第6話 彼と彼女のステイ先

 トーマス・"ガット"・ヘンウッドは、港のロビーで彼女が出てくるのを、今か今かと待ち構えていた。


 黒い髪と磨かれた黒曜石のような瞳の少年は、ソワソワとターミナル出口を見つめている。


 1週間前に「月に資格をとりに行くことになった」と、ラディウから短いメッセージが届いてから、トムはウキウキしながらこの日を待った。


 トムは12歳の時、ラディウと同じ日にラボに来て同じグループに組み込まれた。それから16歳で拠点をツクヨミに移すまで、ずっと一緒に訓練を受け実験に参加してきた。


 今は定期的にアーストルダムとツクヨミを往復しながら、所属するツクヨミ基地の飛行戦隊での任務と、月面での実験や訓練に参加している。


 他のグループにもその年に養い親からラボに戻された同期はいるが、ラディウは唯一同じグループの仲間で、彼にとってはだ。


 重力区画のターミナル出口から、制服姿の人波が現れる。


 落ち着きのないトムを、彼の護衛官アザリ軍曹が肩を叩いて注意を促した。


「人が増えてきたから離れるな。ガールフレンドが来るからって落ち着きなさすぎ」

「そんなんじゃない。彼女は同期だよ!」


 思わずムキになって言い返すが、目線は人波を追っている。


 やがてむっつりとしたオサダと共に、待ちかねた少女の前下がりのショートボブが見えた。


「いたいた、ラディウ! こっち!」


 背伸びをして大きく手を振る。それに気づいた彼女が、満面の笑みで手を振りかえす。


「トムー!」


 ――あぁ、やっと彼女が俺のフィールドに降りてきた。


 トーマスは駆け寄りたい気持ちを抑えながら、その場で彼女を待った。






 4週間の訓練期間中は、訓練センター周辺にある宿舎の利用が一般的だが、ラボが彼女の滞在先に指定したのは、ツクヨミに勤務するラボの研究員夫妻の自宅だった。


 Dr.マーカス・スウェンは、ツクヨミで勤務するトムや、ツクヨミにいるシーカーと呼ばれる、主に航宙士として偵察機などに搭乗し、索敵を専門とするリープカインド達の担当医官。その妻のDr.ナタリア・スウェンは、精神科医としてここのメディカルセンターに勤務する傍ら、同じようにリープカインド達のメンタル面のケアを担当している。


 ウィオラがラディウを預けるのに、これ以上ない適任者の家庭だった。


 夫妻の自宅は、広い庭と白い壁が眩しい洒落た二階建てで、カントリー調の調度が多いのは、ナタリアの趣味のようだ。


「遠いところをよくきたね。ここでの滞在中、君のことをDr.ウィオラから託されている」


 スウェンの差し出した手をラディウは握る。


「はい。訓練期間の1ヶ月、よろしくお願いします」


 滞在中の居室として、ナタリアが彼女を案内した部屋は、花柄のパッチワークで彩られたベッドカバーが愛らしい部屋だった。


 あまりの可愛らしさに一瞬戸惑うが、彼女も年頃の娘だ。ときめかないわけがない。


 ほのかにハーブの香りがし、開け放たれている窓から、乾いているがまだ少し熱気の残る9月の風が入ってきた。


 その奥に大きな公園が見える。


「オサダ軍曹はその向かいの部屋を使って」

「Yes, Ma’am」

「私服は持ってきているでしょう? 2人とも着替えて下にいらっしゃい。まずはお茶にしましょう」


 そう言われ、手早く私服に着替えて階下に降りると、ちょうどトムとアザリが帰ろうとしていた。


「トム、帰るの? もしかして仕事中だったの?」

「まぁね。今日は事務仕事だったから、どうしてもラドを迎えに行きたくて、許可もらって出てきたんだ」


 2人の声を聞いたDr.スウェンが、玄関ホールに出てきた。


「トム、明日は予定通りうちの庭でウェルカムバーベキューをするから、イーガン少佐夫妻と一緒においで。アザリ軍曹も」

「はい! ありがとうございます! 隊長、朝からすっごく楽しみにしてましたよ。小隊の皆で伺うとのことです。じゃあ、失礼します。ラディウまた明日」


 笑顔で手を振るトムに、アーストルダムでの日常と違いすぎて、半ば呆気にとられたラディウが、反射的に手を振って見送った。


 ――え? バーベキュー?? 今バーベキューって言った??




 スウェン家のダイニングテーブルで、Dr.ナタリアがホームメイドのアップルパイを切り分け、Dr.スウェンは自らコーヒーをドリップしていた。


 それはラディウがしばらく忘れていた、家庭的で穏やかな、優しい時間だった。


「民間のエリアもあるけど、アーストルダムと比べたらここはコロニー自体がほぼ軍事基地だし、何より狭いからね。護衛官が一緒で基地の敷地内に限り、できるだけ自由にさせているんだ」


 Dr.スウェインはそう言って、花柄のカップに注いだコーヒーを、ラディウとオサダに勧めた。


「いただきます」


 ラディウはフゥフゥと冷ましながら一口すする。深入りのナッツの風味がした。ミルクが合いそうだと、ピッチャーに手を伸ばす。


「だから君もオサダ軍曹と一緒なら、基地敷地内を自由に行動するのは構わない。とは言っても訓練で忙しいだろうが、少しは気分転換になるだろう?」

「はい……」


 事前の外出許可も必要なく、普通の住宅での生活。アーストルダムでの暮らしと全く違うので、正直なところラディウは喜びよりも、戸惑いの方が強い。


「ここで守って欲しいルールは、ウチの門限とそれぐらいだ。オサダ軍曹は実質24時間勤務状態だが……君が起こさなければ、軍曹に余計な仕事は増えず、その分彼は休める。意味はわかるね?」

「はい……」


 あぁ、どうやら以前、度々繰り返した脱走情報が共有されているようだ。やっぱりラボの管理下だなと思い、ラディウは視線を泳がせた。


「昼間、私が授業中の間はオサダ軍曹はどうするの?」


 ふと気になって、隣に座るオサダを見る。彼はナタリア特製のビスケットを頬張っていたが、彼女の問いかけに答えるため、「ちょっと待て」と片手を上げて制すると、それをコーヒーで流し込む。


「……君を送った後は、アザリの隊に合流することになっている」

「了解……もう、昔みたいに逃げたりしないから大丈夫だよ」


 昔と違って、今はちゃんと自分の立場を理解している。いつまでも灰色の制服のままじゃない。それぐらいの自覚は持てている。


「当然だ」


 そう言って、オサダはチョコチップのビスケットに手を伸ばす。


「ラディウの部屋から公園が見えただろう? 散歩をするのもいいし、ランするならコースもある。夕食は19時からだ。行きたいなら明るいうちに行ってきなさい」


 ナタリアから手渡されたアップルパイの皿を彼らの前に置きながら、スウェンが言う。


 そう言われると、ラディウは早速外に出てみたくなった。


「ねぇ軍曹、もう少し涼しくなったら走りに行こう。一日中シャトルにいたから、身体を動かしたい」

「あぁ、構わない。俺も走りたいと思っていた」


 ラディウは嬉しそうにうなずくと「いただきます」と言ってフォークを手に取り、アップルパイを口にした。


 クラシックスタイルの程よい甘さと、しっとりとした生地が美味しいアップルパイは、記憶のどこかで置き忘れたものを思い起こさせる、懐かしい味がした。

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