05

 二人で傘を差しながら、私たちが普段暮らしている寮の前までやってきた。

 エントランスに入るまでは共同だけれど、そこから先は女子男子それぞれ学年別に棟が違うので、私達はエントランスで一旦お別れとなる。

「さっきの事もあるし、早く準備してくるね」

 ぐ、と両手を握りしめながら言えば、彼は苦笑いを浮かべながらも、無理はしないでねと声を零す。

「俺も共犯者になったし。それに、これから家に招く側としては、全然かまわないよ」

「本当、ごめんね?」

「何度も言うけれど、君に助けてもらえて、とても嬉しかったんだ。すごく感謝している。だから気にしないで」

 綺麗な笑みを浮かべながら言ってくれるもので、思わず見惚れそうになるけれど、首を横に振って邪な感情を振り払う。

 互いに好きあっているとは、両想いという関係になる。つまりは他者から見れば私達は恋人、となるわけだし、似たような言葉を皆の前で宣言したけれど、私達はあくまで友人なのだ。あの時は私達の身を守る為の嘘だっただけで、現実ではないのだから。

 ブ、ブ、とさっきからスマホの振動が激しい。ポケットから取り出してみると、クラスのグループラインがえげつない量の通知数になっていた。ぎょっ、と思わず目が開かれる。慌てて開いてみれば、そこに表示されているのは当然さっきまでの事だ。

 これは、準備にもあまり時間がかけられないかもしれないぞ。見なかったことにしてスマホをポケットに仕舞った。

「ごめん、じゃあ準備してくるね。取りあえず数日間に着替えと、勉強道具くらい?」

「そうだね。まあ服は沢山あるから大丈夫だよ。だから勉強度具だけでも全然大丈夫なんだけどね」

「でも全部借りるわけにはいかないよ。出来るだけ素早く準備してくる。もし、なにかあったら、絡まれたりしたら、いつでも連絡ちょうだい」

 真っ直ぐと彼の目を見ながら言うと、彼は私を見てから、ずいと顔を寄せてきた。

「それはこっちの台詞でもあるんだけど。何かあったら、本当に連絡してね」

「は、はい……」

 失礼します、と一言を告げて私は自分の部屋へ向かって猛ダッシュした。頭の中には、鞄の中に詰め込む必要な物リスト、そして希龍くんの色々と変化のあった表情だった。



 知っていた。自身の運の悪さを考えていたら、こうなること。時間をかけてしまえばこうなる事。学校に居た女子達が、寮にやって来て鉢合わせになったり、待ち伏せされていること。全部想像通り。キャリーバックの取手に思わす力がこもって、思わず足が半歩後ろに下がる。

 私を見下ろすのは先程までショックを受けていた女子数名と、私よりもうんと美人で可愛い女子数人。カツアゲでもされるんじゃないか、と言わんばかりに囲まれてしまっている。冷や汗がダラダラと流れる。希龍くんに助けを求めたくても、ここはまだ女子寮。エントランスの一歩手前。呼ぶにはどうも憚れてしまう。ああ、もう少し私の脚が速かったら……。

「ねえ、なんでクラスのグループメッセ無視してんの?」

「え、ええっと……気付かなくて」

「はあ? 希龍くんと話してるのに? 気付かねえわけねえだろ」

 蛇に睨まれた蛙。どんどんと萎縮していく私。

 ああ、どうしてすぐに全部終わらせて、彼の元に行かなかったんだ。猛ダッシュしなかったんだ。少しでも悩む時間を減らせなかったんだ。ここに彼女達が居るってことは、希龍くんの元にも、人が集まっているかもしれない。

 本当に申し訳ない。自分が本当に嫌になる。ここでも、自分だけじゃなくて、大勢の人に迷惑をかけて、恨まれて。

「無視しないでくれる」

 私を睨んでいた先頭の子が、私の胸倉を掴み、あいている腕を振り上げて、勢いよくその手の平をこちらの頬に向けて振り下ろしてくる。

 あ、これ殴られる流れでは?

 ぎゅ、を瞼を閉じて、頬に来る衝撃に備えようと歯を食いしばっていると、パシンッと乾いた音が響いた。決して、私が叩かれた音ではない。きっと、叩かれたのなら、もっと鈍い音がしていたはず。それに、身体も多少吹き飛んでいたはず。

 それなのに頬は無事だし、身体は微動だにしていない。何が起きたのかと閉じていた瞼を開くと、私を殴ろうとしていた女子の手首を、誰かが力強く握り、動きを止めていた。

 フードを深く被った、少年の様に見えた。体格差が激しいだろうに、掴んでいる腕は微動だにしない。

「なっ、だれ……! い、痛いから話なさいよ!」

「そ、そうよ。それに、アンタ男でしょ。ここは女子寮よ。なんでここに居るの! 警備員さん呼ぶわよ!」

「勝手にすれば。醜いアンタ達の言動だって、映像で撮ってたからバレバレだったけどね。これ見られたら、君達ヤバいんじゃないの?」

 少年が左右で振るスマホ。この中に、例の始終が録画されているのだろう。今の時代、映像による情報の影響力はとてつもない。それが分からない程、この学校の生徒は馬鹿じゃない。少年の言葉で、私を取り囲んでいた女子集団が一気に息を飲んで、顔面蒼白になった。そして、一斉にその場を走り去った。面倒事に巻き込まれたくない、というのもあるだろうが賢明な判断だと思う。

 中心核として私をいじめていた女子が惨めでかわいそうに思えてきた。

 男子は掴んでいた手に力を弱めたらしい。女子は腕を振り払って、いらだった表情で私達を睨み付ける。

「良い気になって……さぞ気分が良いでしょうね。希龍くんとは別の男子からも守ってもらって」

 女子が少年の顔を見ようとしたのか、フードを取ろうと手を伸ばす。すると、少年は慌てた様にフードを抑えたが、少し手遅れだった。

 フードで隠されていた顔は、まさしく整った顔立ち。美少年、と呼ばれるにふさわしい子が存在していたのだ。臙脂色の瞳に、金色の柔らかそうな前髪。チラリと見えた口から覗いた八重歯が、少しだけやんちゃさを醸し出していて、少しのアンバランスが余計に彼の美貌加減を上げていた。

 そんな少年の姿を目にした女子は驚いたように目を開き、歯を食いしばり、今一度私の方を睨み付けた。

「良い御身分ね! 精々いい気分でも味わってたら!?」

 捨て台詞のようなものを吐いて、彼女は走り去っていった。


 嵐が去った気分だ。緊張の糸も切れて、へなへなと膝が崩れてどの場で座り込んでしまう。

「曙美大丈夫?」

「だ、大丈夫……まだ心臓はうるさいけど。って、貴方は誰。ここは女子寮だし、君、この学校の子じゃないよね」

 ていうか、私の名を呼んでいたし。少年の知り合いはいないはずなんだけれども。

 座ったままの姿勢なのは許してもらいたい。腰を抜かして立ち上がれないのである。そんな私の目線に合わせるように少年は膝立ちの体勢になり、まず私にスマホを差し出してきた。どうしてだろうと思ったが、よく見れば私のスマホである。

 なんで、そう問おうとしたときに、彼はゆっくりとフードを外した。

 そして、そこにはあるはずがない物が存在し、主張するようにぴこぴこと動いていた。

 狐の耳だ。狐の耳が少年の頭から生え、自我を持っているように、音を拾う様にして耳を動かしている。

 ヒュッと息を勢いよく吸ってしまった。

「俺は君の実家の隣にある稲荷神社のこのり。君から名前を貰った、君の用心棒みたいなものさ。その機械は勝手に借りた、ごめんな」

 にこり、と笑みを浮かべる美少年。

 私の隣にある稲荷神社の狐? ありえない、信じられない。そんな思いが強くて呆けてしまう。

「それよりほら、立ち上がって」

 ほらほら、と両手で私をグイッと引っ張り上げる。腰を抜かしていたが、その体格に似合わない力強さで、私の身体はいとも簡単に立ち上がる。

「えっと、なんていうんだっけ? あんよが上手、あんよが上手?」

「そ、それは赤ちゃんでしょ」

「そうなの? まあいいか。それより、ほら、竜の子が待ってるんでしょ」

 ほらほら、と彼に両手で引かれながら……それこそ赤子、もしくは老人の歩行訓練のように歩かされて、恥ずかしさで顔面に熱が集まるのがハッキリと分かった。

 いっちに、いっちに。と声をかけながら器用に後ろ向きで歩く彼。そしてこれまた器用に、彼の尻尾で私のキャリーを引っ張っていると言う小技付き。

 私がじっと少年を見ていても、彼は気にしないとばかりに歩みを進める。ていうか、もっと見ても良いよと言われているように思える。

 このり……なんだか懐かしい名を聞いたものだ。目の前の彼は、彼の言う通り、幼い頃に出会い、私が名前を呼んだ子だ。


 私の隣の家に、新しい神社が出来ると話が出たのは、私が小学校になるかならいくらいの年頃の話だ。

 空き地だったそこが、丁度良かったのかもしれない。他にも理由はあるとは思うけれど。私は宗教に詳しいわけではないから分からない。町内で会費を集め、色々なところからお金を貰って、あれよあれよと建屋が出来ていくさまを、部屋の窓から眺めていた。

 そんな時、幼いからこそ存在していた好奇心から、工事中のその神社に足を踏み入れた。その時に出会ったのが、彼、このりである。

 名前を聞いたら、好きに呼べと言われたから、当時好きだったアニメのキャラクターから拝借した様な気がする。

 その時でも私より少し幼い容姿の彼に、私は少しだけお姉ちゃん気分を味わって、こっそりと遊んだものである。彼からも懐かれていたのは、きっと自意識過剰とかではないと思う。

 そして、中学まではその神社に通っていたが、高校となって、今の学校に進んでから、私は彼と出会っていない……はずだったのだ。

「まさか、神様だったなんて……」

 当時も同じ様にフードをずっと被っていて、耳や尻尾をずっと隠していた。だから、私はずっと彼も同じ様に神社で遊ぶ子供だと思っていたし、あだ名の感覚でこのりと呼んでいたのだ。

「まだまだそんな立派なもんじゃないよ。だって、俺は生まれたてだし?」

 まあ、小説とか漫画とかに出てくる長生きな神様とか、それこそアオさん程の威厳を持っている神様と比べれば、彼は赤子のような年齢なのかもしれないけれど、人間からすれば十分に目上の存在だと思うんだけど……。


「曙美さん?」

 柔らかい声で、それでいて少し驚いたような声色で名前を呼ばれ、ハッと意識を戻した。

 すると、目の前には驚いたような表情をしている希龍くんが居た。

「あ、ご、ごめんなさい! お待たせしました!」

「いや、それは全然大丈夫なんだけれど……彼は?」

 希龍くんが指差した先に居るのは、いつの間にか私から手を離して、私の数歩後ろに居るこのりだった。

 彼はふふん、と少しだけ胸を張って、先程と同じような、けれどどこか誇らしげな声色で自己紹介を始めた。

「僕は曙美の実家の隣にある稲荷神社のこのり。曙美の用心棒みたいなものだ。よろしくな竜の子」

「え……ああ、よろしく?」

 笑みを浮かべてはいるけれど、話の展開についていけていない顔をしている。

 希龍くんに申し訳ない、と思っていれば、彼は私の荷物を見て、小さく笑みを零した。

「ちゃんとした準備してきたんだね」

「ごめんなさい……そのせいで遅れてしまって」

「それだけじゃないぞ。おかげで曙美が殴られるところだった。竜の子、何をしているんだ」

「え? 殴られる?」

「ちょっ、しーっ!」

 慌ててこのりの口に手を被せる。もご、と彼の言葉が止まったことに安堵すれば、希龍くんが真っ直ぐと私の方を見てくる。

「どういうこと? 何かあった?」

「あ、えっと、ちょっとした喧嘩みたいな感じだよ」

 言えない、優しい彼に向かって、原因が私達の関係だと。これ以上迷惑かけられない……!

 冷や汗がダラダラと流れる。頬も目尻も心なしか引き攣っている様な気もする。

 いかにも「隠し事しています」と言わんばかりの私だったけれど、彼は暫く私を見てから、私のキャリーを手に取って背を向け、歩き始める。

 それに慌てて小走りで彼の真後ろにつく。キャリーを返してもらおうとしても、彼は頑なに返してくれなかった。

「……言いたくなかったなら、大丈夫だから」

 ピリッと空気が少しだけ張りつめたような、少しだけ苛立ちを含ませたような声色。思わず荷物を返してもらおうと、彼に向けて伸ばしていた手を引っ込めて、胸の辺りで両手で握りしめた。

「あ、ごめん……気を悪くさせた、よね」

「違う」

 ぴたり、と彼が足を止める。寮の裏口。表じゃなくて裏から出るのは、きっと人目を避ける為だろうとすぐに察せられた。開いていないものだと思っていたけれど、案外使う人が多いと知ったのはここ最近の事だ。

 ザア、ザア、と雨の音が扉を挟んでも建物の中に入り込む。そんな中で呟いた彼の声は今にも掻き消えてしまいそうだったのに、なぜだかハッキリと聞こえた。

「違う。……いや、違う、とは言い切れないかもしれないけど」

「うん」

「ちょっと嫉妬した」

「え?」

 嫉妬? 彼には無縁そうな、ほど遠いところにありそうな単語が聞こえて、思わず間の抜けた声が零れた。

「俺だったら助けられなかったなとか、けれど、本当は呼んでほしかったとか、思った」

「へえ、お前って案外分かりやすいな」

「君……! 家に来るの許可しないぞ!」

「悪い悪い。まあ、無理なこともあるって。お前は人間なんだから」

「そ、そうだね。今回は女子寮でのいざこざだったから」

 慌てて言葉をつけたすと、彼はゆっくりと振り向いた。少しだけ目が潤んでいるみたいで、それだけで余計に彼の色気がアップするので美人とはすごい。けれど、唇を少し噛んでいる辺り、どこか、悔しさのような感情を向けられているのだと分かった。

「そう、だね。僕は、人間だからね。神様では、ないから」

 何て返すのが正解なのかは分からない。だって、私と彼は別人で、それぞれ人間で。確かに彼は神様の子ではあるけれど、至って普通の人間のようだし。

 普通だけど、普通ではない。それがどうも難しい。

「そ、それでもこうして心配してくれるのは、本当に嬉しいよ」

 彼の視線がゆっくりと私の方へ動いた。

「私を思って心配されるのは、当たり前の事じゃないもん。すごい、ありがたいことだと私は思ってる」

 嘘偽りの無い言葉だ。心配は、相手に関心が無いと出来ない事だと思う。それも、本人の自己満足じゃなくて、相手の為に心を配るなんて、簡単な事じゃないと思う。本人だって苦しいだろうに、そうして考えてもらえることは、とても幸せだと思った。

「希龍くんは本当に優しいね」

「……それは、僕の台詞だよ」

 眉を下げながら、彼は優しい笑みを浮かべた。そんな私達を見て、このりがうんうんと頷いているのを横目に入ってきて、この狐……なんて思ったのは秘密だ。

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