第5話
子供のはしゃぐ声が聞こえる。
それに重ねるように、ひよこがぴよぴよ鳴いている。
ひよことの触れ合いコーナーに来てから早二十分。大きめの箱に入れられたひよこは私たちの近くに寄ったり離れたり。
落ち着きがないのは、人間の赤ちゃんもニワトリの赤ちゃんも同じらしい。
私はそれをぼんやりと眺めた。
小さい子供たちはひよこに触りながら、一緒に来ている家族と笑い合っている。一方私たちは無言のまま肩を並べてひよこを見つめている。
ひよこに触りたいと言ったのは桃だ。私はそれに付き添っているのだが、桃は石像になったかのように固まっている。
もしや悪魔はひよこに触ると大ダメージを受けるとか、そういうのがあるんだろうか。
時間制限もあるのだからいい加減触れ合わないと勿体無いと思い、私はひよこをそっと掌の上に乗せた。
爪が少し食い込んで、痛い。それでも顔を顰めるほどの痛みではないから、私はひよこに笑みを向けて、そっと小さな頭を指で撫でた。
ぴよぴよ、ぴよぴよ。
黄色いふわふわは楽しいのかそうでないのか、延々と鳴き声を上げている。
可愛いと思う。
……しかし。
桃の様子が気になりすぎて、癒やしどころじゃない。
「ほら、桃。手ぇ出しな。ひよこ、乗せたげる」
私はひよこの乗った手を桃の方に差し出した。
桃はびくりと体を跳ねさせて、のけぞる。
なんだ。ひよこには見えない磁場でもあるのか。
「いや、逃げんなし。怖くないから。ちょっと爪は痛いけど、ひよこだよ? 赤ちゃんなんだから、んな怖がらなくても……」
「違うんです。怖いは怖いんですけど、そうじゃなくて」
桃は自分の両手を見つめている。
小さな両手だ。
それが、なんだというのか。
「壊してしまいそうで、怖いんです」
「……?」
「その……私は、あれですから」
悪魔、と言いたいのだろう。
桃は不安げに私の目を見てくる。
迷子になった子供のような顔だ。
「私は、人とは違うから。だから、この力で小さな命に触れるのが、今になって怖くなってしまって」
確かに桃は、力が強い。りんごくらいなら簡単に砕けそうなほどに握力があると思う。尻尾だって、私を拘束する程度の力は出せる。
まさか、彼女はその力を制御できないのだろうか。
あんなにはしゃいでいたのに、一転して曇った顔をしている彼女を見て、私は言い知れない感情がふつふつと湧き上がるのを感じた。
「ひよこは桃に触ってーって言ってるけど」
「……」
桃は一切表情を変えない。こういうのでその気になるのは、幼稚園児だけかもしれない。
仕方なく、私はひよこを箱に戻した。
「桃ってさ。小学校でウサギと触れ合ったりとか、しなかったの?」
「……はい。壊してしまったら、怖いので」
表現が怖い。
壊してしまったらって。
「でも、触りたいからここに来たんでしょ」
桃は何も言わない。
小さな命に触れることになんの意味があるのかは、わからない。情操教育とかいまいちよくわからないし、触ろうが触るまいが、私は私だ。
でも、桃にとっては違うのかもしれない。十三年間誰とも抱き合ってこなかったような子供なら、小さな命に触れたいと願うのも無理はないのだろう。
温かくて、柔らかくて、脆い。その感触を、一度は味わってみてもいいのかもしれない。
私は桃に手を差し出した。
「手、掴みな」
「え?」
「命はそう簡単に壊れないってこと、教えてやるわ」
私は桃の目をまっすぐ見つめた。
痛いのは嫌だ。
でも、ここでずっと桃の暗い顔を見ているのはもっと嫌だ。
ひよこなんて、安心して触っていいものだ。それを今ここで、私が証明してやろう。そうすれば桃だって、少しは明るくなるはずだ。
「思いきり握ってみ。私はそれで死んだりとか、しないし。……それにさ。一度思い切り力入れたら、自然と力が抜けるようになるらしいし」
「で、でも……」
「桃がひよこに触ってくんないと、私が癒されない。……癒すのが、契約でしょ」
「……はい」
触りたいときに、触りたいものに触っていい。子供なんてそういうものだ。
桃は中学生だから、もう少し色々なものに気を遣った方がいいのかもしれない。
それでも、今まで子供らしいことをしてこなかったのなら、今からでもすればいいと思う。幼い頃にできなかったことで、今したいことがあるのなら。
躊躇わなくていいはずだ。
誰も……いや、少なくとも私は否定しない。耳かきの時みたいに痛いことをされたら怒るだろうけれど。
桃の小さい手が私の手に触れる。
確かめるようにぎゅっと握られ、次の瞬間、鈍い痛みが走った。
恐ろしく痛い。小さくて可愛らしい手からは想像できないほど強い力で、骨が軋む。さっきよりも多分、強い力を込められている。
これが悪魔の力か。
痛くて額に汗が滲んで、涙が出そうになる。私は一体何をしているんだろう。こんなことに本当に意味があるのか。
「痛くないですか?」
不安げに尋ねてくる。
私は笑った。
「痛いわけ、ないでしょ。鍛え方が違うのよ、鍛え方が。桃の力なんて、んな程度よ」
泣きそうなくらい痛い。
でも、涙なんて流したら桃は今後一切、命との触れ合いができなくなりそうだから。だから、耐えた。
気を遣っていると思われたら嫌だとか。馬鹿馬鹿しいことをしているとか。色々思うけれど、ひよこも触れないくらいに積み上がった恐れを崩すくらい、してもいいだろう。
今の桃を見ているは私が嫌だから。私のためにやっている。ただそれだけだ。
しばらくすると、徐々に力が緩んでいく。
手の感覚がない。私は握り締められて指の跡がついた手を閉じたり開いたりして、感覚を取り戻そうと試みた。
「ほら、平気。だからとっとと触りなよ、ひよこ。時間きちゃうから」
私はそう言って、右手で桃の背中を叩いた。
桃は一瞬ぼんやりとした様子を見せたが、やがて、私に笑いかけてきた。
綿毛みたいにふわっとした、柔らかい笑み。私はその笑みに、視線を吸われた。
ちゃんと笑えるのなら、それでいい。私も右手を犠牲にした甲斐があるってものだ。
「い、いきます」
桃は恐る恐るといった様子でひよこに触れる。そして、そっと掬い上げるようにひよこを掌に乗せた。
誰の手に乗っていても、ひよこは何も考えずにぴよぴよ鳴いている。
その鳴き声が、桃の耳にはどう響いたのだろう。
桃は大きく目を見開いて、愛おしむようにひよこを撫でる。
「ほら、平気っしょ」
「……はい。命って、温かいんですね。それに、小さくて、柔らかくて、ちょっと痛い」
桃はふにゃふにゃした笑みを浮かべる。
さっきまでこの世の全てが怖いみたいな顔をしていたのが、嘘みたいだ。
「そうそう。そうやって笑ってな。そっちの方が……」
言いかけて、やめる。
油断するとすぐこうなる。
余計なことなんて、言わない方がいいというのに。
「そっちの方が、なんですか?」
青い瞳がじっと私を見つめる。
余計なことを言うな。
自分に言い聞かせたが、その瞳に見つめられていると、言葉が喉から勝手に出てくるような感じがする。
「そっちの方がよっぽど、可愛いから。女は愛嬌よ、桃」
ぽんと、右手を彼女の頭に乗せる。
ひよこよりも鮮やかな金色の髪が、ふわりと揺れた。
アニマルセラピー、ほんとに効果あるのかもな。
こうやって彼女の髪に触れていると、少しだけ。ほんの僅かばかり、心が休まるような気がした。
「あ……」
桃はぼんやりと私を見つめる。
私たちが沈黙すると、その間を埋めるようにひよこが鳴き、子供たちの声が響く。周りからどんな目で見られているのかわからないまま、私は笑った。
「可愛い、なんて」
「ん?」
「初めて言われました」
桃はひよこを胸に抱き寄せる。
可愛いなんて、日常的に使う言葉だ。何を見ても可愛いと言っておけば大体どうにかなるから、友達にも動物にも可愛いと言うようにしている。
私だって、今まで友達からも近所の人からも、可愛いと何度も言われてきた。その言葉に気持ちがこもっているかとか、嘘か本当かとか、そういうのはどうでもいいと思う。
でも、本当に心から何かを可愛いと言ったのは、久しぶりな気がした。だからなんだって、話なんだけど。
「もっと言ってみて、くれませんか」
いくら言ったって、別にいい。
しかし。こういう積み重ねの先に好意が生まれるのなら。少し、怖いと思う。それでも、一度発した言葉を飲み込むことはできない。そして、一度言ってしまったのなら、二度も三度も同じだ。
「可愛いよ。桃は、多分私が知ってる中で、一番可愛い」
それは事実だ。桃は外国の血が混ざっているためなのか、目鼻立ちもはっきりしているし、人形みたいに可愛らしい。
これで表情がもっと自然で明るければいいのだが。
不安そうな顔をしたり、暗い顔をしたりする頻度がそれなりに高いから、心が乱される。いくらでも代わりのいる誰かから、星野実來に戻っていく。
そうなると後が辛いとわかっているのに。平静を保つことができない私は、まだまだ未熟だ。
でも、桃と契約した時点で、私はもう元の私に戻らざるを得なくなっているのだろう。桃が必要としたのは他の誰でもない私で、彼女と契約を結んだのも、私以外の誰でもない。
もしかすると私は、絶対にするべきではない契約を、してしまったのかもしれない。
「だから、別に。胸を張って生きても、いいんじゃない」
余計な言葉が積み重なっていく。
痛みのせいか、相手が悪魔だという事実が私の脳を鈍らせているのか。
わからないが、私は普段口にしないようにしているような言葉を、いくつも口からこぼしてしまっている。
「……実來さんって」
繰り返される私の名前。
いつもは遠くで響いているように聞こえるその名前が、妙に鮮明に聞こえる。
「優しいんですね。……それに、あったかい」
「いや、別に。こんなことで優しいとかあったかいとか言ってたら、そのうち変な男に騙されるよ」
「大丈夫です。これでも私、人を見る目はあるつもりですから」
見る目があるなら、契約相手に私を選んでいないと思うが。
「私、実來さんのこともっと癒して差し上げたいです。もっと色々なこと、話したいです。もっともっと、仲良くなりたいです」
桃は真剣な顔で言う。
いや。
ひよことの触れ合いコーナーで、そんな顔する?
「だから、これからも。その、よろしくお願いします」
「あー、うん。よろしく。……それはいいけどさ。ひよこ、もっと触ったら?」
「……私、実來さんとも触れ合いたいです」
ひよこを箱に戻して、桃が言う。
初めて会った時と同じように、桃の顔が触れ合いそうなほど近くに迫る。
いやいやいや。触れ合うって、何。そういうこと?
駄目でしょ、それは。
「桃」
「はい」
「めっちゃ見られてるからさ。そろそろ、出ない?」
「……あ」
気づけば周りの視線が私たちに集中している。
そりゃそうだ。
ひよこそっちのけでこんなことしている奴がいたら、私だって見るだろうし。
「そ、そうですね! 行きましょう!」
桃は私の手を握って歩き出す。
その手に込められた力は、決して強くない。
ちゃんと力加減を覚えられたのなら。これからも、手を繋ぐくらいはしてもいいのかもな、と思う。
それってどうなのよと、ちょっとは思うけれど。
どうせ、契約からは逃げられないのだ。なら、別に。いいんじゃないか。
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