05
雫玖くんと一緒に本屋に行って、ナツさんの旅の記録でもある写真集を一緒に探してみたところ、すんなりと見つかった。
それほどあの人はこの界隈では有名なんだろうか。
脳裏によぎるのはアオさんと並んで家事をしていたり、勉強を見てくれているときの優しい表情、そして母親としての子供を見守るような温かいまなざし。
聞いた話によれば、彼女もあまり広い世界を知らなかったらしいし、色々な世界に行きたいと思ったのだろうし。そして、その世界の全てが美しく見えて、魅力的な写真が撮れ、こうした記事にもできるのだろう。
「こういうところ、行ってみたいなあ」
ぽつり、とつぶやいてみれば、雫玖くんが私の言葉を拾ったらしい。小さく笑みを浮かべて、写真集に指を添える。
「どこがいい?」
深い意味はなかったかもしれない。夏休み前にちはるが私に声をかけたような、軽いノリだったのかもしれない。
それでも、その言葉が嬉しかった。
私はどこにでも行ける自由があるのだと言われたような気がして、それがひどく嬉しかったのだ。
「色々なところ」
へへ、と笑みをこぼしてみれば「それはいい考えだ」と優しく笑みをこぼした。
「それじゃあ、買ってくるね」
「それなら、俺が一緒に買っておくよ」
「え!?」
雫玖くんがこちらに手を指し伸ばしてくる。何も疑問を持っていなさそうな表情に、私は激しく首を横に振った。
「そんな悪いよ!」
「俺も買いたい本があるし……それにほら」
彼がさした場所に目を向ければ、そこには会計を待つ長蛇の列。その列を見て、思わず口元に手を添えて、うわあと間抜けな声をこぼした。
そんな私の様子を見て、彼は小さく笑い声をこぼしたかとおもうと、するりと……それこそ何も違和感も感じないほど鮮やかに、私の手元から写真集を回収してしまった。
「あっ!」
「実は少し本を見て回りたいとも思っていたからさ。少しカフェで休んできなよ」
彼が別の場所を指し示した。本屋さんの向かい側にある、全国チェーン店の人気な珈琲ショップ。期間限定のフラペチーノが、いつも話題に上がっているお店だ。
いつも過ごしている地元にはお店がないおかげで、私はここ数年行っていなかったから、最近のフラペチーノはとても興味がある。
思わず目を輝かせていれば、彼は再度小さく笑った。
「それじゃあ、ゆっくりしてて」
「え、あ、待って雫玖くん!」
「ん?」
「雫玖くんは何がいい!?」
せめてお礼として、飲み物くらいはおごらせてほしい。ぐ、とこぶしを握りながら彼を凝視していれば、彼は少し驚いていたようだけれど、きれいな笑顔で言った。
「アイスのドリップコーヒーの一番小さいサイズかな」
一番安いやつだ、それ。
*
結局彼のリクエスト通りの珈琲と、私のフラペチーノを買った。店内は人がたくさんいたので、店外にあるソファに腰かけて雫玖くんを待つことにした。
久しぶりのフラペチーノは冷たくて甘くておいしい。だけれど、これは最早おやつだなあ、なんて思いながらもストローから口は外せないでいた。
「あれ、もしかして狐坂さんじゃない?」
少しだけ離れたところから掛けられた声に、思わず肩を跳ねらせる。
聞き覚えのある声だった。顔を見ないでもわかる。声を掛けてきたのは、先日、お泊りを開始する前に雫玖くんにお誘いの声掛けをしていた女子だ。
振り向きたくない。これが正直な感想。だけれど、振り向かないで無視をした方が後が怖いことも私は知っている。
私は大人しく、少し縮こまりながらゆっくりと振り向いた。振り向いた視線の先に居たのは、案の定先日の彼女で、彼女を筆頭に数人に女子が固まっていた。
全員見覚えがある。筆頭の彼女と仲の良い友人を含め、私のクラスメイトも居て、計4名でそこに居た。
「ど、どうも……」
軽く頭を下げる。手に持っている期間限定のフラペチーノの容器がどんどんと汗をかく。ぎゅ、と少しだけ力を込めれば、ぺこりと少しだけ凹んだ。
「凄い偶然だねえ、でも今日は金髪のあの男の子居ないみたいだね?」
きっとこのりのことを言っているのだろう。先日彼に言い負かされてしまったから、居ないことに対して安堵と共に、これ幸いと思っているのかもしれない。
当人は、本日のお出かけについて行くか行かないかで少しひと揉めがあったが、ナツさんに宥められたこともあり、彼自身も納得してお留守番をしている。
思考がぐるぐるとしている中、「ああ、まあ」なんて曖昧な返事をすることしかできなかった。それがどうも、彼女たちの琴線に触れてしまったようだ。
「学校には来てないけど、ここには来てるんだ」
にこにこ、と笑みを浮かべながらも此方に投げてくる言葉は、表情とまるで比例していなくて、悪意に満ちていた。
べこ、と更に容器が凹む音がした。
「えっと、講習には行っていないけれど、勉強はしてて……今日は偶々……」
「そうなんだ。そっか、希龍くんと付き合ってるんだもんね」
彼女の声の温度が一気に冷えた。まるで鋭くて冷たい氷柱を喉元に添えられたような気分がした。
怖い。そんな単語が頭に過る。体温が一気に低くなった気がして、小さく身震いをする。
付き合っている『ということになっている』私達は、女子達に……特に私が認められていないのだと再度認識してしまった。
「その、」
「今日は希龍くんとデートでもしてるの? 余裕じゃん」
「そ、そう言うわけじゃ……!」
彼女の言う余裕には、きっと色々な意味が含まれているのだと思う。
私達なんか気にならないほど程仲良いじゃん。勉強しないで遊べるほど余裕なんだ。学校で勉強してる私達より頑張ってるんだ?
皮肉も交えたような言葉達が、直接言われたわけじゃないのに、副音声のように聞こえてきてしまう。
ここで言い返せない己の不甲斐なさにも嫌気がする。
その通りだよ、って対等に向き合って言えるほどの勇気を私はまだ持っていなくて。言えたら、きっと自分に自信を持てるかもしれないのに。
「あ、そうだ。学校で思い出したんだけど、先生に聞かれたんだよね」
「え?」
「狐坂さんを知らないか、って」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。嫌な予感がして、背筋に汗がにじむ。
「知りませーんって答えたらね、先生なんて言ったと思う?」
「……」
「親御さんに確認してみるか、だって」
ヒュッとか細い息を飲んで、全身から血の気が引いた。体温が急速に下がっていくのが分かる。恐怖しているのが分かる。
私にとって、両親は絶対的存在だった。両親の満足のいく結果を示さない限り、そこに私の居場所はない。今の学校に通って、成績不振な私はことごとく幻滅され、その度に私は裁判で罪を言い渡される罪人のような気分になっていた。
それが嫌で、逃げ出すようにずっと実家に帰っていなかった。
だが、先生が両親に電話を入れたらどうなるか。火を見るよりあきらかだ。
両親は、私を裁きにやってくる。
思わず顔を伏せて震える私の様子を見て、彼女達は満足したらしい。片眉や口角を上げて、にんまりと笑みを浮かべる。
「曙美さん!」
遠くから、慌てたような声がした。私が一番安心出来る声。頼ってしまう声の持ち主が、駆け寄ってきたのが分かった。
雫玖くんは心底心配そうに、私と視線を合わせるように屈みこんで、私の顔を覗き込む。そして、私の表情を見て、驚いたように目を開いた。きっと、私が恐怖に震えて、顔に血の気が無いからだと思う。
「あれ? 希龍くんだ」
「今ね狐坂さんと話してたんだ。希龍くんとデートしてるの? って」
ね? と此方に笑顔で問いかけられる。甘ったるいような、これこそ猫なで声というのだろうという声で、何も問題はなかったよね? と言わんばかりに私に問いかける。
だが、声に反してその目は鋭い物で、確実に私の心に突き刺すような物だった。
思わずゆっくりと首を縦に振れば、彼女達はまるで『よろしい』と言わんばかりに笑みを浮かべる。
「そうだ、希龍くん達も一緒に遊ぼうよ」
「……なんで?」
一人が笑みを浮かべながら提案すれば、雫玖くんは少し眉を寄せながら問いかける。
「え~? 理由なんている? 希龍くん達と遊びたいんだけなんだけど。ダメかな?」
「こうして二人で来てるんだもん。勉強も余裕なんだよね」
一人がにこりと笑みを浮かべて私の方を見てくる。私は何も言えずに、冷や汗が流れるのを自分で察することしか出来なかった。
「……悪いけれど、この後二人で勉強するんだ。だから、遠慮しておくよ」
「そうなの? 残念だなあ」
「それじゃあ、狐坂さん夏休み明け楽しみだね。勉強が実ってればの話だけれど」
ずぐん、と心臓が痛む。
どうして、私はここまで言われないといけないんだろう。そんな思いで、目頭が熱くなってきて、今にも涙が零れそうになるのを、唇を噛んで、頑張って堪えた。
「……人が人を貶す権利など、存在していると思っているのか?」
「え?」
「さっきから君達は俺達を囲ったままで、逃げ道を無くしているのか。特に曙美さんへの態度は少なくとも、遊ぶ仲の相手に向ける態度ではないだろう」
雫玖くんはゆっくりと立ち上がる。彼女達より背の高い彼は、そのまま彼女達に言い放った。
「人の努力を貶す権利など、誰にも存在しない。それは俺と曙美さんをも含め、君たちもそうだ。だが、曙美さんは一度でも君達を貶したか? 存在を否定したか? 気を付けた方が良い」
雫玖くんは手のひらを広げて、言葉を続ける。
「一度口にした言葉は戻らない。相手が受け止めてしまっているから、返してくれない。例え君達自身に振り戻ったとしても、俺達は君達に手を差し伸べる事はないだろうね」
真っ直ぐな鋭い目で射貫かれて、更にその言葉を放つ彼の背後には、まるで大きな何かが存在しているように見えた。
彼は人間のはずなのに、どこか、アオさんのような圧を肌で感じる。
そんな圧を彼女達も察したらしい。思わず言葉を詰まらせて、そろそろと足を後ろへ滑らした。
「な、なんか希龍くん怖くない?」
「う、うん……」
こそり、と耳打ちしている彼女達の言葉には同意してしまう。雫玖くんの言葉には強い威圧感がある。まあ普段の彼はどうか、と聞かれても、教室ではあまり言葉を発することが無く、他人と関わらないから、本来の彼を知っている人の方が稀なのだろうが。
それでも、共通して言えるのは、彼は普段は穏やかな人だと言う認識だろう。それなのに、今の彼の存在はまさに神様のような圧を感じさせ、恐怖心を抱いてしまうのだろう。
「ま、まあ精々頑張ってね、狐坂さん」
これ以上怖い思いをしたくない。切実にそんな思いが伝わってくるようだった。捨て台詞のような言葉を最後に、彼女達は私に背を向けて走り去っていく。そんな彼女達の背を、見送ることも出来ず、私は、ただ顔伏せるばかりだった。
フラペチーノの砕かれた氷は完全に溶けて、見るからに味の薄いドリンクへとなってしまった。
「ごめん……! 俺が離れたばっかりに」
「雫玖くんは悪くないです。だ、いじょうぶ、ですよ」
不格好な笑みを浮かべて口にした言葉は歯切れが悪く、誰が聞いてもその通りに受け取ることはできないだろう。現に目の前の彼も受け取ってくれず、顔を伏せて、そっと私の両手を包み込むようにして握った。
「そ、そうだ……頼まれていた珈琲を……」
そういってテイクアウトした珈琲を手渡そうとする。だけれど、その手は震えている。
恥ずかしいな、怖がっていたのが彼にバレバレで。
もう、すっかり大丈夫だと、思っていたのにな。
「曙美さん……」
珈琲のカップを持つ私の手を包み込むようにして、彼の手が重なる。
アイスコーヒーの入っているカップは冷たくて、カップは汗をかいているのに、彼の手は程よく温かくて、それがひどく安堵して、そしてそれと同時にさみしくて泣きたくなってしまった。
「ごめんなさい、雫玖くん」
「曙美さん」
ぐるぐるとした頭の中、スマホが一通のメッセージが届いたことを知らせてきた。
ゆっくりと雫玖くんに珈琲を手渡して、彼の手から自身の手を離す。そして、スマホをを見て思わず目を開き、体から血が一瞬で抜けたような寒気が走った。
『貴方に話があるから明後日にそっちに行く』
お母さんからそうメッセージが届いた私の、血の気の引いた顔と言ったら
私はきっと、いらない子供だった。誰にも欲しがられない。必要とされないで。嫌われて、放り出され転がり続けて、そうやって生きてきた。
全てが出来損ないな半端物の私など。誰にも認められず、必要とされず。
努力をしなければ、っていつも思ってて、頑張って生きてたけれど、結局それらが報われたことってあまり無くて。口だけが達者な、半端物。
私は、薄れてしまったはずのひっかき傷の様な過去に、さらに深く爪を突き刺してしまった。そのまま傷口をえぐるような痛みが心臓に走る。
忘れていた。すっかり忘れていたよ。
今の今まで忘れていたのに、なぜか家族の表情や、その時感じた自己嫌悪までくっきり思い出す。
雫玖くん達と関わるのが楽しくて、気持ちが軽くて。私を優しく受け入れて、優しく接してくれた。それなのに。
やっと止まり木を見つけたかもしれないのに。
そんな都合のいい話など、きっと無い。いつか、またその止まり木も折れる日が来る。またきっと、放り出される日が来る。私など、きっと、必要が無いと。
「曙美さん、曙美さん……!」
肩を揺さぶられて、ドロドロとした黒い思考の中から、雫玖くんに引き戻された。彼の声につられるように顔をあげれば、そこには私を心配そうに見つめる、優しい神様の子がそこに居た。
「何かあったの」
「……親が、明後日、来るそうです」
不格好な笑みを浮かべながら言えば、彼は心底驚いたように目を丸くしていた。
「そんな急に……!? どうして、」
「先生が、両親に連絡を取ったみたいです」
当然だよね。普通だったら受講するべきである生徒が、ある日を境にぱったりと学校に来なくなった。
もしかしたら、本当に心配もしてくれたのかもしれない。だから、クラスの子に聞いたのかもしれない。同じクラスの子で寮も同じクラスの子が知らないと答えたから、もしかしたら実家に帰ったのかもしれないとか考えたのかもしれない。
きっと善意からの行動だったはずだ、先生は、きっと。そう考えないと、いまにも気がくるってしまいそうだった。
「夏休みの講習に来ていないと聞いたから、きっと、両親、怒っているんだと思います」
「……うん」
「だから、会わないとって、どうしようって」
思わず頭を抱えて、ぐしゃりと髪を握りしめる。すると、彼は優しく私の頭をなでて、そのままゆっくりと手を握って、その手を下ろさせた。そして、ゆっくりと私の名前を呼ぶ。
彼に名を呼ばれ、彼の顔を見る。真っすぐと、私を見つめていた。
「とりあえず、帰ろう。それで、一緒にどうしようか、みんなで考えよう」
「……うん」
胸のざわめきは収まらない。気分転換のつもりだったお出かけは、最後にわだかまりを残して終わってしまった。
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