02

「狐坂、言われることは分かっているな?」

「……はい」

 机の上に置かれた紙が、風でぺらぺらと捲れる。私にとっては重い存在である紙切れは、そんな私の思いとは逆に、今すぐに軽く飛んで行ってしまいそうだ。

勝手に飛んでいかない様にと押さえている手は、どこか不満そうに指で机をトントンと叩いている。不満があると指を叩くのは、目の前の先生の癖だ。本人は無自覚だろうが、私達からすれば周知されていることなので、私達は彼のこの動作を見ると、皆揃って気まずそうな顔をする。

 現にそんな目の前の光景を見て、自然と私の口が尖ってしまった。けれど、それがバレるわけにはいかない。慌てて口を戻し、きゅ、と少しだけ口を結んだ。幸い、彼は手元の紙から目を逸らしてないし。

「お前、これ、親御さんに見せられるのか」

 そう言って見せられたのは、私の成績表のコピーと、テストの点数が張り出されている紙。

 うぐ、と言葉が詰まった。

「そう、ですねえ」

「もう高校2年の夏だぞ」

 はあ、と呆れた声色で溜息を吐かれて、そっと視線を逸らした。

 おっしゃる通りです。

 ぐうの音も出なくて押し黙る。そんな私の姿を見て、目の前の彼は指トントンを止めることも無く、再度溜息を吐く。高圧的すぎて逃げたくなる。

 彼の指の下にあった紙を手に取って、相手はじっくりとその用紙を眺める。

「だよな。狐坂の母さんがこれ見て許せると思えねーもん」

 先生は去年から連続で担任としてお世話になっている人だ。何度も面談はしているから、先生は私の母親を知っている。教育熱心のお母さん。そんなイメージを持たれているのだろう。全然間違いではない。大正解である。

 遊んでばかりいないで勉強しなさい。頼むからちゃんとしてね。それが母親の口癖である。

「いや、……な? 狐坂はまじめだし、授業態度だって良いからさ。逆に不思議なんだけどさ」

 そんなこと、思っても居ないくせに。

 という言葉は口の中に閉じ込めて。飲み込んで。その代りに私の口から出てきたのは、はあ、という小さな返事で。

 再度言うが、私の学校は大学付属だ。つまり、基準値を超えていれば、自然とそのまま大学に進学だ。勿論、別の大学や専門学校を選ぶ選択肢だってある。この学校では滅多に見られないが、就職する道だってある。

 基準を満たしていれば、大学には入れる。それなのに、成績で先生にぐちぐちと追い詰められている。この時点で察されるだろう。私は、進学するには、色々なものが足りない。

「狐坂くらいじゃないのか、2ばかりの成績表って」

 あはは、と相手が小さく笑う。相手からは見えない、膝の上に置いておいた手をぐ……っ、と握りしめる。くしゃりと、スカートが一緒に握られた。スカートの裾が乱れる。

「狐坂は何か取り柄があるわけでも……ああ、いや、まあ、それはこれからでも、もっと勉強したら見つかるんじゃないか?」

「そうです、ね」

「夏期講習、強制じゃないけど勧めとくぞ。まあ、好きにしろ。出るも出ないも、夏休み明けのテストでいい成績が出せるか出せないかはお前次第だ」

 そう言った彼の言葉は、どこか遠くのように感じて。それから相手が色々と言っていたような気がするけれど、それは全然聞こえてくることは無かった。

 ただ適当に、はい、はい、と返事だけはして。

 私一人だけが暗闇に放置されている様な、そんな寂しさを感じた。


 暫く彼の話を聞くだけ聞いて、再度、考えておけよと言われ、息苦しい空間から解放されたくて、私の脚は自然と早足で学校の外へ飛び出した。

 外に出ると、ぶわり、と海から舞い上がる様にして吹いた風が、私を包み込む。う、と小さく声を零して、顔をしかめて、少しだけ顔を伏せる。

 海からの塩っけのある風は、髪や服をかぴかぴに乾かしてしまう。どうも、それが苦手だった。雑誌に載っている、都会の流行である髪型を真似しても、この海風はすぐに崩すのだ。喉も乾燥するし、髪の毛はべたつくし。海に囲まれたって、海風にずっと当たっていたって、なにも良いことなんて無い。ずっと、恨めしかった。

 ばさばさ、とスカートが荒ぶるのが見えた。

 隙間から見えた自分の足元。ローファーを履いている足先を、左右で少しだけ擦る様にしていじる。

 狐坂は何か取り柄があるわけでも。正直、その通りだと思った。

 この学校に入学した時は、将来の夢のような物は存在していたような気がする。

 元々、私はこの学校に滑り込みで入学した程度の知恵しか持っていないのだ。ただ、進学する前の中学では成績が上だったくらいで。そして調子に乗ってこの学校に入ったらこのザマ。

 今回のように毎学期の終了際に、成績表を見るのが恐ろしい。これが得意ですと胸を張れる教科も無く、どれもが平均よりずっと低い成績。

 それでも、必死に周りに置いて行かれない様にと走り続けていたら、自分の事は蔑ろになってしまった。

 怖かったからだ。

 もし、何かを失敗してしまったら。“失敗すると落ちこぼれ扱いされる”という、恐怖があったのだ。

 私は、この閉鎖的な環境が、少し息苦しく感じた。


 ふわり、と更に生温かい潮風が吹き荒れる。


 父は言う。勉強が出来ないと将来困るのは自分なのだと。

 母は言う。遊んでばかりいないで勉強しなさいと。

 出される問題返答は100点でないと許されない。

「曙美、良い学校に行って、良い仕事に就くのよ」とは母親談。

 幼いころから両親とも教育熱心だった。母親に言われた言葉は、幼い当時の私には訳が分からなかったが、首を傾げながらも頷いた。

 小学中学と両親に見張られながら課題をこなし、小学では満点を取るのが当たり前、中学では90点代が当たり前。そうすれば、母はその時だけ私の頭を撫でてて褒めて認めてくれた。

 それが嬉しかったから、必死に必死に、もっともっと勉強をして。手が鉛筆のせいで真っ黒になるほど、何度も何度も問題を解いた。

 井の中の蛙大海を知らず。この言葉を作った人は天才だと思う。中学では頭が良くても、進学した高校では私は最下層。成績を見せる度に、両親の……特に母親の機嫌は悪くなるばかり。自然と、高校1年のうちで連絡をするのは途絶えた。両親にはメールで、長期休みに入る度に「講習に出るから帰らない」と言って里帰りを拒否した。

 私は、両親のいる家に帰る長期休みが、何よりも嫌いだった。両親が共に居る家は、重圧と畏怖に満ちた法廷そのものだったのだ。

 そして私は、そんな自分を、何よりも嫌った。

 周りを見渡せば、周りは才能ばかりだった。そんな他人と比べて、いつだって心が簡単に折れる。きらきら輝いた宝石みたいな強い何かが、私も欲しかった。

 私は昔から不器用で、私の周りに居た人達が簡単に出来るものを、私は出来なかった。だからこそ、私はただひたすら努力をした。努力をすることしか、私にはできないのだから。それが一度実を結んで、けれどそれが何回も起こる事は無くて。私は直ぐに、母親から裏切り者という扱いに変わってしまったのだ。

 私というものを、認めてもらいたかった、理解者が欲しかっただけなのに。


 ぐしゃ、と音を立てて、スカートのポケットに先程の成績表のコピーを突っ込む。せめて折りたたむべきだったかもしれないとか、そもそも鞄に入れろよとか、思ったけれど。どうせ、この紙はもういらないし。必要ないし。どうでもいいし。誰かに見せるわけでもないし。

 ふらり、と脚が海へ近づいていく。そして、そのまま必死に走った。

 足は縺れ、転びそうになった足を鼓舞して、何とか走り続ける。腕を大きく振り、全てを振り払いたくて、ただひたすらに走る。

 ただ走って、走って、足を止めたのは、地平線がハッキリと見える高台だった。

 はあ、と荒くなった息を整えて、目の前の光景を目につける。

 青、ただひたすらに続く、青――……。

 青い、空が見えていた。青い、海が見えていた。青い空と海をこの目に焼き付けて、まるで自分がその青に解けていくような気分がして。

 ポケットから取り出した恥ずかしい紙きれ。思いっ切り、縦方向に亀裂を走らせた。ビリッと大きな音が響いて、それに続いて、何度も何度もビリビリに破いた。このまま、海へと向かってバラバラに飛ばされてしまえばいい。

 海へと向かって両手を伸ばす。

 期待という牢獄から出られない自分、踏み出せない自分自身を両親の願いを呪いのように受け止め、一歩も外に出られなくなってしまう弱い自分なんて嫌いだ。

 だから、誰かが来て、もう大丈夫だと、両親の願いなんて叶えなくても構わない、そう言ってくれる誰かが自分を助け出してくれるのを待っていた。いつかはこの世界からは抜け出せる。そう信じて生きていた。

 だけど、自分が自分である限り。永遠にこの世界からは抜け出せない。

 自分が、自分である限り。私が、出来損ないでいる限り。


「狐坂さん?」

 そう思っていたのに。

 ふ、と後ろから声を掛けられた。

 ゆっくりと振り向いてみると、そこには誰かが居た。

 現実離れした様な、白金色の髪に青い瞳。整った顔立ちの希龍くんは、きょとんと効果音が付きそうな雰囲気に首を傾げて私を見ている。

 彼が普段使用しているリュックを背負っている辺り、彼も帰宅途中だったのかもしれない。

「どうしてここに」

 久しぶりに、彼の声を聞いた気がした。

 基本的に一人で居て、声を聞く機会と言えば、授業中に彼が名指しされて彼が答える時くらい。彼の声って、こんなに落ち着くような色だったんだ。

 海からの風で、彼の柔らかい髪の毛が揺れている。前髪を整えながらも、彼は未だに私を見ていた。

 正直、ビックリした。彼は、誰ともかかわらないから、他人に興味が無いのだと思っていた。こうして人を真っ直ぐに見る人だったのだと、たった今知った。そして、私の名前を憶えているのだという事も。って、そりゃあ同中だし、覚えてても不思議じゃないか。疑問を持つのはどうも失礼な考えだと、心の中の良い子ぶりたい私が抑え込んで、口を閉ざした。人の先入観など、所詮その程度なのだろう。

 それよりも、海へ向かって伸ばしていた両手を、慌てて背中へ隠した。

「いや、ちょっと、逃げ出してきた? みたいな?」

 真っ直ぐな彼の青い目から目を逸らすように、海の方へ視線を向けた。相変わらずそこにあったのは、広がる青だった。

「希龍くんは? どうしてここに?」

 逆に聞いてみる事にした。

 学生寮は、この海からは真逆の位置に鎮座している。周囲にお店も無い、更に言うとバス停も駅も無い。つまるところ、夏休みを終えた学生が、学校帰りにこの道を通る必要はない。

 浜辺に通じる道も無いここには、私みたいな物好きしか来ないはずなのに、彼が居たのだ。当然の疑問だと思う。

「俺は、家に帰ろうと思って」

 何もおかしいことはないと言わんばかりにあっけらかんと口にするものだから、思わず拍子抜けした。

「希龍君は寮暮らしだったよね?」

「寮暮らしだよ。だけど、休みだから実家に帰ろうと思って」

 夏休みだから実家に帰る。至って普通だ。高校生としての選択基準で、何もおかしいことはない。友人だって実家に帰る。クラスメイトだって大半は家に帰る。

 だけど、私は家に帰らない。帰ってはいけない。

 目の前で淡々と、自分ではあり得ない選択肢を口にしたものだから、思わず拳を握る。ぐしゃり、と紙が更に小さく潰された音がする。込み上げてくるよく分からない感情を押し殺して、愛想笑いを浮かべた。

「成程ね。あ、そうだ。確か、ちはると話してたよね」

「ちはるさん……? ああ、あの子……休みに遊ばないかって、誘われたんだけど……」

「そうそう。ちはるわくわくしてたよ。一緒に遊ぶの?」

「あ~、えっと……」

 何か言いにくそうに口を噤んだ。ずっとこっちを見ていた目を少し逸らして、眉を少し下げて、うなじの辺りを手で掻いている。

「お互い、実家に帰るし……少し、遠いから。断ったんだ」

「あ、そうなんだ」

 ちはる残念。頭の中で思わず手を合わせる。脳内の友人は少し泣いていたが。

「……狐坂さんは? 帰らないの?」

「え? あ、あー……私は、講習を受ける予定だから」

「そうなの?」

 ぱちくり、と彼が少しだけ瞬きをした。まあ、君には必要のない物だろうから、違和感があるのかもしれないけれどね。

「それに、家、あまり、好きじゃないし……」

「え?」

「え? あ、いや何でもない! 何言ってんだろ私」

 ぽつり、と零れた声を彼は拾ってしまったらしい。私は慌てて両手を振って、何でもないと言葉と動作で示す。

 冷や汗が流れて、視線が泳ぐ中、彼は私の方をじっと眺めていた。どうしたのだろうかと思っていると、彼は急にビックリするような言葉を口にする。

「じゃあ、うちに泊まる?」

「へ!?」

「勉強も、何だったら俺が教える、し……親も、多分、喜ぶと思う」

 少しだけ頬を染めて目線を逸らしている限り、照れているのだと言うのは察せれた。けれど、それと同時に、つきりと胸が痛む。彼は、両親の元に帰るだけでなく、愛されているんだろうなと、羨ましいとどこか思ってしまったのだ。そんな自分に、更に嫌悪を抱く。

 つきん、ずきん、とだんだんと心臓への痛みが増していく。

 いつもそうだ。相手が期待しているような言葉を選べなかったとき、心臓がつきつきと傷みだして、絞られるような気分がする。

「えっと、その……」

 どうしようかな、と言おうと、その場で少し地面を踏みしめて身体の向きを変えようとした、その時だ。

 ――がくん、と視界が縦に大きく揺れたかと思うと、ふわりと浮遊感が私を襲う。ちらりと見えた足元。その足元は崩れ落ち、青い海がぱっくりと口を広げ、私を飲みこまんとしている。

 あれ、と思った時には、もう私の体は海を背に空に浮いていた。

 ああ、そっか。落ちるんだ、私。

 ふわりと地面から体が離れて、空気が私を包み込むような、そんな感覚。

「狐坂さん!?」

 希龍くんが私の名を叫んで呼んだのが聞こえた。けれど、私はそれに返事をすることは出来ず、ただ目を開いて、自分の置かれた状況を受け入れるしかなかった。

 どうして誰もここに近寄らないか。そんなの簡単だ。危険だからである。そんなのを分かって、私はここに来ていたというのに。

 自業自得。私にぴったり。

 彼は慌てて駆け寄ってきたけれど、私の腕は動かなかった。どこかを掴もうとも、彼に縋ろうとも、腕を伸ばす行為自体をしなかった。いや、動かさなかった、が正しいかもしれない。その時、私の頭の中は諦めでいっぱいだったから。

 ああ、ここで終わりか。

 だって、もう間に合わない。

 私を助けてくれる者は存在しないのだ。そんなの知っていた。ずっと知っていた。

 こういうとき走馬灯が見えるっていうけど、浮かんできたのは他愛もない後悔だけで。ああ、じゃあ私の人生ってそんなもんだったんだと、そう思った。

 希龍くん、気にしないでいてくれるといいなあ。目の前で同級生が死ぬところなんて、トラウマ物だよね。本当にごめんね。

 でもいっか、終わるんだし。

 これまでは期待を背負って生きるという義務感がどこかにあった。もちろん死にたくないという本能が大前提だったけれど、そこに死んではいけないという使命感があった気がする。親の期待に応えて生きなくてはならない。けれどもう、そういうものは今の私の両肩にはない。落下して逆さまになってしまった際に、落ちてしまったのかもしれない。

 だって、ここから落ちれば、全てから解放されるのだ。

 きっと誰かがいれば世界は続く。そういうものなんだ。かつて生きていた人々が死んでも、この世界が続いたように。

 ぎゅう、と握られ続けていた拳が広がる。その際に、握りしめられていた、バラバラになった紙切れが舞い散った。その光景を見て、じわり、と涙が滲んで、零れ出て、天に向かって昇っていく涙を眺める。


「狐坂さん!」

 目を開いた。どうして、私の目の前に彼が居るのだろうと。

 私はこれから高所から海に落ちて、その人生に幕を閉じようとしていたはずなのに、希龍くんは私を追いかけるようにして、此方に手を伸ばして共に海に落ちようとしている。

 なんということだ。彼は、もしかすると私を助けようとして、足を滑らせて、一緒に落ちてしまったのではないだろうか。

 そうなると、私は大罪人だ。なんてことをしてしまったんだろう。

「ごめんなさい」

 最後に涙が一粒空に向かって昇って行ったと同時に、希龍くんが私の手首を掴み、そのまま私を抱きかかえるような体勢にし、後頭部に手を添えた。

 なんて優しい人なのだろうか。最後まで、ただの他人である私を守ろうとしてくれているのだろうか。

 ごめんなさい、今一度謝罪を口にした瞬間、ドボンッ! と青い海に身体が飲み込まれてしまった。


 ――瞬間、目が眩むほどの閃光が走る。

 それが目を……いや、脳にまで射貫いたようで、身を守るために目を瞑った。目を瞑ったのは一瞬で、固く閉じた瞼をゆっくりと開く。

 世界を受け入れた瞳に映る景色は、全てが歪んでいた。水の中だからだろうか。透明で、かつ青い空間の中、私はぱっちりと目を開いてその光景を目にした。

「狐坂さん大丈夫だよ」

 水の中のはずなのに、どうして彼の声がハッキリと聞こえるのか。ああ、これは正しく夢のなのかもしれない。

 必死に伸ばす腕は、ぐにゃりと曲がったかのように見えて気持ち悪い。思わず、しがみつくように、必死に希龍くんの服を握りしめた。


 りぃん、と鈴の音がした。

 綺麗な音が聞こえて、そちらに意識を向ける。本当に、小さな音だった。いつもだったら聞き逃していただろう。けれど、今の私にとってその音は、まるで救いのように思えたのだ。地獄から抜け出すための、希望の光の様に。

「ただいま」

 希龍くんが鈴の音が鳴った方へ、腕を伸ばす。

 眩い光に包まれて、目が眩んで、再度瞼を閉じる。今度は先程のように、鋭い物ではなかったのだけは、ハッキリと分かる。

 瞼を閉じて、今度はどうなってしまうのだろう。そう考えられたのは一瞬だ。

 ズンッ、と体が重くなったかと思えば、ぶわりと下から風がふき上げている。上から下から、其々の圧に挟まれて潰されてしまいそう。

 正直に言えば、嫌な予感しかしない。先程までの状況も最低な感覚だったが、今の状況も中々に最悪だ。嫌な現実を受け入れたくなくて、固く閉じていた瞼を、ゆっくりと開いた。

「……家?」

 先程は出なかった声が、今度はハッキリと出る。だが、出た声はすぐにどこかへ飛んで行ってしまったけれど。

 瞼を開いて見えたそこに見えたのは、一面の青、煌めくのは水面。目の前に広がるのは、海のような空間だった。そんな水の中に沈んでいる、一つの民家。幻想的な光景、とはこのような事を言うのかもしれない。

 真っ青で透き通っている水は、キラキラと光を反射して、水中にある建造物まではっきりと姿を見せていた。


 そんな景色を、何で私は俯瞰しているのか。答えは簡単だ。


「そ、そ、そ、そんなバカなあああ!」

 な、何これ何これどういうこと!?

 体に強く吹き付ける風は、今の状況を嫌というほどはっきり表していた。

 下から私を押し付けてくる風圧、大きく揺れる私の体、地の感覚がない足元。これってどう考えても……。

「え、なんでどうして!? また落ちてますよねええぇ!?」

「大丈夫だから、落ち着いて」

 私の声が天に昇っていく。空に響く声とはまさにこのことを言うのだろう。

 海の中に沈んで終わり、かと思ったら不思議な空間に出て、また落下という恐ろしい経験をしている。混乱している私を宥めるように、至って平然と口にする希龍くんにすら恐怖すら湧く。だって、落下しているんだよ? それなのに大丈夫って何?

 確実に水面との距離を縮めている私達。これから落ちる場所は海……に見えるから海と考えよう。固い地面に比べれば幾らかマシ、なのかもと思ったけれど、この高さから海に落ちたら、地面の固さと何ら変わりない。待ち受けているのは、確実にぺしゃんこになる未来だ。

「……っ!」

 もう駄目だ……! いくら大丈夫だと言われたって、何が大丈夫なのかも分からない。

 先程の諦めと、決意はどこに行ったのか。自身のゆるゆるな意志に逆に尊敬すらする。

 これから来るのであろう痛みに備え、瞼をきつく閉じた。

 りぃん、と、また鈴の音が聞こえた。そろそろ、あの世に行くのかもしれない。


 意識が遠くなり始めた時……――ザバアッ!! と、大きな水柱が目の前に上がる。

 突然の事に驚いて目が開き、声も出ないでいると、私の体はその水の柱に包まれた。急な出来事で、息を溜める事も出来なかった。身体の中に酸素を蓄えることができなかった。

 びっくりして、口から空気が泡となってぼこりと零れる。貴重な空気を逃してしまったかもしれない。

 水に包まれて、視界は最悪。勢いのある水の中では、とてもじゃないが何も見えない。

 だが、目の前に、何かの影が現れたのだけは、ハッキリと分かった。

 ごぼごぼ、と口から泡が大量にこぼれる。驚いて、口を開いてしまって、声の代わりに空気を蓄えた泡が大量に逃げて行った。

 死の間際、私は見えてはいけない物でも見てしまったのかもしれない。

 りぃん……。何度目かの水の音を聞いたところで、鈴の音が大きくなる。

 目の前に何か居る。希龍くんは私の手を、しっかと掴んで引き寄せる。何も掴めていなかった私の手を、捕まえてくれた。

「お迎えだ」

 あの世からの? とは怖くて聞けなかった。

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