05
「うう、今日で仕事に戻るし……暫く皆と会えないなんて寂しい……」
水に囲まれたこの屋敷に差し込む光が、優しく、そして眩く辺りを煌めかせる朝。ナツさんは大きなキャリーバックを小脇に備えながら嘆いていた。
玄関でしょぼんと頭を下げている様は、病院を嫌がっている子犬のようにも見えた。正直に言えば気持ちは分かる。学生の私でも、休み明けの学校は嫌だなあって気持ちでいっぱいになるし。彼女は大人だから仕事になるので、比べるのも少しあさましいかもしれないが。それに、彼女はまた家族と離れて仕事をこなすわけで。そりゃあ嫌だよなあ、というのが正直な感想だ。
しょんぼりしているナツさんの頭をアオさんが撫でて「いつでも帰ってきていいんだよ」と甘やかしている。こういう所がある、本当に。
アオさんの言葉を聞いて、雫玖くんが肘でアオさんの小脇を突いた。甘やかすな、とでも言いたいのだろうか。まあ、彼も大して差はないと思うんだけどね。
私の両親と対面して、暫くが経った。
両親が帰った後でも、私は緊張によるドキドキが止まらなかったんだけど、両親から気さくなメッセージが届くようになったり、いつでも帰っておいでという優しいメッセージを見て、動悸は治まっていった。今までの様な恐怖感は、もうどこかに行ってしまったようだ。
この一家には本当に頭が上がらない。彼等と出会わなければ、きっと私はずっと俯いて、自分に自信が持てないで、人を心から信じる事も出来ないで、色々な温かい感情も持てないで、思いを誰かに伝える事も出来ない、弱い自分で居続けたんだろう。
きっときっかけは些細だった。だけど、その些細な事で人は変わるのだ。
それを教えてくれたのは、ここに居るナツさんアオさん含め、このりと今ここには居ないけどちはる、そして雫玖くんのおかげなのだ。
「ナツさん、本当にお世話になりました。ナツさんさえ良かったらまた会いたいです」
「良い子……うん、綺麗な写真撮ったりしたら送ったりするからね。悩んだりしたらいつでも連絡して良いからね。雫玖が酷い事したら一番に言ってね」
「母さん……!」
私の手を握りながら熱弁するナツさんを見て、雫玖くんが低い声で唸った。そんな親子の掛け合いを見て、ふふ、と小さく笑みがこぼれた。
「うう、名残惜しいけど先に行くね。2人も、学校生活無茶しちゃだめだよ」
「はい。いってらっしゃい。それと、ほどほどに頑張ります」
「ナツも無茶したら駄目だからね」
「行ってらっしゃい」
腕時計を確認してから、彼女は私達に手を振って、私達は別れの挨拶を交わす。今生の別れでもないし、いつでも会えるのだし、気楽でいいのに、なんて。少し苦笑いが零れてしまった。
彼女が手を振って引き戸に手を添えると、リィンと鈴の音が屋敷の中に響いた。そして彼女が戸を引いて扉をくぐる。すると、扉はゆっくりとしまっていった。
「……そう言えば今更なんですけど」
「うん」
振っていた手を下げながらポツリと呟けば、アオさんが応える。
「この家に入る仕組みって結局何なんですか?」
「分からないまま夏休み過ごしたのか」
逆に凄いな、と言わんばかりの表情で私を見てくる。ごめんなさいね、外にあまり出なかったもので。
「まず第一に、俺の許可書……まあ鈴なんだけど、それを持っていること」
彼はそういうと雫玖くんの方へ目を向けて、少し首を動かす。彼も頷いて、ポケットから見覚えのある鈴を取り出した。ここに泊まりに行くことを決定して、実際にこの家まで移動した時に見た物だ。
「それと、向こうの世界に何でもいいから水があること」
「水?」
「うん。海だとか、水たまりでも良いし、雨でもいい。海だったら鈴を持って飛び込んでも良いんだけど、水たまりや雨がある外に出る扉をくぐるのが一番手っ取り早いかもね」
「あ~……」
思い出せばそのような状況ばかりだった気がする。納得がいった。
声を零している私を見て、アオさんはくすりと笑みを浮かべて、袂から何かを取り出した。その瞬間、りぃん、と澄んだ鈴の音が聞こえる。
「渡しそびれていたね。曙美ちゃんにもあげよう」
「え!? そんな、悪いですよ!」
「良いんだ。君はもう、俺達の家族みたいなものだから。受け取ってくれると嬉しいな」
私の手を取って、手の平に綺麗な鈴を乗せる。
りぃん、と音を奏でながら現れた、鈴。
音を色で表現するとなれば、まさしくこれは、透明というものがふさわしいと思う。鈴そのものは銀色だけれど、音は透明。まるで目の前の彼や屋敷を表しているようで、とても心地よかった。
「……ありがとうございます」
「うん。じゃあ、朝ご飯を食べようか」
パン、と手を叩いてアオさんは流れを仕切り直す。ナツさんは一足早い出発だったので、朝食は一人だけ先に済ませていた。
アオさんの言葉が聞こえたのか、ひょこりとこのりが顔を覗かせた。
「漸く食えるのか」
「お待たせしたね」
彼の待っている居間に全員で移動して、それぞれがこの一か月で決まった位置に腰かける。
テーブルの上には、この家に来て初めて食べた朝食と同じメニューが並んでいた。白くて艶々で一粒一粒が立っている美味しそうなご飯、だしの香りが優しく漂ってくる豆腐の味噌汁、それと数品のおかず。
ご飯も味噌汁も、玉子焼きも、ほかほかと白い湯気が見える。
ぐう、とお腹が鳴った。デジャヴ、小さく呟いた私を見て、全員が笑い声を零した。
*
「それじゃあ行ってきます」
「荷物は、また改めて取りに来ますね」
「置きっぱなしでも我が家は構わないけど」
「いえ! 流石に申し訳ないので!」
学校に行く準備が整った私達は、揃って玄関でアオさんに見送られている。ここで過ごす期間が長かったから、私服が入っているキャリーや荷物もまだ置きっぱなしだ。それは近いうちに、次の休みの日にでも回収に来る予定である。
私の訴えにアオさんが笑う。そんな彼の横でこのりもつられて笑っているが、どこか寂しそうな顔をしている。
「このり?」
「え? ああ、悪い。俺はお前について行けなからな、ここで待ってるさ」
「そう、なの?」
今までずっと、傍で見守ってくれていたこのり。姿は消せるみたいだから、またついてくるかと思ったんだけど。
今度は私が少し寂しい表情をしていると、私のそんな表情を見れてどこか満足したらしい。このりは口角を上げて、私の頭をわしゃわしゃと撫でまわした。
「ちょ、ちょっと! 髪崩れる……!」
「大丈夫だって、例え傍に居られなくても、お前の味方で居続けるのは変わらないんだからな」
一通り撫で終えると、彼はゆっくりと手を離して、最後に優しい表情で口を開く。
「おめでとう、曙美」
「え? あ、ありがとう?」
何がおめでとうなのかよく分からないが、取りあえずお礼は言っておく。
「そろそろ時間だな。学校頑張って来いよ」
「うん、ありがとう」
「テストは今日あるんだっけ? 2人なら大丈夫だよ」
「父さんありがとう」
うう、そうだ。今日はテストが待ち構えているんだった。
思わず渋い顔になっていると、ここに居る全員が笑いだした。表情が顔に出過ぎていたらしい。
「大丈夫。曙美さん自信持って」
「う、うん!」
「ああその通りだ。あ、あと一つ忠告していいか?」
「なに?」
「家を出たら傘を構えとけ。雨が酷いぞ」
「そんなに?」
この屋敷ではよく分からないけれど、アオさんも頷いているし、その通りなんだろう。
雫玖くんと二人で其々傘を持って、見送ってくれる二人に手を振る。
「それじゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
挨拶は至ってシンプルだ。雫玖くんが鈴を鳴らして、向こうと空間をつなげて(どうやら寮の出入り口に繋がっているようだ)、扉に手を掛けた所で、手を振って、頭も下げた。
最後まで二人は見送ってくれて、私と雫玖くんは同時に扉をくぐって扉を閉めた、瞬間――……
ドザア!! とバケツをひっくり返したような雨が私たちを襲った。
「嘘!?」
「曙美さん、傘! 傘!」
「もう半分手遅れな様な気もするけど、そうだね!」
慌てて二人で傘をさせば、何とか雨の直撃から逃れる事が出来た。傘には、相変わらず強い雨が打ち付けられているけれど。
土砂降りな中、濡れてしまったお互いを見て、私達は思わず同時に吹きだして笑ってしまった。
*
「や~久しぶり! という程でもないか? 毎晩通話してたもんな」
「ちはる久しぶ、り? まあおはよう。通話だとよく分からなかったけど焼けた?」
「そうなの! 遊びに出かけてたら日に焼けた! 油断した!」
「御伽さん久しぶり」
「雫玖くんおひさ~。ていうか二人共濡れてんね、大丈夫?」
「一応タオルと変えの靴下は持ってきたから」
夏休み明けの教室は、級友との久しぶりの再会もあって騒がしい物となっていた。
人によってはハグをしていたり、いつもと変わらないような挨拶をしている人もいれば、休みの課題を写させてほしいと慈悲している人もいた。
そんな個性が溢れている教室でも、嫌でもわかる違和感。というよりは、此方に向けられている視線。好奇や嫌悪も混ざった様な、何とも居心地の悪い空気を向けられていた。
ちはるもそれは察していたようで、わざと気にしないように、私たち二人に向かって明るく楽しい話題をかけてくれる。それがどれだけありがたいことか。
「希龍くん久しぶり~」
そんな中、雫玖くんに挨拶をして声を掛けてきた女子が居た。講習時に声を掛けて、出掛け先で私に声を掛けてきたあの子達だ。
数人の女子を連れて、にこにこと笑みを浮かべている。ちはるが後ろで小さく舌打ちをしているのを、私は聞き逃さなかった。正直に言えば、気付きたくなかった。
「夏休み何してた?」
「曙美さんと一緒に居たよ」
女子の問いかけに、にこり、と綺麗な、それでいてどこか圧を感じるような笑みを浮かべて、雫玖くんは答えた。
その表情と声色に少しぞくっとしたけれど、彼の返答内容に彼女達も含め、私も驚いてしまった。いや間違えてないけど! その通りではあるけれど! 言い方というものがあると思うっていうか! ちはるは冷やかしの口笛を吹かないでほしい!
言葉が詰まったらしい彼女達は、矛先を変える事にしたらしい。私の方へ目を向けた。
相変わらず、弱者を見下ろすような目つきだ。そして、じとりとした執着のような物も感じる。心地が悪い、と正直に思った。
「狐坂さんも久しぶり。大変だったんじゃない?」
彼女の問いかけに、後ろに居た数名がクスクスと笑い声を零し始めた。そんな様子を見て、雫玖くんとちはるが怒って口を開こうとしてくれたけれど、私はそれを抑えてもらう。
そんな私の様子を見て、二人は驚いたようだ。
目の前の彼女達の大変だった、という内容は、絶対に両親達の事を言っている。そして、成績が悪く、勉強だってできていなかっただろうから、これからのテストだって大変だろうと、嫌味を言いたいのだろう。
だけれど、今の私は、今までとはもう違うのだ。そう、思いたいのだ。
正直、まだ手は少し震えている。だけど、そんな震えを見せない様に、もう弱者なんかじゃないと胸を張れるように。
ぎゅ、とこぶしを握って。その場から逃げ出さないように、足に力を込めて地面を踏みしめて。小さく深呼吸をして心を落ち着かせる。
肩にかけっぱなしだった鞄を、自身の席に置くと、思った以上にその音が大きく響いた。その音と私の動作に、相手方は驚いたようだ。
「この際なので言っておきたいんですけど」
ただでさえ、彼女達にはよく思われていないのだ。関係を修復することは出来やしない。関わらないでほしい。だったら、己の意見を主張してしまえ。
「家族や勉強でのごたごた。私は全て解決し和解したので」
女子達が、ひそりと声を零し始める。ずっと己より弱い存在だったこの女が、自分達に言い返せるのかと、そう思っているに違いない。
「これ以上私達に何かするというのなら、あの時の動画を学校や警察に提出する。いじめなどではなく、脅迫や暴力という罪として。もし、腹いせとして二人にも何かするつもりなら、私が相手になる」
ざわ、と女子だけでなく私達を遠目で見守っていた人たちの間でもざわついた。きっと、クラスでいつも影者扱いされていた私の変貌具合に驚いているのだろう。
そして思い出したのだろう。あの時の動画とは、このりが撮った、彼女達が完璧に加害者として映っていること。私の言う二人とは、成績優秀であり先生からの信頼も厚い、敵に回してはいけないような二人だったことを。
女子達は何も言い返すことはせず、其々が己の席に向かって駆け足気味に向かって行った。
そんな背中を見送って、ふう、と小さく息を吐く。それと同時に、ばしん! と背中に軽い痛みが走った。
「曙美! 凄いじゃない! かっこよかった!」
「え、えへへ。つい啖呵切っちゃった。後で怖い目に合わないと良いんだけど……」
「安心してくれ。そんな事は俺が許さないし、させない。それに、君はもう一人じゃないんだ」
彼はそういうと、とある方向に目を向けた。そこにはクラスメイトの女子数名が居て、興味津々とばかりに此方に近寄ってきた。
「狐坂さん、すごかったね!」
「ていうか、希龍くんと付き合ってるって聞いたんだけれど、本当?」
こそっ、と聞いてきた相手の問いかけに、思わず雫玖くんと顔を合わせてしまった。
彼と付き合っているのは、彼の家にお泊りする為の言い訳……のようなもので。所詮は、嘘の話だ。それを急に出されると、少し動揺してしまう。
これは、まだ付き合っているふり、で居た方が良いのか。それとも、彼はもうそんなことを止めたいのか。その判断が、私一人ではできない。
何て返そうと少しだけ悩んで、口を開こうとした瞬間、ホームルーム開始のチャイムが鳴り響いた。
皆は少し残念そうにしながら、バイバイとこちらに手を振ってそれぞれの席に向かっていく。そして、雫玖くんも戻る……のだが、彼はこそり、と小さく耳打ちしてきた。
「もう少しだけ、フリをしようか」
「え?」
彼は小さく笑みを浮かべて、私に向かって手を振って、窓際の彼の席に向かって言った。
彼の言葉に少し驚きながらも、席に腰かける。私の前の席に座っているちはるはニヤニヤと笑みを浮かべているのだが。思わず彼女の鼻つまんでしまった。
「おーし、ホームルーム始めるぞ~」
教室に担任の先生が入って来て、皆が先生の方へ体を向ける。
先生はそれを確認して、出席確認としてクラスの名簿を見ながら名を上げていく。私も呼ばれて返事をし、それが全員分確認されると、先生は頷いてから、教壇に手を置く。
「それじゃあ、この後、確認テストが始まるからな。全員心しておくように」
先生がちらり、と私の方を見たのが分かった。結局来なかったな、と言わんばかりだったのは察せた。けれど、大丈夫。大丈夫のはず。
ぎゅ、と拳を握って、思わず窓際の方へ目を向けた。
すると、雫玖くんとばっちりと視線が合った。彼は目が合うと優しい笑みを浮かべて、ひそひそ話をするように口元に手を添えて、「大丈夫」と口パクで伝えてくれた。それだけで、緊張して固まっていた身体がほぐれていくようだった。
そう、私は大丈夫。
拳を握り直して、テストに向けて気を高めた。
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