新しい風

招かれざる客は…

スーツ姿での通勤ラッシュにどれだけ馴染んでしまったのだろう。ふと外に目をやると、パステルカラーを塗りたくった空が顔を覗かせる。夕暮れ時のこの色だけは日々違う新鮮さを残して…




交差点に降り立つと、ビル越しの空。人混みに歪む信号の色が変わる。重苦しい空気の中早足で歩き始めた。高層ビルの窓ガラスに映るニセモノの空を目で追う…ふと、路地裏に惹かれた。 いつもなら気にかけることもない小道に、異様な空気を醸し出す一角が。

『Hatman』そう小さく書かれた黒帽子の看板が、風もないのに揺れている。小路こみちの奥に佇むその異様な雰囲気に、胸の中がざわめき出す。

一瞬のように感じる。気が付くと、古びた店のドアノブに手を掛ける自分が居た。

一瞬、呼吸を忘れた。辺りが真っ白に感じる。思いきってドアを押し開けた。

ギギギッ…っと古めかしい濃茶のドアから錆びた蝶番ちょうつがいが音を立てる。




……オレンジ色。




店内に入ったとたん、目の前を染めたのは、夕暮れ時の眩い斜陽だった。



「いらっしゃい」


突如、緊張感に襲われた。掠れ気味の野太い声がぞくぞくと背筋を震わせる。はっと我に返り、辺りを見回した。息が詰まりそうだ。


………。


一面に斜陽を受けたカウンター。

キィキィと椅子が鳴き、声の主のシルエットが浮かんだ。



「生憎とマスターは留守でねぇ。今買い出し中だ。…あんた…新顔だね?」


着古した萌木色のコート、草臥れたシャツ、弛めたネクタイ。

ぼさぼさの櫛を通していないらしい髪……おまけに口元には消えかけの煙草が細く煙を吐いている。のっそりと立ち上がりジロリと俺を見た。


「新顔も何も…今日初めてこの店に入っただけで……」


迫力に気圧されながらも、声を振り絞る。その声の情けなさに自分でも驚いた。

男はぽりぽりと顎の無精髭を掻く。まるで樋熊か何かだ。


「まぁ、なんだ…取り敢えずそっから降りて来たらどうだい?」


「えっ?」


指を差されて眼をやると、ドアを入ってすぐの階段上…一人立ち竦んでいることに気が付いた。(そういえば…オレンジ色に見とれたまま、目が釘付けになっていたっけ。)

辿々しく階下へと足を進めた。五段しかないというのに、嫌に足が重たい。


カツン…カツン…

無意識だったと思う。やたらと時間をかけて降りるこの感覚。


「悪かったなぁ、脅かしちまって…。」


男は尚も顎を掻きながら、目尻を下げる。眉がわざとらしくハの字を描いた。


「あっ…いいえ。」


意外な表情に間抜けな返事をした。

俺は不自然な程、この人に対して苦手意識を持っている。何故だかは解らないが…第一印象からこの手のタイプとは馬が会わないと感じていた。



カチャン…ギギギギッッ



「こんにちは~。マスター、いらっしゃる?」


ドアが開き、華やかな声が響く。

男二人のむさ苦しい空間に、突如として美女が顔を覗かせる。


冷たい空気が流れ込み、秋風が顔を掠めた。



「あら~、藤堂さんじゃない。」


「櫻子さん!いやぁ~、生憎とマスターは留守でね。買い出しに行くってんで、留守番俺に頼んできてさぁ…」


二人共この店の常連らしい…何やら話が弾んでいる。

ふんわりとしたブロンド髪に柔らかい口調。白のワンピースを清楚に着こなし、肩には桜色のストールを纏い、足元にはラベンダー色のハイヒール。淡い色彩に際立って映える白い肌。穏やかな大人の女性だ。

……なるほど。

この美女の登場に男は一変し、慌てて煙草を左手で取り去った。その上そわそわと落ち着きがない。


……ふと、女性は此方に目を向けた。


「え~と藤堂さん、そちらの方は?私は初めてお会いするけど……マスターのお知り合い?」


「あのっ!俺は…」

「あぁっ!こいつは…」


質問に備えていた俺と、傍らの存在を思い出した男の声が綺麗に重なる。驚くと同時に言葉に詰まり、お互い顔を見合わせた。


櫻子という名の女性も不思議そうに首をかしげる。…数秒無言が続いた。





ブロンブオンッ…ガチャッ、バタンッ…

奇妙な沈黙は車の音で掻き消された。


…カツカツカツ…

足音が近付いてくる。


ギギッ…

店のドアの隙間から白く細い指が掛かる。




「おやっ、ドアが開いてると思ったら……皆さんお揃いで…。」


白髭の男性が此方に目を見張らせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る