第27話
空はすでに白んでいて早すぎる朝という程ではなかったが、スマホのアラームが鳴る一時間以上早く目が覚める。二度寝しようともう一度布団をかぶるが妙に目が冴えてしまって夢に戻ることは出来なかった。
一晩ぐっすり眠り体の疲れはすっきりなくなっていた。それでも心のつかえが消えたわけではない。解決しない悩みは頭をもたげた。
「おはよう」
パジャマのまま一階に降りる。お弁当の準備をしているの後ろを通り冷蔵庫を開けてお茶を取り出す。
「おはよう。早いのね。眠れなかったの?」
「ちゃんと寝たよ」
「それならいいけど」
四角いフライパンの上で黄色の卵液を焼きつけ、菜箸でクルクルと器用に巻いていく。私も玉子焼きは作れるが、フライ返しを使わないとうまくいかない。ずっと作っていると出来るようになるのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら眺めている。
「なあに。そんなに見て」
クスクス笑いながら手を止めずに言う。昨日の怒りはすでに消えていた。一晩寝たら気持ちを切り替える姿勢は尊敬すら覚える。
「もし露子さんのことを思い出して、私が傷ついて打ちのめされて立ち直れなくなったら、お母さんは私を責める?」
「そんなわけないじゃない」
即座の否定は目頭を熱くした。
「それでもお母さんは露子ちゃんに関わるのは反対よ。傷つくのが解ってるんだから」
「お母さんは露子さんに逢ったことある?」
何も答えなかった。ボールに入った卵液を菜箸でちゃっちゃと音を立てて混ぜてはフライパンに流し、菜箸で巻いていく。それだけを繰り返した。
「この話はおしまい。せっかく早起きしたのに遅刻したら元も子もないわよ。はやく顔を洗って着替えていらっしゃい」
時刻は六時十分。話す時間も十分ある。もっと話を掘り下げたいが、話す気がないのにしつこく迫っても意味がない。ここはおとなしく引き下がるしかなかった。
通学時間まで家でだらだらするのも落ち着かないのでいつもより三本早い電車に乗る。思ったよりは人の数は多かったが座席を確保することは出来た。網棚に避難する露子も今日は私の傍に浮遊していた。朝練の生徒はすでに学校についているだろう時間は駅から学校までの道もそれほど生徒数は多くない。梅雨の晴れ間、もやもやした心がほんの少し軽くなる気がする。
教室もまばらな人が特に会話をすることもなくそれぞれの座席で思うように過ごしていた。「おはよう」と声をかければ同じように「おはよう」と返ってくる。特に仲の良い子はおらず、それ以上続く言葉はない。人として当たり前だと思っていたが、それは私が恵まれているからだと知った。いい人に囲まれてきたからこそ得られる普通なのだと。挨拶をにこやかに返してくれるクラスメート感謝すら覚える。露子さんにはそういう友達がいなかったんだと思うと心が苦しくなった。
鞄を置いてすぐに教室を出る。廊下は誰もいなくて、速足で数多の教室の前を過ぎると、時折教室から笑い声が聞こえてくる。
「どこに行くの?」
露子さんは素朴な疑問を投げかけた。
「図書室、昨日のこともう一回謝りに行こうかなって」
「ああ、シラカワさん」
「引きずられるようにして帰ったから、ちゃんと謝っておかなくちゃ」
「真面目ね」
ムッとして露子さんを睨みつける。
「なによ」
「なんでもない!」
体裁を守りたいこともあって、礼儀は欠かさないようにと決めている。そのルールを破ると後悔が渦になって底へと叩きつけられる思いをする。そんな私を周りは「真面目」「律儀」と言った。言った方は誉め言葉のつもりなのかもしれないが、同時に「つまらない人間」とレッテルを貼られているようであまり好きではない。
「あれ?細井さん?」
図書室に着く直前に白川さんと曲がり角で会った。
「お、おはようございます」驚きで鼓動と同じように言葉も跳ねる。
「おはよう。早いのね」
「早く目が覚めちゃって」
「そう。昨日は遠出で大変だったでしょう。眠れた?」
「熟睡しました」
白川さんの言葉はいつも柔らかく優しく心に触れてくる気がする。他愛ない普通の言葉なのに胸のあたりが温かくなる。
「これから職員室?」
図書室に用があるとは思わなかったのか、それとも近くに職員室があるからか、白川さんがやってきた方向の職員室に向かって首を動かし示す。
「図書室に。というか白川さんに用事が」
「あらそうだったの、じゃあ一緒に行きましょう」
白川さんが図書室の鍵をあけ扉を開くとカーテンが引かれた室内は真っ暗で、通いなれた図書室は知らない場所に見える。白川さんは薄暗い図書室を自分の家のように迷わず歩を進める。パチパチと電源を付けると、見慣れた図書室に変貌した。
「お茶いれるわね。中に入って」
一度しか入っていない部屋へと誘われるがままに入っていく。奥のパイプ椅子は一つだけ置いてあった。
「はい、どうぞ」
「いただきます」
「疲れは残ってない?」
「はい。元気です。昨日はありがとうございました」
「それはいいのよ。私が無理を言ってついて行ったくらいなんだし。帰ってから大丈夫だった?怒られたりしてない?」
「納得はしてないみたいですけど、怒ってはいないと思います。今朝も普通に話しましたし。こちらこそ昨日はすみませんでした。お礼も碌に言えず帰っちゃって。母も失礼を…」
「それで図書室に来てくれたの?わざわざありがとう」
お礼を言われるとは思っていなかったので肩をすくめて恐縮する。
「失礼だなんてとんでもないわ。お母さまの仰ることは間違ってないのよ。無断で生徒を連れまわしたのは事実だし、昨日のことで咎められても可笑しくないわ」
心配してついてきてくれたのに、責任を追及される何て変だと思う。事を大きくしたら学校を辞めさせられていたのかなと悪い想像をするとぞっとした。
「辞めさせられるとか、そういうのはないですよね?」
「大丈夫!ないない。学校から咎められても始末書くらいで済むわよ」
体を後ろにのけぞって笑ってみせる。本当かな?心配させないために嘘をついているのかもしれない。根拠はひとつもないけど悪い想像は一度浮かび上がると簡単には消えてくれない。
「本当よ。もし辞めろと突きつけられても、なにがなんでもしがみついてやるつもりよ。それは不当解雇だーって。簡単に諦めたりしないわよ。図書室を守っていくのが今の私には全てだもの」
「白川さんって正義感強いですよね」
年若い白川さんの熱意は眩しい。どちらかというと大きな出来事、特にハプニングからは極力避けて日々の平穏を守りたい私とは温度差がある。
「正義感か、そういうとなんだか格好いいわね。ヒーローみたい」
薄紅色のチークとは違う本来の肌の赤さが浮く。にこにこと笑う白川は同性から見ても可愛い。
「同じ轍を踏みたくないだけで、そんな素敵なものじゃないのよ」
「同じ轍?」
「私も謝らないと駄目ね。あなたたちが心配で着いていったのも本当だけど目的があったのよ」
「そうなんですか?」
「ええ…私も渡邊さんに逢いに行きたかったの。どうしてあの町を離れることになったのかずっと知りたかったから」
言われてみると、今はS県に店を構えているということは老舗のお店を移転したことになる。特に疑問には思わなかったが白川さんはそうではなかったようだ。
「解決したんですか?」
「ええ。杞憂に終わったわ」
「思い切って聞いちゃっていいですか?ずっと気になってたんですが、どうしてそこまで私たちを、その助けてくれるんですか?初めは私たちの方がただ尋ねにきただけだったのに」
「実はね、細井さんと北条君がここで私の世代が着ていた制服を描いているのを見た時、心臓が止まるかと思うほど驚いた。そこから雨宮先輩の名前が出てきた時は本当に動揺したわ。渡邊さんも言ってたけど私が通っていたころの学校は本当に酷くてね。学校にとって都合の悪いことは全て黙認や隠ぺいが普通だったの。息苦しい中うまくやっていくのは、ただ見ないふりをすること。殆どの生徒がそうしてきた。見かねた生徒もいて教師に報告したり相談したりしていたけど改善はしなかった。最初のうちは軽く小突くみたいに注意するのよ。そんなのなんの効果もなかった。次第に教師に言っても意味がないと悟ると、もう面倒くさくなって放置するしかなくなるの」
自分ではない誰かのことのように話すが、先生に報告していたのは白川さん本人だと思った。
「こんな生活が三年もあるのかと思うとうんざりだった。早く終わらないかなってそればかり考えていたわ。その酷く残酷な考えが現実になってまた後悔するの。雨宮先輩の死は学校中に広まった。いじめていた生徒のせいで自殺したんじゃないかと噂が流れた。それまでいじめることで優勢を保っていた生徒は怖くなったのか、同時期に流れていた噂に尾ひれをつけて、自分たちに注がれる痛い視線を避けたの。それが渡邊先輩のこと」
「渡邊さん?」
「雨宮先輩の死因は渡邊先輩との恋愛沙汰からくる自殺、根も葉もない噂だと思ってた。ずっとスルーしてたけど、次第に話が大きくなって、いつの間にか先輩が責められる立場になってた。きっと誰かが二人が会ってるのを見ていた人がいたのね。渡邊先輩は特に否定することもなく、いつの間にか学校からいなくなっていたわ。その後は、誰も話題に出さなかった。まるで二人は存在しなかったかのように扱われた。今でも思い出すと本当に気が滅入るわ。私だって何もできなかったし、目を瞑るしかなかったことが今でも後悔してるの。ここで学校司書をしてるのは、そういった守られなかった生徒を少しでも減らすためよ。勿論全ての生徒に目が届いているわけじゃないし、相談に乗ってるつもりが神経を逆なでさせてしまうことも少なくないけどね。それでもあの時のように学校で伸び伸びと過ごせない生徒が、心地よく過ごせるようにこの図書室を快適なものにしたいのよ。えっと…長々と喋ったけど、ここを辞められない理由でした。ご清聴ありがとうございました」
恥ずかしさを誤魔化そうと冗談めいてお辞儀をする。耳まで赤くなっていた。白川さんは後悔からくる贖罪のように言うが、私にはまるで神から与えられた神聖なる使命を全うするかのようにここにいるのだと思えた。この学校にも様々な教師がいる。白川さんや渡辺さんの頃の学校程酷くはないが、事なかれ主義で済ます教師はやはり人気がない。かといってわざとらしいまでに熱血すぎる教師も同じだ。多感な年頃の生徒はそういった匂いをかぎ分けている。白川さんは後者に当たりそうだが、本気で向き合ってくれる姿は私を始め生徒の心を打っている。教師の立場ではなく、保健室のように病人としての扱いでもない図書室は居心地の良さがあった。
「それじゃあ白川さんが確認したかったのは、渡邊さんが引っ越した理由ですか?」
「そう。ずっと頭の端で引っかかってた疑問が漸く晴れたわ。細井さんや北条君のおかげでね。引っ越したのは元々予定されてたそうよ。私は行ったことないけど凄く古い建物で、ガタがきていたことと、観光地の方で店を構えないかって話がきていたそうなの。それで今の場所に引越しされたんですって。転校する前に最初で最後のプレゼントになるかもしれないから、思い切って和傘を贈りたかったって言ってたわ」
憑き物が落ちたように白川さんはすっきりとした顔をしていた。
予鈴が鳴り響く。白川さんは「話混んじゃったね」と笑って教室に行くように促した。紙コップに残っていた冷めた緑茶を一気に飲み干して「ごちそうさまでした」と図書室を後にする。薫りも旨味もとくにない安いお茶はここでは極上の一品だった。
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