第29話
ドアノブに掛けられた札はopen側が向けられている。何度か遊びに来ているが初めて見た。
ゲンさんは驚いてはいたものの、喜んで迎え入れてくれた。やはりお母さんのことが気になっているようで改めて謝罪をされる。私も迷惑をかけたことを謝ると首を横に振りながらも受け入れてくれた。そんな謝り倒す私たちを見て北条君が昔の赤い鳥の玩具みたいだと笑った。露子さんは噴き出してお腹を抱えて笑っている。
「風花ちゃんが帰った後白川さんと草介から話は聞いたよ。露子はすっかり記憶を思い出したのかい?」
「ええ、まあね…」
「そうか」
露子さんが望んでいた記憶を取り戻す願いは叶ったが、二人とも嬉しそうではない。
「それで。今後はどうするつもりなんだい」
「私は露子さんの願いを叶えてあげたいから私自身も記憶を取り戻したいって思っています」
「と言ってもそう簡単じゃないだろう。思い出せるものならとっくに思い出しているだろうし」
ゲンさんはこれまでにないほど真剣な目つきで私を見据えた。
「幼少期を覚えてないのは珍しいことじゃないけど、風花ちゃんの場合はごっそり抜け落ちているように思うんだよね。恐らく幼い風花ちゃんが支えきれない出来事を忘れることで防衛した結果なんじゃないか?そうなると無理矢理思い出すのは得策だと思えない。それに精神的な問題としたら何が起こるかわからなしし危険だよ。」
身を案じてのことだとは理解しているが、露子さんだけが思い出して私が思い出さないのはフェアではない気がした。いや、自分だけが知らないでいることが納得できないのである。
「そうね。何回も言うけど本当にもう充分よ。風花、私が言ったことは忘れて頂戴」
「そんな簡単に言わないで。私だって露子さんのこと思い出したいよ」
「ごめんなさい風花。私も考えなしだったのよ。なんせ私はこの通り幽霊だし、何もできないって思っていたからつい勢い余って無茶なことを頼んでしまったのよ。でもね、今は考えが変わったの」
いつも浮遊して見下ろしている露子さんは私の目線に合わせた。まるで四歳児の私を見ているように頭に手をのせて撫でる。手のぬくもりはないのに光を纏った手は優しくて少し泣きそうになる。
突如カランと音がする。四十代、もしくは五十代位の身なりの整ったの女性が入店した。細面で黒髪を後ろでまとめ上げている。
「いらっしゃいませ。ああ佐藤さん」
「古館さん!やっぱり私あれ買うわ」
佐藤さんと呼ばれた女性は頬を紅潮させ意気軒高といわんばかりに目をギラギラさせている。しっかりメイクされたおでこからファンデーションが汗と共に流れている。ハンドバックから大振りの花柄があしらったハンカチを取り出して優しく汗を拭きとった。
「よくお似合いだったので戻ってきてくださって嬉しいです」
ゲンさんの顔は客相手に見せる作られた笑顔に変わる。少しだけ背筋をぐっと伸ばしたように見えた。ゲンさんはカウンター奥に引っ込んだ。
「草介君。久しぶりねえ。元気にしてる?」
「はい」
「お友達と一緒なのに騒がしくてごめんなさいねえ」
「とんでもないです。お買い物ですか?」
「ええ!ランチに来た時にブローチを見せてもらったの!一目ぼれだったんだけど値段が値段だから迷っちゃってねえ。でも居てもたっても居られなくなって仕事上がりにすぐに来ちゃったわ」
露子さんの特等席である私の隣に佐藤さんは座った。押しだされた形で露子さんは宙に舞い上がる。
佐藤さん待ちきれないとでも言わんばかりにそわそわしていた。ゲンさんが暖簾をくぐってニスが塗られているであろう艶やかな赤茶色の箱を持って来た。箱の角に金具があるだけで装飾は多くない。女性の隣に箱を置く恭しく蓋を開けると小さな箱が並べられていた。ゲンさんは上の受け皿を箱から取り出し、下の受け皿も隣に並べる。それぞれの受け皿には様々な大きさの箱が並べられており、宝石入れというより箱入れにしか見えない。
「こちらですね」
箱と共に持って来た白い手袋を嵌めて女性が求めているブローチの箱を丁寧に持ち、蓋を開けてから女性に渡した。まるでプロポーズをする男性のようである。その姿が様になっており、あらゆる女性がその仕草にクラクラするのではないかと思った。私もそのうちの一人だと言わんばかりに少し、あくまでも少しだけ鼓動が早くなる。
白い石が円を描くように並べられただけのシンプルな金色のブローチである。台座の金も少しくすんで見える。確かに綺麗なブローチではあるが、このブローチの何がこの女性の心をくすぐるのか理解が出来なかった。
「何がいいのかしら」
露子さんはそう言うが同意しかない。ダイヤモンドとかルビーとかサファイヤのような光る宝石の方がずっと価値があるように思える。
特に煌びやかでもないし、正直少し地味な印象である。手にしたブローチよりキラキラした佐藤さん瞳の方が印象的だった。
「本当に素敵」
とろけだしそうなほどうっとりとした目であらゆる角度でブローチを眺める。暫くブローチと見つめあった後満足そうに蓋を閉めた。鞄から銀行の名前が書かれた封筒を取り出して万札を取り出す。女性はぺろりと親指を舐めて手慣れたようにペラペラと捲って数える。ドラマで見る万札よりはずっと少ないが逆に生々しく見えた。それをゲンさんに渡すと確認のためか数え直している。
「十三万円、丁度お預かりしました。領収書をお持ちします」
ゲンさんはお金を持って暖簾をくぐってカウンターに入り、カーブした先の壁に沿って置かれたレジにお金をしまい引き出しから領収書を出した。さらさらとボールペンで何かしら書いており、切手のようなものを糊付けして貼る。
「お待たせしました」
領収書を渡すと無造作に鞄に押し込んだ。
「袋をお持ちしますね」
そういってまたカウンターの奥へ行く。
佐藤さんはじっと風花を見つめた。
「あなたどこかで会ったことあるかしら?」
「私ですか?」
「失礼だけど名前をきいてもいいかしら」
「細井、風花です…」
「ああ風花ちゃん?駅南の団地に住んでた風花ちゃんね?道理で見たことがあるはずよね!まあまあ随分お姉さんになって…」
ぱっと表情を明るくしたかと思うと独りしみじみと感慨深そうに言った。
「私四階に住んでた佐藤よ。お母さんとは親しかったけど風花ちゃんは小さかったから覚えてないわよねえ。あの事故があってから風花ちゃんのおうちはすぐに引越しされたし仕方ないわねえ」
「事故…?事故のこと知ってるんですか?」
そう訊ねる前に佐藤さんは早口で言葉を繋いだ。
「痛ましい事故だったもの…あの時事故にあった女の子、今の風花ちゃんくらいだったかしら。見通しが悪くなるくらい強い雨の日でトラックに引かれてしまって…救急車はすぐにきたけど残念だった…今でもあの光景は忘れないわ。亡くなった女の子は本当に勇敢な子だったのよ。道に飛び出したあなたを脇目も振らず駆け寄ったの。もっと早く大人が気付けば、私も含めてね、あの子は助かったかと思うと悔やまれてならないわ」
急に無音になった。女性は変らず何かを話している。頭がどんどんぼんやりしていく。ゲンさんが紙袋を女性に渡して玄関先まで見送っている。あれ?なにを渡しているんだけ?
次第に視界もふやけて、もう何が見えているのかもわからなくなった。
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