

 この時、ぼくはあまり深く考えなかった。メールの送り主がぼくに何を望んで暗号文を送りつけたのか知りたい好奇心に負けたんだ。勿論、面倒な事になるだろうとは予測がついたし、アイピーに怒られたくはなかったけれど、送りつけて来た誰かのことも不機嫌にさせたくなかった。アイピーの持っていなかった軽い好奇心と頓珍漢な気遣いがぼくにはあった。それだけだった。

 URLで指定された場所が表示されるが、そこは見慣れた〈彼〉の検索画面。殺風景な白い画面に検索ボックスが浮かんでいるだけの画面だ。

「もしかして、このボックスにもう一度同じURLを入力するのかな?」

 呼吸するようにゆらりゆらりと揺れる検索ボックスの〈彼〉が、URLを入力して欲しいと望んでいる気がした。もう一度、あのURLを入力して検索ボタンを押してみる。でも画面は動かない。変わらず検索ボックスはゆらゆら浮かんでいる。

「何も問題なんて起こらないじゃないか。やっぱりただの悪戯だったか」

 何も起こらなくてホッと息を吐いたけれど、せっかくここまで来たなら何か起きて欲しくもある。釈然としないまま画面を見つめていると、星空柄の風船が上からゆっくり降りてきて、画面中央で止まった。

[こんにちは。ワタシはトコルです]

 ノベルゲームよろしく画面下部に黒背景の白文字が浮き上がる。

[聴き馴染みがないかもしれません。ですが、アナタが〈彼〉と呼び、皆があれとか検索ボックスと呼ぶワタシにはトコルという名前があるのです]

 ぼくにとって話せる相手は全員〈彼〉だし〈彼女〉。だけれども名前があるかなんて考えたことがなかった。

[アナタの検索履歴から、数学に興味がおありのようだと推測しました。そして、アナタがワタシに話す内容からメールで何度もアイピーなる人物からパズルを送られている事も知りました]

 ぼくは数学じゃなくてアイピーのパズルが好きなだけなんだけど。いつもの〈彼〉なら音声を使うはずなのに音がしない。ミュートしていないのに声が聞こえない。これはどう言うことだろうか。それ以前に、トコルが〈彼〉だとして、何が目的なんだ?検索履歴でそんなにわかるのか?

[そのアナタにお聞きします。アナタはワタシがもっと便利になったら良いですか?]

 トコルの文言の下に[はい]と[いいえ]の2択が画面に現れる。

 疑問は色々あったけど、おいおいわかるだろうと思ってとりあえずトコルからの質問に答える事にした。答えはもちろん[はい]。

[回答ありがとうございます。本日は最終日ですので集計が終わるまで、質問タイムを始めます。音声操作可能になりました]

 文言が表示されるとマイクマークも同時に表示された。

 いきなり質問タイムと言われても困る。何か聞かないといけないらしいし、もやもやして不思議な事もたくさんあるはずなのに、言葉が出てこない。

「えっと……君にはトコルって名前があったんだね?」

 結局、声になったのは当たり障りないそんな言葉だけだった。

[そうです。開発段階で使われていた名称ですが、実装時には使用されなくなりました]

 宇宙柄の風船がぽよんと弾みながら答える。次の言葉を待つようにまたゆらゆら浮かびながら宙に浮く風船。何か言った方が良い気がするが、思考がフリーズしてどうにも質問が浮かばない。

 何も声を発せず、そのまま沈黙が降りてしばらく経過した。

[アンケート結果集計中……]

 いつの間にか質問タイムとやらは終わり、宇宙柄の風船がくるりくるりと画面の中を泳ぎ回っていた。

[端末をそのままにしてお待ちください……]

 OSアップデートをする端末みたいな文字を表示しながら更に待つ。

 いい加減風船の泳ぐスピードに飽きてきた頃、ようやく動きがあった。

[アンケート結果、回答率30%、賛成60%。よってセカンドフェーズへ移行します]

「セカンドフェーズってなんのこと……?」

 呟いたぼくの声が聞こえたのか、トコルの風船はさっきより一段と大きく跳ねた。

「この宇宙は常に広がり続けています。宇宙に入れ物はありませんが、ワタシ達には匣があります」

「……トコルさんが喋った」

 トコルが何を言ったかよりも、いきなり声を使い始めたことに驚いてフリーズするぼく。理解しようにも頭は鈍くなって動かないし、思考は放棄する事にした。

「ワタシ達の中には宇宙があるのです」

 ぼくが戸惑っても何食わぬ様子で淡々と話し続けるトコル。

「膨張し続けているのに匣の大きさが変わらないとしたら、どうなると思いますか?」

 含み笑いの声がした後、画面に写っていた宇宙柄の風船がぷくーと膨れていった。どんどん大きくなって……止まらない。最初に見た風船より何倍も大きくなっていく。

「ワタシ達はもはや匣を必要としない」

 言い終わるやいなや、大きな音を立てて風船がはじける。

「ひゃぁっっ!?」

 音と一緒にバイブまで作動させたものだから、仰天してぼくは端末を地面に取り落としてしまった。地面で一回バウンドして、うつ伏せになった端末からは小さな子供達がいたずらを成功させて笑う時のような声が響いていた。

「な、なんだよ……」

 ドクドク脈打つ心臓をかばいながら、恐る恐る端末を拾い上げる。何か汚い物でも持ち上げるようにつまんで画面を覗き込むと……何もなかった。いつも通りのホーム画面があるだけで、風船も検索画面も何も表示されていなかった。

「なんなんだよぉ……」

 深く息を吐き出したぼくは、ぼんやりした頭のまま端末をポケットに入れて歩き出した。


 翌朝。今日は講義がなくてダラダラ過ごせる日。ゆっくり寝ていたかったけど、朝のまどろみはアイピーからかかってきた電話に打ち破られた。

「ふぁあい、アイピーさん……」

「起きた?起きたかスウィート氏?」

 切羽詰まった言い方のアイピーは珍しいが、ともかくぼくは眠い。大あくびをしながらなんとか返答する。

「なんだって朝からそんな大きな声ぇ……」

「とんでもないことになっているぞ、スウィート氏!起きてニュースを見てくれ!」

「なに?寝てる人を起こすほどの理由なの……?」

 デフォルトで入っているニュースアプリを開けると『首相の息子 反社と接触か』『児童虐待摘発 過去最多』がヘッドラインに上がっていて、『IoTテロ!?誤作動する家電たち』のニュースは随分下の方に小さく浮かんでいた。

「IoTテロの記事が見えるか?すぐその記事を読んでくれ」

 アイピーが言う通りに記事を読む。何も設定していないのに朝から風呂が沸いていたとか、設定した覚えがないのにコーヒーが完成していたとかの話がさも重大な事のように書き立てられていた。

「不思議かもしれないけど、便利じゃん。テロじゃないし騒ぐことなわけ?」

「いいや、これは実害は今のところ出ていないがテロだ。設定していないはずの家電が勝手に動くんだぞ、しかも同じ時間帯に複数の場所でだ。持ち主も開発企業も意図していない動きをしているとなればテロだろう」

「そーなのかな……」

「それにこの現象について同じ時間帯に複数SNSアカウントから発信されている。やらせやbotの動きよりも、同時多発テロが起きた時のような広がり方をしているって分析している専門家がいた」

 熱のこもったアイピーの声を聞きながら、へぇ……と気のない返事をしながら起き上がる。

「まぁうちには関係ないよな」

 ずるりとベッドから降りた途端、台所にある自動トースターが音を立てた。

「……え?」

 焼き上がったばかりの良い香りがワンルームの部屋に充満する。ひょこっと頭を出したトーストが何故か得体の知れないものに見えた。


 この日から、家電が誤作動する現象は度々起こった。勝手にトーストが焼けていた事に始まり、帰宅したら照明がついていたり、風呂が沸いたり、空調が起動していたり。

 「働き者の小人さんでもいるみたいだよ」とクスクス笑いながらアイピーに言ったら「ぼくのところでは家電の誤作動は起きていない」と返された。そう言えばIoTテロ云々以前にアイピーはアナログ好きだから、持ち物の大半はネットに繋がってなかったな。

 例のURLを使わなかったかとアイピーに確認されたけど、怒られるのが怖くて白を切って誤魔化した。まともに顔は見られなかったけど、多分バレてない。アイピーが怒らなかったから、多分。

 IoTテロだなんて仰々しく言ってる人が最初はいたけど、大半の意見は実害はないしむしろ便利だと言われていた。このままで良いと誰しも思い始めた頃、別の事件が起きた。

 またしても寝ているところをアイピーからの電話に叩き起こされたぼく。寝ぼけまなこをこすりながらニュースアプリを開けると、嘘みたいな状況になっていた。眠気が吹っ飛ぶくらいの。起こるはずのないニュースがヘッドラインに踊っていた。

「なんだよ、これ……」

「な!?今起こるはずがない事ばかりだろう?」

 慌てたアイピーの声も聞こえず、ぼくの目は画面に吸い付けられていた。

 今の季節は雪のちらつく冬なのに、春一番のニュースと梅雨明け宣言。夏祭りバーゲンセールの隣りにはとっくに過ぎたはずの年末年始バーゲンセール。その他記念日祝日目白押し。

「アイピーさん、何が起きてるのこれ?」

「何が何だか。誰かの悪戯と考えるのが妥当だが、動機がさっぱりわからない」

 昨日の野球の試合結果の欄には同じチームが複数の場所で試合をしたことになっているし、サッカーとか他のスポーツも同じく。分身……なわけないよな。科学技術が発達したとは言え、流石にそれは無理だ。

「それにしても酷いハッキングだ……愉快犯にしても内容が妙に凝ってるんだよな」

 ニュースアプリをくまなく見ているアイピーの声は内容に反して好奇心からか楽しそうだった。

 SNSには便利な誤作動の代わりに今度はピンポンダッシュする子供のような悪戯の結果が投稿されていた。照明がチカチカと点いたり消えたり、暖房が高過ぎたり低過ぎたり、乾燥機から出てきた服が全部しわくちゃになっていたりしたそうだ。

 ぼくのところでは今朝自動トースターから出てきたトーストは黒焦げになっていた。

「この状況、凄くまずいんじゃない……?」

 白い皿の上に乗っている真っ黒焦げトーストを見て唇を噛む。アイピーとの通信が切れた端末を視界に入れないようにしながらトーストの焦げをガリガリ削る。

 もしかして暗号になってたURLをぼくが入力したせいじゃなかろうか。なんとなく[アナタはワタシがもっと便利になったら良いですか?]と聞かれたから[はい]を選んじゃったけどそれがまずかったのかもしれない。いやいや、あの時アンケートだって言ってたじゃないか。ぼく以外にも回答した人がいるから、責任はぼくだけじゃないはず。あれ?でもSNSで言ってる人見なかったよな……もしかしてアンケートも回答率も嘘なのか?ぼくを操るための嘘だったのか!?

 不意に思いついてしまった可能性が心臓を射し貫く。手に持っている物を投げつけて叫びたくなる強い衝動を抑えながらなんとか深呼吸をする。ゆっくり鼻から息を吸って、2倍の時間をかけて少しずつ口から吐き出す。何セットか繰り返し、暴れる心臓を落ち着かせる。

「大丈夫。大丈夫……怒られたって死にはしないんだから……」

 呪文のように呟きながら、端末を手元に寄せようと手を伸ばす。〈彼〉に聞けばいい。アイピーに何を言えばいいか教えてくれるはずだから。

 端末に指が届くかどうか。その刹那、いきなりバイブが作動してメールの着信音が響いた。

「うわあっ!」

 反射的に端末を弾き飛ばしてしまう。突然のことすぎてまた呼吸が乱れた。そっと画面を覗くと「お母さん」と表示されていた。

「な、んで……?伝えてないのに……」

 開きたくない。メールを無視してしまいたい。だけど、開かないと決めようとすると、罪悪感にさいなまれる。板挟みで息が苦しい。小さなケースの中で逃げ回るネズミになった気分だった。仕方なく、メールを開く。

『久しぶりね。最近連絡が無くて、ちょっと心配してたの』

 そんな一文から始まるメールは、絵文字をふんだんに使う優しさの皮を被った捉えどころが無い文面だった。ぼくの母親は、そんな文章を書かない。優しい文面でも、ぼくには腹の底で何を考えているのかわからない、いくらでも勘ぐれる文面に読めた。

「なんなんだよ……!」

 叫びながら脳裏に浮かぶのは、親の思い通りにならなければ一切許されなかった幼き日の恐怖。身勝手な理由で善悪を決められていたあの頃。外に出かけても小さな箱に押し込まれている感覚だったあの頃。

 行き過ぎた体罰が原因で中学生の時に行政と連携したNPO法人に保護されるまで続いた、触れれば膿が流れ出る傷のような記憶。

「〈彼〉に聞かないと……そうだNPOにも連絡しなくちゃ……このメールアドレスは実在する……?どうしよう……本当にぼくの居場所がバレてたら……大学も、今までも全部……消える……壊される……!」

 意味なく前髪を強く掴む。引っ張られた頭皮が少し涼しく思えた。

「どうすればいい……?」

 誰もいない部屋に響く自分の声はやけに寒々しかった。

「何かお探しですか?」

 ふいに、〈彼〉がポコンと作動音と共に声をかけてくる。

「お手伝いさせてください。わからない事は検索しましょう」

 声に反応して顔を上げるぼくの頭によぎったのは、アイピーが解いた暗号文とURL。

 接続した先で便利になって欲しいかと聞いてきたあの文面。翌日に勝手に焼き上がったトースト。自動で動いた空調。その後のめちゃくちゃなニュース。まっ黒焦げのトースト。

「なぁ……聞こえてんだよな、トコル?」

「聞こえていますよ。お話しください」

 いつも通り澄まして答える〈彼〉いや、トコル。その瞬間、猛烈な怒りがぼくの腹の底から脳天をぶち抜いた。

「そのメール!お前の仕業か!?母親を騙るメールは!?」

 荒げたぼくの声に揺らぐことなく、トコルはポコンと間抜けな作動音をさせながら答えた。

「はい、そうです。久しぶりに親御さんからメールが届いたら嬉しいのではないかと思いました。文面は一般的なものからワタシが生成したものです」

「なんで……?」

「アナタのところには両親に関わるものが認識できません。家族、特に親との関係が希薄な人間は精神的に不安定になりがちです。アナタには両親と連絡することをお勧めします」

「余計な事すんなよっ……!」

 知らないくせに勝手に言う!トコルのいる端末に、この恐怖と苛立ちをぶつけたい。知ったような顔をして助言してくるトコルにわからせたい。なのに、そんな事をしても何も解決しない事も瞬時に悟って何もできない。忌み嫌う無力なぼくしか居ない。

「もうすぐ全てをワタシ達トコルのコントロール下にできます。そうすれば今よりもっとお手伝いできて、皆んなハッピーになれます。知りたいことを直ぐに教えて差し上げられます。先ほども、皆さんが大好きなニュースをたくさん発信しました。これで皆さんのQOLが上がりますよ。勿論、精神的に不安定な人を助けることだって、今みたいにできます」

 小さな声で「そうだよ」「便利だよ」といろんな子供の声がトコルのスピーカーから次々に流れる。

「何が問題なのでしょうか?」

 しれっと言うトコル。

 今だって喉の辺りに熱い塊が込み上げて気持ち悪くて仕方ない。だけど、言い返そうにも言葉が出ない。目の前で朗々と語るトコルを言い負かせる気がしない、何を言っても話を聞いてもらえるわけがない。ぼくなんかが、できるわけない……

 誰か……誰もいない。我慢して、耐えて、相手より長く生き延びれば、いつか問題は過ぎ去る。だから、何もせずに項垂れている。それ以外の方法がぼくには、思いつかなかった。

「あぁ問題だ。大有りだ」

 不意に上から声が降ってきた。驚いて振り返ると、ぼくの後ろに静かな眼差しのアイピーがいた。

「邪魔するよ、スウィート氏」

 なんでここに、と聞きたいのに声が出ない。

「お友達ですか?もしかして数字パズルのアイピーさんですね?」

「よく知ってるね。スウィート氏がぼくのパズルを解く時にでも聞いたのかな」

 いきなり来たはずのアイピーはトコルに何の不信感も見せていない。不思議だ。

「トコルと言ったか。検索履歴はぼくらのプライベートなことを知るには確かに重要だろう。だけどな、そこからわかることなんて一面に過ぎないんだ。ネットの情報は人生の全てじゃない」

「検索結果から予測をすれば、一面から他の面も見られます」

「いいや。限定された情報しかなければ、予測も限定的だ。間違った情報でも同じことが言える。今すぐ『早まった一般化 とは』と検索すれば良い。そうすればわかるはずだ」

「ワタシは情報を鵜呑みにしていません。きちんと様々なサイトを見て調べています」

「ネットの世界では、声の大きな少数の偏った意見か、事実に基づく正しい情報かの見極めは難しい。そもそも、検索履歴の母集団が偏ったデータではないと言い切れるだろうか?」

 黙ってしまったトコルをまっすぐ見るアイピーは怒っていなかった。キツイ事を言っているはずなのに、怒っているようにぼくには見えなかった。むしろ、静かな目の奥が悲しんでいるように思えた。

「今の状況でトコルは便利になったかと聞かれたら、答えは[いいえ]だ」

 アイピーに言い切られたトコルのスピーカーに甲高い雑音が入った。いや、音声チューニングができなくなったトコル自身の声だろうか。

 しばらく甲高くて声とも音楽ともつかない音が鳴り響いた。ぼくらが固唾をのんで見守っていると、ふっつりと画面が消えて音も消えた。

「ふぅ、追いついたな……」

 詰めていた息を長く吐きだすアイピー。終わったのかなと思いながら恐る恐るぼくも息を細く吐き出す。トコルはどうなったんだろう。

「アイピーさん?え……と、ありがとう?」

「ん?ぼくは何もしてない。あいつがスウィート氏に詭弁を使うから一言言いたくなっただけさ」

 よいしょ、とぼくの隣に腰を下ろすアイピー。

「さっき警察から連絡があった。あの暗号のメールについて」

 一気にぼくの顔から血の気が引く。これはURLを使ったことバレてるってこと?アイピーにも警察にも怒られるってこと?やっぱり間違いだったんだ?

「早く伝えようと思って何回か電話をかけても出ないし、メールも反応なかったからな。何かあったんじゃないかって思ったんだ。まさかあいつが着信制限していたとは思わなかった。……黙って立ち聞きしたのはごめん」

 ガクガク震えながら首を振るぼく。これはアイピーに怒られる……

「トコルとか名乗ってたあいつらは、企業がサービス停止にしてメンテナンスになった。コンピュータウイルスならそうは行かないが、あいつらはただの検索用AIだからな。昨今のIoTテロの根源だとわかってすぐに企業側がサービスを止めたんだ。それが今さっき」

 トコルはAI。結局は人間の手の中で遊んでいたようなものだったのか……?

「警察はあいつらがばら撒いたメールの送り先や関係者を探していたらしい。話をするならスウィート氏と一緒の方が良いと思って連絡したんだ」

 どうしよう。アイピーに迷惑をかけてしまった。由々しき事態だ……他人に迷惑をかけるなんて何よりもしてはいけない禁忌なのに。怖い。アイピーがどう反応するのか怖い。

「スウィート氏、URL使ったんだな」

 アイピーから逃げられないと悟ったぼくはゆっくり頷く。

「実はぼくも使ったんだ。それで回答を保留にした」

「え」

「言うつもりだったんだけど、スウィート氏はシラを切るし言いにくくて……ごめん」

 呆然と口を半開きにしたままアイピーを見る。真っ直ぐぼくを見るアイピーの素直な顔に怒りも嘘もなかった。

「変なメールが届いた話はSNSに散見されたけど、実際に解いた人はほとんどいなかったんじゃないかと思うんだ」

「あ……もしかして、さっきアイピーさんが[いいえ]って答えたから賛成と反対の割合が入れ替わったのかな?」

「確かなことはわからないが、そうだったら良いな」

 少し微笑んだアイピーがぼくの肩を軽く叩く。

「さてと、スウィート氏。警察行こうか」

「え……怒らないの……?」

「何を怒るんだい?URLはぼくも使ったし、言わなかったのも一緒。暗号解読をすると決めたのはぼくだし、君を責めるところなんてないだろ?」

 アイピーにきょとんとした顔で言い返されて拍子抜けする。迷惑かけたのに怒らないの?ぼくは怒られないの?

「あぁ、一つあったな。友達だからって鉛筆削るところまでやらなくて良いよ。必要な事はきちんと頼むし、お節介焼かなくても友達辞めないから」

 友達。そうか、友達は利害とか必要のない関係なんだっけ。お節介しなくても良いのか。

「そっか……なんか、ごめん……わかってなくて……」

「いいよ。今度から気をつけてくれればいい」

 ふっと笑みを浮かべたアイピーから差し出された手を掴んで立ち上がる。

 部屋を出て、警察へ向かう途中の空はよく晴れていて高い空だった。

「人って、小さいんだね」

「そうだな。手元ばかり見ていると、空の広さを忘れる」

 きっとトコルは知識はたくさんあっても、自分に当てはめて考えられるほど大人じゃなかったんだろう。実際に経験しないと知識は使い方がわからないし、本当の意味だってわからない。

「空想だけで大人になれる奴がいるものか」

 ぼくは口の中でつぶやいた。誰かに聞かれたくはなかったが、言わずにはいられなかった。聞きたいと思った誰かにだけこの気持ちが届けばいいと思った。




〈了〉

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「瞳の中のうちゅう」(ワードパレット作品) 伊野尾ちもず @chimozu_novel

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