04
ノートに走らせていた赤ペンが、カスカスとインク切れを知らせてきた。
そのまま意地になってノートにペンを走らせるが、ペン先のとがりによって紙が凹んでいるだけだ。今ここに鉛筆で塗りつぶせば、何か文字が浮かびあがてくるかもしれない。
それは置いておいて、学生にとって赤ペンは切っても切り離せない、文具必需品だと思う。問題に丸つけに使用するは勿論、どうしてこの答えに至ったかの説明文を赤色で書いたりする人も多いだろう。私はもっぱらそれらである。
だからインクの減りは元々早い方なのだが、ここ数日の勉強合宿によって使用率はうんと上がっている。つまり、赤ペンはすぐに寿命を迎えると言う事だ。
予備を含めて三本ほど持ってきたのだが、全滅してしまった。己の勉強への熱心さを誇るべきか、それともまだ赤ペンが必要な程、学習内容は理解していないという事か。出来れば前者いてほしい。思わず額に指を添えてしまった。
「あの、雫玖くん。赤ペンが無くなってしまったので、お借りしても……?」
添えた指を離してから、向かい合っている彼に問えば、彼は問題集と向き合っていた顔を上げて、私の話を聞く態勢になる。
「ああ、勿論……と言いたいところなんだけれど、実は俺も生憎赤色は切らしてしまっていてね」
彼は申し訳なさそうに眉を下げながら、三色ボールペンをそれぞれカチカチと鳴らしている。透き通っているボールペンから見えるインク残量が、明らかに足りないのを物語っている。
「そっか、ごめんね、ありがとう」
「きにしないで。でも、そろそろ外にも出たい頃じゃない? ついでに買い物にでも行くかい?」
「え?」
雫玖くんの提案を聞いて、思わず目がぱちくりと瞬きしてしまった。
「今日は勉強を休みにして、一緒に出掛けようよ」
名案だと言わんばかりに人差し指を立てて、雫玖くんは少しウキウキしながら、声も少しだけ弾ませながら提案してくる。普段から大人びている彼の、こうした一面を見て、何だか可愛いと思ってしまった。
小さく笑みをこぼしていると、彼は意図が分からずに首をかしげていたけれど、何でもないとはぐらかした。
けれど、昨日の今日で彼と出かけるのか。
ちはるに少し揶揄われながら、さらにそこに便乗したこのりの影響も合って、今日は何とも心が忙しなかった。
チラチラと横目を盗んで思わず雫玖くんを見てしまったし。彼は視線に鋭いのか、その度にどうかしたのかと問うてきたので、その度に何でもないと顔を少し赤くしながら、首を横に振っていたんだけれど。
もしかしたら、勉強に集中できていない私の気分転換も兼ねているのかもしれない。彼は相手の感情に敏感だから。烏滸がましい考えなのかもしれないけれど、私の為に思いついたのかもしれない、なんて。思い上がりかな。
「えっと、どこに出掛けるの?」
「確か学校付近の駅から電車に乗って少しすると、ショッピングモールのある街に出るよね。そこに行かない?」
「電車かあ。そう言えば最近乗ってないなあ」
学校のある地区から出る事も、勉強に必死になりすぎて最近は極端に減ったし、実家に帰ることもほぼ無くなったから、電車もここ暫く乗っていない。
「久しぶりに乗るとなんだか楽しくない?」
「分かる。人が少ないと余計に楽しい」
「ふふ、元々人の少ない線だし、きっと人は数えるくらいだと思うよ。どうかな」
「ぜひ!」
久しぶりのお出かけ、という魅力的な言葉の数々につい乗り気になって頷いた。そんな私の様子を見て、雫玖くんはつられるように、嬉しそうに、少し頬を染めながらも笑みを浮かべたのだった。
「じゃあ父さん達に言ってくるね。1時間後に出発で良いかい?」
準備時間までちゃんと用意してくれる……優しすぎではないだろうか。
「うん、大丈夫」
「それじゃあ、1時間くらいしたら呼びに行くね」
そういうと、彼は勉強道具を先に片し始めた。私の性格をもう理解し始めている彼は、先に自身が片付ける事で、私も切り上げやすくしてくれているのだと察した。そんな優しさにも、思わず昨晩のことが頭に過って、首を横に振って考えを振り落とした。
まあ、また心配はされたんだけれど。
先に片付けた彼は、コップなども片して(慌てて私も片付けようとしたけれど、大丈夫だと言われてしまった)、そのままアオさんをいつもより大きな声で呼びながら歩いて行った。
「……でーとってやつじゃないか?」
「うわあっ! ビックリした!!」
つまらなさそうにはしていたが、ずっと部屋には居て横になっていたこのりが、私に向かって言葉を投げかけた。
驚いて変な声が零れたけれど彼は気にしないで、そのままゆっくりと起き上がって胡坐をかき、私を真っ直ぐと見てくる。
「曙美も嬉しそうな顔をしている」
「え、あ、うそっ?」
「本当」
慌てて顔に手を添えて、このりから見えない様に隠すようにするけれど、もう見られた後だったので意味はないようだ。
「だって、ペンを買うためにわざわざ遠くに行くんだろ?」
「……そう、だね?」
冷静に考えたらそうだった。何だったらコンビに行けば済む程度である。どっちみちこの屋敷から出る事にはなるけれど。
思わず彼と向き合う様に、正座という体勢になってしまった。
「それで準備時間をくれるわけだ」
「うん……」
「ずっと毎日会っているのにな? すぐに一緒に行けばいいのにな?」
その通りである。今の格好のまま出掛けても、問題はないのである。それでも、私に時間をくれたのだ。ただ単に、彼の優しさなんだろうけれど。
女性は男性よりも準備がかかる、とはよく言うから、彼もそれに倣って時間の余裕をくれたのかもしれない。
「つまり、やっぱりデートだね」
「うわっ!?」
突然の第三者の声に、思わず飛び跳ねた。正座のまま飛び跳ねてしまったと思う。
声のした方へ顔を向ければ、そこに居たのは楽しそうに笑みを浮かべているナツさんだった。顎に親指と人差し指で沿う様に当てて、ふふんと言わんばかりの表情をしている。
「成程、あの子は行動から出るタイプだったのね」
「ナ、ナツさん……?」
「ごめんごめん、楽しそうな雰囲気を察しちゃった」
ごめんね、と両手の掌を見せながら謝ってきた。お世話になっている家の方には何も言えまい。大丈夫です、と口角を少しだけ引きつらせながら答えた。
「でも、何だか嬉しくて! 曙美ちゃん、何かお気に入りの服とかある? ちょっとお化粧もする? ヘアアレンジもしちゃう?」
ずいずいと乗り気なナツさんに気圧されて、少しだけ背中が反る。
「え、えっと……ふ、普通こういうのって、お母さんって少し微妙な気持ち、になったりするものじゃないですか?」
ほら、嫁姑問題はよく聞く内容だし、息子に仲の良い女の子が居たら探り深くなってしまったり、あまり認めたくないと思ったりする母親もいたりするのでは? 自分は一人娘の家系なので詳しくは分からないけれど……。よく聞く感じでは、そういうイメージが強いのだけれど。
私が少し驚いていれば、ナツさんは私よりはマシだけれど驚いたように目を開いて、ぱちくりと瞬きをした。
「どうして? 曙美ちゃんはこんなに良い子なのに」
「え?」
「それに、少し人間不信気味だったあの子が惚れこんだ子だもん。息子の気持ちに陥入できるほど親は偉くないよ」
ナツさんの言葉に、私は呆けるばかりだ。惚れこんだ、という言葉は恥ずかしいので、一旦置いておこう。
私からすれば、縁のない考えを持つ親御さんだ、と。
私は兎に角、両親に認められるようにと、気持ちをあまり二人に言ったりすることも無かった。向こうも、あまり私の気持ちを聞こうとはしていなかった。だから、何だか不思議な気持ちになってしまうのだ。
「雫玖ね、本当に変わったなあって思った。まさか、こうして家に人を呼べるほど人を信頼できるようになれたんだ、とか。自分の気持ちを素直に人に言えるようになったんだとか」
「……確かに、雫玖くんはクールなイメージはありましたからね」
「まあ、まだ曙美ちゃんだけにしか心は開いていないのかもしれないけれど、それでもずっと誰も信頼出来ていない時からすれば、ずっと成長してる。それが嬉しいの。そして、その相手が曙美ちゃんで本当に嬉しくて良かったなって。ありがとうね」
胸元に手を添えながら、優しい笑みを浮かべて、礼を言われてしまった。
私は、大したことはしていないつもりだ。私の言葉や行動が、特別だったと思ったことも無い。けれど、私にとって特別ではなかったとしても、当人からすれば別問題で。心に残ってくれて、私に気を許してくれたのかと思うと、何だか嬉しくて、そして少しムズ痒い。
顔に熱がこもるのを実感していると、ナツさんは最後ににこりと笑みを浮かべて、ポンと私の肩に手を乗せた。
「曙美ちゃんさえ迷惑じゃなかったら、これからも仲良くしてくれる?」
「は、はい! 勿論! 皆さんにとって迷惑でなければ!」
「全然迷惑じゃないよ、自信持って! ということで、おデートの為に少し準備しようか」
にこり、の笑みからにやり、という笑みに変わった。思わず苦笑いが零れて、ヒュッと息が零れた。
「いやあ、私、娘も欲しかったのよね」
うきうきとした声のナツさんの言葉は、聞かなかったことにしよう。
「気が早いなこの嫁は」
このりの言葉も、聞かなかったことにしよう。
*
海のすぐ隣を走る電車や、目の前に海が見える立地の駅、というのは海に囲まれている日本の割には案外数少なく貴重らしい。私達の今現在生活している学校周囲にある駅は、その一つに加わるようだ。偶に鉄道ファンらしき人を見かけることもある。
元々田舎寄りの土地を走る、それも乗車人数が少ないこの線を走る電車は、少ない両編成で、ガタンゴトンと馴染みある音を立てて車体を揺れながら目的地まで走る。
ちら、と電車の窓に目を向ける。
窓の向こうには、青い海の水平線が見えた。窓の向こうの景色はとても綺麗で、まるでどこかのドラマやCMに使われそうなほどに爽やかなんだけれど、窓に反射して写っている自分の顔は、それに反して何とも言えない顔をしていた。
ナツさんは、私の髪の毛を丁寧にアレンジにしてくれた。服は持参したものだけれど、ナツさんが化粧も少ししてくれて、反射して写る自分は、劇的な変化はないのだけれど、少しだけ明るい顔色で、多少は目もパッチリしているように見える。
とまあ、これに関してはすごい嬉しいし感謝もしているし、ナツさんの技術に感服している。
けど、さっきから雫玖くんと視線が中々に合わない。まあ、横列シートで並んでいるから、というのもあるんだけれど。彼はさっきからずっと、窓の外を見ているのだ。
もしかして、私は大きな間違いをしているのでは? あの二人(二人、と数えていいのか?まあ良いとしてほしい)に、散々デートだ何だと少し揶揄われたり盛り上げられたから、少し心が調子乗っていたのかもしれないけれど……!
そう考えると恥ずかしくなってきた。顔が真っ赤になって、思わずぎゅう、と拳を握った。
「あ、あの、何か気になる事があった……?」
「え? あ、ああいや、何も無いよ?」
「そ、そっか。えっと、窓の外見てるから、海が……アオさん達が気になるのかな? って思って」
「え? いや父さん達は何も……」
そう言って彼は私の方へ顔を向けた。すると、彼は顔を少し赤くして、少しだけ視線を逸らした。
……ん?
いや、流石の私でも少し察してしまった。
確かに、恋愛経験がまともに無い初心者だし、そう言った類の知識も大した程持っている人間でもないけれど……。自分が何度も経験している、頬を染めるなどの変化理由は察せるくらい、一般的な人間だと思う。
簡潔にまとめれば、そこまで、超鈍感……というわけではないはず、ということだ。
なので、ちょっと、恥ずかしいけれど、聞いてみよう、かな。とか調子乗っちゃって見たりして。
「え、えっと、似合ってないかな……変だったり、する?」
自身の髪の毛の先を摘まんで問うてみれば、彼は慌ててこちらの方へ視線を向けた。
「そ、そんなことないよ! いつもに増して可愛いし、何も不安になることは無……」
彼も自身で何を言っているのか察したらしい、赤い顔はさらに真っ赤になった。つられて、彼の言葉も含めて、私の顔も爆発しそうな程に真っ赤になった。
この褒め殺しマン!
なんて彼に勝手なあだ名をつけてしまった。爆発しそう、ではなくて爆発した、なのかもしれない。
ていうか、隣にかっこいいを通り越して美人な男性を連れてる時点で、もう心の中ではすみませんのオンパレードだったのに。
ここに来るまでのすれ違う女性達の目が彼に釘付けなのは、もう丸分かりだったし。かっこいい男性を前にすると、女性はやっぱりテンション上がるよね、すっごい分かる。友人にも一人そういう類の人いるし。
そんな彼の隣にいるのは、どうも気恥ずかしい。けれど、彼に褒められたのなら、少し、頑張ってみよう、なんて。何を頑張るのかなんて分からないけれど!
二人で顔を真っ赤にしていれば、駅が近づいたことを知らせる音楽が鳴り響く。そして、駅員さんのアナウンスで、私達の目的地の駅名を告げられた。
「お、降りようか……」
「そうだね」
顔を赤くしている男女が並んで歩いている姿は、他者から見れば大層滑稽だったと思う。
私の普段生活から少し離れたこの街は、県内でも有数の(と言っても東京などに比べたらそこまでではないだろうが)都心である。駅から出た先は数々のチェーン店や、新たに出来たらしいSNS映えしそうなお菓子などが売られているお店などが並んでいる。
そこから少し足を進めれば、大型のショッピングモールが存在する。私たちの学校に通っている子たちは、遊びに来るとしたらここを選ぶことが多いだろう。ここにくれば学校の子とすれ違う、誰かがいる、とはよく言われている。田舎あるあるかもしれない。
早速目的地に着いた私たちは、まずは目的である赤ペンをそれぞれ無事にゲットし、ついでにノートなども追加購入した。
「久しぶりにこんなに文具が揃ってるとこ来たかも」
「いつも購買とか、コンビニとか、近くのところで済ませちゃうもんね」
「そう、そう!」
このりの言葉が頭によぎってしまって、反射的に上ずった声をあげてしまった。少しだけボリュームも大きかったから、雫玖くんも少し驚いたようで、どうしたの? と問うてきた。ごめんね、何でもないんだ。
「折角だから、見て回ろうか」
「良いの?」
「勿論。むしろ、それが目的だったからね」
にこり、と優しい笑みを浮かべられて、顔に熱が集まるのが分かる。
「じゃあ……本屋とか」
「良いよ。新刊とか発売だったりする?」
「えっと、あのね、ナツさんの写真集があったら、買いたいなって」
「母さんの?」
雫玖くんは驚いたように目を丸くした。確かに、突然身内の本が欲しいと言われたら少しびっくりするよね。
私は少し照れ隠しのように頬を掻き、小さく笑みをこぼした。
「雫玖くんの家で読ませてもらえたけれど、あくまであれは雫玖くんの家のものだから。私も、自分の、そういった写真集が欲しいなって思って」
「……今まで、そういった本は買ったことなかった?」
「よく考えたらそうかも。ずっと参考書とか、ドリルとか、偶に文学書とか。小さい頃は少女漫画とかおばあちゃんとかに買ってもらったけれど、捨てちゃったかな……」
正しく言えば、捨てられた、が正しいかもしれない。祖父母が幼いころに亡くなって、その後に、両親は一層勉強をするようにと圧をかけてきていた。
いらないよね? と言われて、捨てられた漫画は、祖父母との思い出を捨てられるような気分がして寂しかった。けれど、それを口にすることもできなかった。小さいころから、ずっと変わらずに弱虫だったんだなと思い出される。
「それじゃあ一緒に探してみようか」
「ありがとう、雫玖くん」
彼の優しい声色に笑みを浮かべれば、彼もつられて優しい笑みを見せてくれた。
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