第8話

 午前で終わると清々しい気持ちに浸れるので土曜日の授業は嫌いではない。あともう少し、もう少しと踏ん張れば休みだと思うとワクワクする。それも今日は違っていた。和傘を手放せるか、そればかりが気になっている。

今日も学校が終わるとすぐに電車に乗り込んだ。電車の外を眺めていた。朝方はまだ明るい空だったが、今は厚い雲に覆われている。今にも降り出しそうな重苦しい濃い灰色の空は私の心が表れているようだ。今日こそは返せるだろうか。手元の傘をぎゅっと握り締めた。


 この駅に来るようになって初めてバスにスムーズに乗れた。坂道をぐんぐんと進んでいく。必死に歩いて登っていた時とは違い高い視線でみる景色はまた違って見える。目的地の具体的な駅名を知らないので知っている道を走っている間に降るつもりだ。見慣れた道から外れないように外を見澄ました。

 念のために少し早めにバスを降り喫茶店に向かった。途中でぽつぽつと雨が降り出した。まだ濡れる程でもない雨だったが、次第に強くなりそうなので傘をさそうと立ち止まる。半日分とはいえボストンバッグには教科書やノートが詰まっている。ボストンバッグを肩にかけなおし和傘を脇で挟む。洋傘をまとめるバンドを外してボタンを押すと、ボンと薄紫の花が開いた。


 雨水が傘を跳ねる。雨音の間隔が次第に狭まっていく。


 この辺りに住んでいるだろう子供たちや親御さんとすれ違う。急に降り出した雨から逃れようときゃーきゃー騒ぎながら走っていく。すれ違いざまには和傘を指差し「あれなに?」と純粋な疑問を母親に投げかける子供もいた。あくまでも和傘を指さしているのは解ってはいるものの、どこか自分が笑われているように思えた。嫌な想像ばかりが頭を占めてくる。連絡が途絶えている現実に、もしかしたら私は避けられているのかもしれないと思い始めた。気道がせばまっている感覚がして喉が苦しい。目頭も熱くなっていた。人の視線を避けるように、頭が隠れるように傘の中に沈め込んだ。


 喫茶アンティコは昨日と同じくひっそりと暗がりに紛れ込んでいた。一昨日の彼らと笑いあった日が夢のように遠く感じる。ロールカーテンが降ろされたままの出窓で目元が赤くなっていないか確認した。

 ひとつ大きく深呼吸をしてインターホンを押した。雨音だけが響いている。やはり誰も出ないのか。


(今日は置いて帰ろう。)


 和傘一つに感情が振り回されているのが嫌になる。北条君に和傘を玄関に置いて帰ることをメールするためにスマホを取り出した。玄関に向かってメールを打ち込んでいると、スマホの画面に赤い光がポトンとおちる。顔をあげると扉のステンドグラスが光を浴びていた。


 人影が近づいてきた。扉の向こうでゲホゲホと咳き込む声が聞こえる。かこんと鍵が開いてすぐにあの日聞いたカウベルの音が心地よく胸に響いた。


「細井さん?」


 優しい声にため込んでいた苛立ちがすっと消えていった。代わりに目は涙の膜で北条くんの姿が少し滲む。流れないように一度目を閉じた。


「お店閉まってるのに来ちゃってごめん」

「ううん。いいよ。とりあえず中に入って」


 中に入ると、コーヒー豆を挽いているわけでもないのに、店内はコーヒーの匂いに包まれている。北条君は鍵を閉めてよろよろとカウンターに入った。私は自分の傘を玄関の傍に置いてある傘立てに突き刺し、出来る限り濡れないように必死に抱きかかえてきた和傘はカウンター下に立てかけて座った。


「ココア好き?」

「うん」

「じゃあ、座って待ってて。ココアなら作れるから」

「お構いなく」


 言葉遣いはまるで大人の真似事のように返事をする。北条君はまず換気扇をつけた。一昨日よりずっと大きな音をたてて店内を占領する。ミルクパンに水を少量入れて火にかける。その間にマグカップにココアと砂糖を計量スプーンで丁寧に計りいれる。あっという間に沸いた熱湯をマグカップに注ぎ、スプーンで軽く混ぜた。空になったミルクパンに、これまた丁寧に計量カップのメモリを確認しながら牛乳を移す。まだ熱いミルクパンに牛乳がじゅっと音を立てる。牛乳特有の生臭い匂いがした。弱火にかけてから、マグカップに入った濃いココアをスプーンで練っていく。その間特に会話はなく慣れているような、でもどこかぎこちない北条君の手元ばかり見ていた。ミルクパンから湯気が出始めた頃に火を更に弱めて、木べらでゆっくりと底に焦げ付かないように混ぜる。沸騰する直前に火から離してマグカップに注いだ。黒ずんだココアがあっという間に柔らかなミルク色に包まれる。スプーンでしっかり混ぜてスプーンにココアがついていないのを確認してからカウンターに置いた。

 いただきますとマグカップを手に取る。ココアから立ち上る白い湯気に息を吹きかけて少し口にした。程よい甘さに思わず頬が緩む。


「美味しい」

「本当?よかった」


 へらっと笑った。まるで親から褒められた子供のような表情だった。


「家族以外に淹れたことなんてなかったから、ちょっと緊張してたんだ」


 恐らくクラスメートでもこんな顔をするなんて誰も知らないのだろう。もしかした特に仲のいい中山くんなら別かもしれないが。少し優越感を感じていた。


「そういえば、連絡くれたのに返事してなくてごめん。昨日は熱出しちゃって返す余力がなくて」

「ううん!こっちこそ風邪のところ、ごめんね」


 体調を崩していた人に苛立ってしまっていた自分が恥ずかしくなった。どこかで風邪すらも嘘なんじゃないかと疑ってしまったことに罪悪感を覚える。無視をされていたわけではないとわかっただけで、胸にしつこく纏わりついていたもやもやはマグカップから天井に向かう湯気と一緒に消えていく。


「もしかして昨日夕方にも来てくれてた?」

「う、うん…」

「そうだったんだ。呼び鈴は聞こえてたんだけど身体起こすのも億劫になっちゃって。悪いことしたな」

「すぐに帰ったから大丈夫」


 必要以上に気を病ませてしまいそうだったので咄嗟に嘘をついた。


「そう?」

「それより今日はゲンさんいないんだね?昨日と今日がお店の定休日なの?」

「不定休なんだ。しかも店を開けるかどうかはゲンさんの気分と都合で変わるから。この辺り住宅街だろ?ここに通うお客さんは殆ど近所の人ばかりで、気まぐれすぎる喫茶店って呼ばれてることで有名なんだ」


 適当だろ?と付け加えて苦笑いを浮かべた。


「昨日のメールに和傘について書いてあったけど、ゲンさんに用事ってやっぱりそれのこと?」


 言葉に引っかかりを覚えた。「やっぱり」ということはこの傘のこと知っているんだ。和傘に目をやり生唾を飲んだ。


「この傘ね…」


 そう言いかけたところで玄関の鍵が開けられる音がしてカウベルが鳴った。


「どうした草介、ってあれ?風花ちゃん」

「お邪魔してます」


 立ち上がって視線はゲンさんに向けたまま軽く頭を下げた。ゲンさんは微笑んではみせたが少し困った様子でいた。ビニール袋を持たない左手の人差し指で耳の後ろをさすりながら曰くありげに「あー…」と気の抜けた声を出した。


「あのゲンさん!」

「分かってる、うん、ちょっと待ってね」


 荷物を置きに行くと言わんばかりに軽く上にあげて見せ、暖簾をくぐり奥に引っ込んだ。すぐにカウンターに周り、お鍋を洗い始めた北条君を制止した。彼は蛇口をひねってカウンターを出た。さっきゲンさんが通って行った暖簾をくぐって、私の隣、傘を立てていない側に座った。


「さて」


 ゲンさんは腕を組んでばつが悪そうに私をじっと見た。そして私が此処に来たわけを知っているかのように話始めた。


「彼女の声聞こえた?」


 誤魔化す素振りはまるでなかった。率直に訊ねられ驚きと困惑が隠せなかった。


「やっぱり気のせいじゃないんですね…長髪の女の子」

「長髪の女の子?姿も見えたの?」


 

 気の抜けた炭酸のような間抜けな声を漏らす。


「ゲンさんには見えないんですか?」

「俺には声が聞こえるだけ。今も煩い声しか聞こえないよ」

「私には今は聞こえません。姿も…」

「そうなの?」

「これ、どういうことなんですか?彼女はいったい誰なんです?」


 ゲンさんは答えなかった。眉間に皺を寄せ、頭痛を抑えるかのように右手の人差し指でこめかみを抑えながら大きく息を吐いた。


「どういうことなんだ。話と違うじゃないか!」


 突如叫んだ。普通なら急に発狂した人、それも怒鳴りながら独り言ちる姿は仰天するところである。私はそれがあの少女との会話だと解っている。しかし北条君はどうなのだろう。思わず彼に目をやった。こちらの動揺を他所に北条君は慣れているとでも言わんばかりに頬杖をついて落ち着いている。


「君が大丈夫と言ったから黙って引き合わせたんだろう?」

「風花ちゃんとは友達だって言っていたじゃないか」

「まあ確かに数年経っているし、小さかっただろうし。わからないわけじゃないけど」


 ゲンさんは見えない相手と呆れ口上で暫く話かけていた。聞こえない相手と話している姿は奇妙に映る。

 のんびりココアを飲んでいる北条君に目配せしてこの状況にどのように接すればいいのか訴えかけた。彼はこちらに気付くと肩をすくめて苦笑いをするばかりで特に何も言及しなかった。


「風花ちゃん」

「は、はい!」


 ゲンさんは和傘の少女と散々言い合いをし終わったようだ。わざとらしく大きなため息の後にこちらを見据えて私を呼んだ。急に呼ばれたので飲み込んだばかりのココアにむせ、何度か咳と共に裏返った声で返事をする。


「本当にごめん」


 中学生になってから二年目、理由もなくほんの少しだけ大人になったような気がしていた。大人にたてつくときは子供じゃないと言い訳をし、都合の悪いことになると子供を活用する。それを指摘されるとそういうお年頃だからしかたがないとまた言い訳をする。そんな大人にも子供にも慣れない未熟な自分に大の大人が頭を思いっきり下げている光景に恐縮した。なんと言えばいいのか判らず身振り手振りであたふたするしかなかった。


「黙っていてくれと頼まれたからといって、騙すような真似をするなんて、本当に申し訳ない」


 騙す、やっぱりそうなんだと思うと胸がじくりと痛む。しかし痞えていた不安はそれほどない。それは頭を下げるゲンさんを見て、私を傷つけるようなものではなく何かしら理由があって、そういう選択をしたのだと信じられたからだ。


「頭が混乱してしまって…一から説明して貰えますか?」


 ゆっくり頷いてゲンさんは同じくゆっくり語り始めた。

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