自他

御愛

どっち

「先輩。先輩は今、自分が生きている事を証明出来ますか?」


 春らしく満開の桜と陽気に溢れ、若者の色情をひさぐこの頃。校舎裏の予約はいっぱいで、連日のように二人の異性または同性が身の丈の想いを打ち明けている。しかし恋愛など無縁な僕は春日遅遅とする本日に、独り愉しく学校図書館にて読書に励もうとしていた。


「後輩。僕は人が折角の読書をしている最中に話しかける行為は、少々度し難いものだと認識しているが」


「折角の読書とはまた大袈裟ですね。先輩は少し肩の力を抜いた方が宜しいかと愚行しますが」


 僕の折角の読書を阻み話しかけて来るのは年齢性別出所及び正体不明の後輩だ。僕の許可も無く隣の椅子を引き、そこに腰掛けこちらに身を乗り出してくる。


「それで、先輩。先輩は今、自身が生きている事を証明できますか?」


「何故僕にそんな問い掛けをするんだ?」


「いいから、答えて下さい先輩」


「僕は今本の頁をめくり、発声し、君との会話が成立している状態にある。これは僕が生きている証査にはならないだろうか」


 早々と一人の世界に閉じこもりたい僕は、会話を長引かせるより答えを返した方が得策だと判断した。


 この応えを聞いた後輩は、予想通りと満足そうな顔をした後、自慢げに胸を逸らし頬を少し吊り上げた。


「ならないですよ。先輩は機械かも知れないのです。先輩の腕はss400でできていて、発声器官を通さずに音声データを流し、人との会話が可能である高度な人工知能が搭載されているかもしれないのです。機械は生きているとは言えません」


 何だその理論は。巫山戯ているのだろうか。ニヤニヤと人を馬鹿にしたような笑みを浮かべる後輩を白けた目で見つめるが、本人は変わらず愉快そうにしている。


「機械では再現できない生理的で繊細な運動はどうだ」


「いいえ、先輩は遥か先の未来からやって来た22世紀の猫型ロボットもビックリな人型ロボットかも知れません。今先輩が仰ったものも含め、あらゆる先輩の動きを模倣し、傍目には区別がつきません」


 巫山戯ているな。間違いない。


「そもそも私が判断する限りでは、放課後真っ先に図書室に向かい、活字に塗れた全675頁の文庫本を死んだ目で読み耽る先輩は、同じ人間とは思えません」


「それは別に関係ないと思うが。というか後輩はそれが言いたかっただけだろう」


「バレちゃいましたか」


 そうあっさりと告げる後輩は、あっさりとし過ぎて逆に別の目的があるのではと僕に疑わせたが、これ以上会話をする気の無い僕は、黙って本に視線を落とした。


 たがこれで終わりかと思いきや、改まった口調と雰囲気で、後輩は再度問いを発する。


「先輩。先輩は今、自分が確かに生きていると、証明できますか?」


「その問いには答えたはずだが」


「YESかNOでお願いします」


 僕も改めて考える。後輩のこのふざけたような禅問答に真面目に答える理由などないのだが、僕は律儀に反応してしまうのだった。それは僕が理性をもって意識している部分にあるものではないのかも知れない。ことわりを無くした純粋なさがであると感じた。


 しかし真面目に考えた僕は、この問いに答える事事態が面倒臭くなってしまった。そもそも面倒に思う時点で答えは出ているだろうと、ついさっき気がついた。


「NO」


「それは何故ですか?」


「YESと言えるだけの根拠がない。消去法だ」


 本から顔を上げ、チラリと後輩の顔を窺う。僕はそれを見て、少し驚いた。


 後輩はどこかつまらなそうな、繰り返し読んだ漫画本の結末を眺めるかのような表情となり、そのまま暫く無言でいた。


 僕はその空気に少し居心地の悪いものを感じ、自ら気乗りのしない会話の糸口を探し、ついには言葉にしてしまった。


「それで?後輩は、そんな事を訊いて何がしたいんだ?」


 反応は無い。まるで屍のようだ。しかしその屍は次の瞬間、眼球運動を行いこちらの目を見透かすように見つめて来た。


「別に、何でも無いです」


「何でもない奴がする表情じゃないだろう」


 また無言の時間が続いた。


「……なんでもないですってば」


 それだけ言うと、後輩は僕に背を向け、足早と言うよりは遅く、しかし早くこの場から逃れたい想いが感じられる足取りで去っていった。


 遠く聞こえる後輩の靴音が霞んでいく。やがて完全に無くなると、辺りからは音が消えた。


 閑散とした図書室からはいつの間にか色が抜け落ち、そこに唯一人居座る僕を責め立てるような圧迫感を醸していた。


 僕は本の世界に入り込む事が出来ず、朧げな後輩の影が、いつまでもそこにある様な気がしてならなかった。



 翌日、後輩は図書室に来た。


 僕は机に置いたままの本を開く事もせず、後輩の来訪を待っていた。その姿が確認できた時、僕は不思議な満足感を得ていた。


「こんにちは、先輩。今日も来ていたんですね」


「ああ」


 軽く挨拶をした後輩は、そのまま幾つか並立している本棚の方に足を向けた。そのまま僕の前を通り過ぎる。


 僕は思わず、その背中に声を掛けた。


「何の用で図書室に来たんだ?」


 僕は昨日の件について、後輩が話し出すのを待っていた。意味有りげに去って行ったその時の姿が、やけに鮮明に目に焼き付いていた。


 そして今日、この場所に後輩は来た。そこには僕に会う意図が有ったとしか思えなかった。


 後輩は僕の方へ振り返った。無表情だった。希望を持たざる者の目、鼻、口。その爪先までが、虚無に支配されているのではと錯覚しそうなほどに。


「何の用とは、ただ本を借りに来ただけですよ、先輩」


 淡々と、答えが吐き出された。


 僕は一体何を期待していたのだろう。そこに答えが有るとは限らないのに。しかしいつもの後輩とは違っていた。僕には何もないと言う後輩の何かを知りたくて、どう問いかけたものかと思考を反復していた。


 ため息が聞こえた。それは目の前から。


「……この世で唯一絶対なものと言えば、何でしょうか」


 昨日の続きか。繰り返された思考に一筋の雷鳴が走った。僕は思考を切り替え、後輩の問いにシフトする。


 唯一絶対なモノ。それはどこまでも傲慢で、独りよがりなもの。他と相容れないが故に成り立ち、複数の意味を持たない。いや、或いはそれすら飲み込み、あらゆる場面での絶対性を確立する。


「それは……」


 僕が答えを発する直前。強引に噛みちぎるように後輩は自分の答えを提示した。


「唯一絶対なモノは、言葉です。先輩、貴方には、嘘でも、YESと、言って欲しかった」


 意味が分からなかった。いや、理解しようとしなかったと言った方が正しいか。


 それはつらつらと語られる。


「言葉は、形を作ります。定め、型取り、落とし込み、塗り潰す。意味を伴って、共通なる絶対性を確立します」


「私の変な我儘です。貴方は生きていると証明が出来ないし、私は貴方が生きているとも確証が持てない。それは貴方が証明出来ないと言ったからだ。私は貴方が生きているかもしれない希望は持つ事が出来るが、それは薄氷の上の鉛でしかない。或いはオスミウムか」


「僕は生きている。こう言えば良いのか?」


「私は冷めてしまったのですよ、先輩。もうダメです。酷く感情的な問題なのですよ。貴方が例え本当に生きていたとしても、貴方がそれを証明出来なければ、なんの根拠にもなりません」


 支離滅裂だ。それこそ何の根拠をもって言っているのだろか。いや、これが感情的なモノだと言う理由か。僕が証明出来ないと言ってしまったから。いや、それすら後輩は最初に意気揚々と否定を並べていたではないか。


 分からない。後輩が何をしたいのか、何を求めているのか分からない。


 そもそも僕がそれを証明できると言ったらどうなっていたのだろうか。それは結局のところどこまでも果てしない問いに他ならない。有るとも言えるし、無いとも言える。


 だからこそ、感情が唯一とも呼べる指針になるのかも知れない。感情的な問題と言ったのは、そういう事か。


 いや、そも僕があの時生きていると証明が出来ると言ったところで、何が変わるとも思えなかった。それだけでこうも人を変えるなんて、馬鹿馬鹿し過ぎる。


 そこまで考えて、後輩が目の前まで近づいている事に気づいた。それは椅子に腰掛ける僕を上から見下ろすように、その双眸は怪しい光を持っていた。


 後輩は僕の考え全てを見透かすように、言った。


「きっと、先輩は混乱している事でしょう。私が何を言っているのか、何を言いたいのか分からず、ただ無為に思考を重ねているだけ。先輩は真面目ですから、思考を止める事が、出来ないんですよね?そうやって、いっつも真剣に私の問いを、考えてくれてましたよね」


 酷辣で、真剣な笑顔。それは自らと僕に対してのものか。


「あははははははははははッ」


 笑うと、両手を頬に添えて、そのまま後輩は発狂した。


 体を大きく振るって、回し、近くの本棚に体を衝突させた。多くの本が塵一つない床に転がった。


 体を打った後輩は痛がる素振りも見せず、すぐさま床に手をつき起き上がると、また狂ったように鳴き声を上げた。


 僕はただその姿を、呆然として見ているだけだった。


 だんだんと、今まで見ていた後輩が、得体の知れないモノに見えてきた。


 それはまるで理解の及ばない、未知との遭遇だった。 


 色の抜けた世界に、唯一人の後輩が、異彩を放って存在していた。



 笑い転げる後輩を、僕は黙々と考え、延々と眺めているのだった。


 

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