MAGIC HOUR
靑煕
純喫茶の喧騒
【Hatman】
早朝…人々が眠気を孕んだ瞼を開く頃、仄暗いカウンター越しに人影が映る。
柔らかく豊かな新雪の白髪頭に透ける肌。たっぷりと髭を蓄えた口元からは薄い唇が覗く。腕捲りに黒ベストのYシャツ姿。上着は椅子上に追いやられ、黒ベストが光沢を魅せる。針のようなシルエットに、重ねた年月が伺えた。そのゆったりとした佇まいに反し、指先は手際よく器用に動く。
天窓から細く柔らかな光が差し込む店内は、ずらりと並ぶ珈琲缶が冷たく反射している。丸みを帯びた銀のヤカンに注がれる水音。沸かした湯の蒸気に、其処だけが暖まる。
露の滴る窓辺の植物達は、朝の訪れにどこか嬉しそうだ。入れたての珈琲の薫りが清潔な空間を漂い遊び回る頃、『Hatman』の時間は動き始める。
『Hatmanの日常』
早朝の気儘な準備。
試飲を兼ねた一服に最高の一杯を注ぐ。この時間は特別だ。
表に看板を出し、ドアにオープンの知らせを掛けると、其処はもうHatmanの世界だ。こうして私の毎日は始まる。
カランカランッ……
「こんにちは」
ドアが開くと、涼やかな声が店内に心地好く響いた。
「あぁ、いらっしゃい。いつものでいいね?」
私はグラスを拭く手を止め、銀のヤカンに水を注ぐ。
「ええ。お願いします。」
長めの黒髪がしなやかに揺れる。
紅色のタートルネック、黒チェックのロングスカート、渋茶のヒールブーツ。可愛らしいお客の登場だ。そう、彼女も常連の1人。
彼女の声を聞き、野太い声が上がった。
「よぉ天音ちゃん。まぁた来たのかい、案外お前さんも暇だねぇ。」
少し癖のある先客は、煙草を吹かしながら振り返った。カウンターのこの席から彼女にちょっかいを掛ける彼。と言っても、彼なりのコミュニケーションのつもりなのだろう…いつも少しニヤケ顔だ。
少々胡散臭い出で立ちだが、仕事の徹夜明けは良く此処に来る。もう20年の付き合いだ。
「うわっ、また居る…。気分転換しに来てるだけですよ、私は。そちらこそ、仕事はいいんですか?こんな時間に……というより本当に仕事してるんですか?」
馴染みの窓側テーブルに大きな鞄を横たえながら、彼女は訝しそうにこちらを眺めた。
「ひっでぇなぁ……俺は今朝まで山場だったの!ちょっとぐらい休ましてよ。せっかく優雅に一服入れてるってのに。おじさん悲しいなぁ…」
ユニークに切り返してみせるが、萌木色のコートはすっかり色褪せていて、彼の仕事の厳しさを物語っている。
いつものやり取りを終えると、煙草を揉み消し、胸ポケットから新たに一本取り出した。
見かねて私も声を掛ける。
「藤堂さん、疲れているのもわかりますが…流石に吸い過ぎですよ。」
硝子の灰皿には既に吸殻が3つほど、灰を纏って転がっている。
「なんだい、寂しいこと言うねぇ…マスターは天音ちゃんの味方かい。」
渋りながらも胸ポケットの手を止め、私を流し見た。
私は少し言葉を吟味したが…
「そうではなくて…その舌では、うちのブレンドの風味が台無しでしょう。」
「………マスター……あんたって人は…。」
珈琲最優先の言葉に、彼も呆れを通り越した口調で私を見返した。
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