第9話

 ゲンは黙ることを知らない子供だった。

 よく喋ると両親を始め、親戚も、友達も、その親御さんも、幼稚園の先生も、近所の人も口を揃えて言った。幼少期のゲンはそこに誰かがいれば話しかけ、誰も居なくても独り言を呟いていた。


 よく喋る子供は賢いと褒められることも多かった。逆に口を噤んでいるところを見たことがないと冗談めいて、時に迷惑そうに言われることもあった。母親は悪いことをしているわけではないのに、恥ずかしそうに頭をさげることが少なくなかった。


「ゲンは本当に口を紡がない子だね」


 母親はつきたての餅のような柔らかい頬っぺたを両手で軽くつまんで揺らしながら苦笑いをする。


「全然喋らないよりは安心はするけど、四六時中喋って口が疲れないのかい」


 父親は小ぶりの頭を大きな手で包み込み、ぐるんぐるんと回すように撫でる。良し悪しはわからなかったが、構ってくれることが嬉しくてゲンは口を大きく開けてきゃははと笑った。

 両親は少し変わった子供だとしか考えていなかった。


「ちょっと病気なんじゃない?」


 公園子供たちを遊ばせている間、ママやパパは単純にお喋りをしたり、情報交換をしたり各々休日の公園で社交界のように楽しんでいた。その中で出会ったママ友達との会話の中で言われ母親は面食らった。ものをはっきり言う人だとママ友の中でも有名で、多少敬遠されがちなその人は、歯に衣着せずにぶつけてきた。他のママ友は「またか」と少々呆れているが、誰も彼女の言葉を止めようとはしなかった。


「病気、ですか?」

「やっぱり変よ。いくらお喋り好きな子供だからって、誰もいないところで喋っているなんて、うちの子ではありえないもの。病気に違いないわ。」


 自分の子供と比べられても。なんの根拠もなく病気と言い張るので頭にきたが言い返すことはできなかった。


 彼女は早いうちに病院に連れて行くといいわと吐き捨てて、甘ったるい声で自分の子供の名前を呼ぶ。子供の手を引いて公園を後にした。


「気にしなくていいわよ。うちの子もぬいぐるみと話をしたりするわよ。それの延長線みたいなものじゃない?」

「そうよね。イマジナリーフレンドって言葉もあるのよ。想像上の友達とお喋りなんて可愛いわ」


 ゲンにも縫いぐるみを買い与えていたのは確かだが、縫いぐるみに話しかけている姿はそう多くはなかった。やっぱり変なのかしら。病気という言葉が頭にこびりついた。


 両親は話し合って一度病院に相談しに行くことにした。かかりつけの小児科で普段の様子を話し相談に乗ってもらった。母親の膝の上に座ったゲンは、足をばたつかせながら目の前にいるクマのように大きな体の先生に喋りかけてた。そんな先生を見て泣き出す子供もいるというが、ゲンは怯むことを知らない。


「お昼に食べたうどんが美味しかったよ」


 今日もゲンは会うや否や先生にとってはどうでも良い話を一方的に話し始めた。先生は嫌がることもなくうんうんと頷き話をきいていた。「そのうどんに何が乗っていた?」とか「どんな味がした?」とか質問をすると、ゲンは顔を輝かせて「おあげさんが乗ってた!甘くて美味しかったよ!」と答える。母親が「すみません…」と恐縮して「先生とお話したいからお口チャックね」と言うと一際大きな声で「うん!」と返事をし、力いっぱい口を閉じた。その仕草に先生も母親も思わず笑ってしまう。


「個性の範囲だと思うけどねぇ。ちゃんと大人の言うことにも耳を傾けるし会話もできるしね。もし心配なら少し遠いけど、小児の精神科に行ってみる?」


 精神科という言葉にどきりとした。本格的に問題があるかのように感じられた。その様子を察したかのようにクマ先生は声に出して豪快に笑った。


「心配いりませんよ。精神科といってもお母さんが想像しているもんじゃないですから。今は心のクリニックと言った方がよかったかな。心理テストとかもしてくれる病院だから、この際色々調べてもらってきたらいいよ」


 なにかしら精神異常なんて診断されてしまったらと過大な妄想を見抜かれたかのようで顔が赤くなる。しかし心のクリニックと言い換えられても不安は消えたわけではなかった。


 後日車を走らせ、書いてもらった紹介状を持って病院に行った。受付で紹介状を渡して問診票に記入をする。ゲンは思いついた言葉を隣に座る母親に投げかけた。問診票を指さしては「これ何?」と問い、受付の一角にあるプレイスペースに行っては「何々くんのおうちに同じ玩具があるんだよ」とけらけら笑っている。「病院だから静かにね」と言うと小さな両手を口に持っていき頷きながらふふふと笑う。

後から来た年上の女の子に一緒に遊ぼうと誘う。顔を赤くして母親の後ろに隠れてしまった女の子に、ゲンは「恥ずかしがり屋さんなんだね」と言うと一層顔を赤らめてしまった。慌てて謝罪をすると、その子の母親は笑って「そうなのよ。誘ってくれたのにごめんなさいね」とゲンの頭をなでた。


 暫く待っていると女性の看護師が「古館ゲンくん」と呼びにきた。「はい!」と返事をするゲンに「元気いっぱいね」と褒められ、ゲンは一層ご機嫌になった。

若い男性の医師の診察を受け、カウンセリングや心理テストなどあらゆる検査を行われた。初めこそハラハラしていた母親の心配はあっという間になくなったのは、普段と変わらずゲンのお喋りが続いていることである。過度なお喋りが心配で来たのにお喋りに安心するなんて可笑しいと母親は内心すでに安心しきっていた。


「確かによく喋る子供さんではありますね。ですが今のところ発達障害だと言い切ることも出来ません。会話はしっかりできていますし、テストの結果も一般のお子さんとそう変わりはありません。ただ語彙力の高さは驚かされました。いいところを伸ばすように親御さんは本の読み聞かせなどを積極的にしてあげるといいかもしれません」


 他の子供と変わらないという言葉を聞いて漸く胸をなでおろした。


「人がいない時でも話す行動も珍しくはないでしょう。想像上の友達と話す子供もいます。ゲンくんもその可能性は十分ありますよ」


 変わった子供と言われても気にしないで。それは個性だと先生は言った。同じことをママ友からも慰めに言われたが、医師から伝られるとその言葉に真実味が増して母親は涙がにじんだ。


 どこかで変な子と思われていることが辛かったのだと自覚した。うちの子はどんな子でも世界一可愛いことには違いないのに。それでも奇異の目に晒されていると感じていることは多少なりともストレスを感じており知らぬ間に蓄積していた。

 病院を出て母親はゲンの小さな手をぎゅっと握った。


「本屋さんに行こうか。今日一日頑張ったご褒美に好きな絵本買ってあげる」


 ゲンは目をキラキラと輝かせ「やったー」と全身で喜び叫んだ。

 それ以降もゲンは変らずお喋りが止まらなかった。母親も病院での出来事を聞いた父親も、それ以来過度な心配をしなくなった。


 変ったことと言えば絵本を与えると声に出して自分で読む機会が増えた。幼児用から小学校低学年の子供が読むような本を欲しがった。試しに与えてみると大層喜んだ。そしてもうひとつ変わったことと言えば。


「もしかしたらうちの子本当に天才なのかもしれないな」


 父親は親馬鹿振りを見せるようになったくらいである。

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