第5話 スレーの秘密
夕方六時が薬屋のオープンの時間らしい。キリもよく、イーリスは帰宅することになった。
「おいしかったです。ありがとうございました」
「いえいえ、喜んでもらえて嬉しかったです」
少年から感謝の言葉を言われると、イーリスの胸がいっぱいになった。
「……お前。この、闇の薬屋にはもう来るな」
沈黙の多かった店長から出た拒絶の言葉。なごんでいたその場の雰囲気が、一気に冷めきった。
「え……?」
「お前のような、心の優しい人間が来るような場所ではない、ということだ」
「そう、ですか……」
心の優しい人間。自分でそう思ったことはない。学園の友人から「イーリスは素直だよね」と言われたことはある。そのときは「どこか抜けてる」と図星をつかれたようで、純粋には喜べなかったけれど。
シヴァンから見たら、イーリスは心の優しい人間に見えるのだろうか。
得体の知れない薬を求めるのは、誰かをおとしめるような悪い心を持った人もいるのかもしれない。
少年がそれを否定しないのは、店長と同じ気持ちだからだろう。イーリスはもう、闇の薬屋に来るべきではないと。
忠告には素直に従った方がいいのだ。
ベーコンサンドを振る舞って、お礼を言えたからそれで満足じゃないか。このお店との関係はこれで終わりだ。
「わかりました。お礼をしたかっただけなので、今後は来ることはないと思います」
「……落ち込まないでください。本当は気軽に来てほしいくらいの気持ちですが、女の子の夜道も危ないですしね」
少年が店長の言葉を柔らかく言い直してくれた。
「いいえ。大丈夫です」
そう言いながら、もう会うことのない人たちなんだなと思うと、イーリスの心は寂しくなった。
(口の悪い店長さんと、心優しい男の子。二人の雰囲気は嫌いじゃなかったのにな……)
少年に案内されて、薬屋の出口に向かう。
心に受けたダメージのせいか、つい、前方がおろそかになっていた。ちゃんと前を見ていれば、こんなことにはならなかったのに。
雑然と並べられた棚に、薬の瓶がつき出ていた。それに気づかず歩いていると、おでこに衝撃が走った。
「痛っ……!」
おでこの痛みに気を取られていたら、床からガシャンと瓶の割れる音が。
液体のしぶきが飛んで、前を歩いていた少年の足元に薬の緑色の液体がかかっている。彼の靴に濃いシミがにじみだしていた。
「すみません! 大丈夫ですか?」
「大丈夫……あっ!」
返事をしかけた少年は、床に転がる瓶のラベルを見て、言葉を失った。まずいものを見たかのように、口を開いたまま体が固まっている。
とんでもない薬だったのだろうか。
「あ、あわわ……!」
声を震わせて、少年は助けを求めるように、店長のいる店の奥を見つめた。
スレーの靴が、シュウシュウと音を立てて溶け出してきた。辺りに白い煙が立つと、少年の姿はぼやけて見えなくなった。
(こんなとき、どうしたらいいの!)
火事なら水をかければいいが、訳ありの薬から出た煙の対処法は全くわからない。
「て、店長さん!」
と、イーリスが叫んで、あたふたしたままなにもできずにいると、わずかに視界がはっきりしてくる。
少年の着ていた白シャツと黒ズボンは、その場に脱ぎ捨てられていた。その上には緑の目、黒い耳の持った黒猫が。その猫はピョンと飛び出した。
「猫!?」
闇に浮かぶ緑の瞳。間違いない。トンネルで見かけた、あの黒猫だ。
「見られてしまったからには、ここから出すわけにはいかないな」
後ろから店長の声がして、イーリスは振り向いた。
「見られてしまったって……」
きっと見てはいけないものを見たのだ。
彼の射抜くような鋭い瞳と目が合って、イーリスは背中に汗をかいてしまう。
「スレーが黒猫になったことだ。これは絶対に外にもらしてはいけない秘密だ」
少年の名前はスレーと言うのだと、半ば混乱しながらイーリスは知った。それよりも、もっと衝撃的だったのは。
「黒猫さんは、あの店員さんだったんですか!?」
人間が動物に変身してしまうなんてありえない。闇の薬屋では、どんな不思議なことでも起こってしまうのだろうか。
「そうだ。スレーにかかった薬は『魔力を減らす薬』だ」
「魔力を減らす薬?」
魔力という聞き慣れない言葉が理解できずに、おうむ返しにした。
「そもそもの魔力を説明しないといけないのか……前提として、スレーは魔法使いだ」
イーリスの頭の中に「?」がもう一つ増えた。
魔法使いという単語は、小さいころに読んでいた絵本でしか聞いたことがない。
悪い魔法使いが国王をだまして王国を乗っ取ってしまう。その息子の王子が魔法使いをこらしめて、王国を救ったという話。繰り返し、繰り返し、寝る前に母親が読み聞かせてくれた。
この国の人ならば、だれでも知っている童話だ。そのため、魔法使いは悪いイメージしかない。
でも、母親は「本当に、その魔法使いは悪かったと思う?」とイーリスに聞いてきた。そう聞かれても、国王をだますなんて悪いに決まっている。母親の質問の意味が理解できなかった。
「魔法使いって、王国を乗っ取ったという魔法使いですか?」
「そんな童話もあったな。魔法使いというのは数少なくなったが存在する。その人々は内なる魔力があって、呪文を唱えれば不思議な力を使うことができる」
「スレーさんが魔法使いで、魔力を減らす薬で黒猫になった……」
頭の中を整理するために、イーリスは口に出して言った。そうしてみても、しっくりとこなかった。
「ああ。あいつは元々の姿が黒猫だからな。魔法で人間の姿に化けていたのに、魔力を減らされて人の形を取れなくなったんだ」
スレーの元々の姿が黒猫。訳がわからない。わからないことが多すぎて、不思議なことがなんでも起こってしまう場所なんだとイーリスは思うことにした。
「大事な秘密を知ってしまった上に、スレーもしばらくは人間に戻れない。元に戻るには1ヶ月はかかるだろう。――そうだ」
いいことを思いついたとばかりに、店長はイーリスを見つめた。イーリスは嫌な予感がした。
「お前が責任を取って、店番をしろ」
衝撃的な一言だった。
イーリスはすぐに否定する。
「わたし、薬屋の店番なんて、できません!」
「どうしてだ?」
「こんなにいっぱいある商品を覚えきれないし、それに、お客さんの相手は緊張します!」
人手が少なくなったぶんのカバーはできるものならしたい。でも、しない方がきっといい。
花屋は小さいころから見ているから、手つだいで店に立っても、花束を作ったり、お客さんに季節の花をすすめたりできる。
ただの薬屋ではなく、闇の薬屋の店番としては覚えることが多そうだ。特殊なお客さんもいるだろう。なによりも、慣れていないことをして失敗したときが恐い。
「緊張……?」
シヴァンから疑わしげな顔をされた。信じられないといった様子だ。
「薬屋に乗り込んできたお前は、緊張するようには思えないが。やってもいないくせに、できないと言うな。……まあ、慣れだな」
「そんなぁ……」
イーリスは甘えが通じないことに絶望した。
「でも、今回のわたしみたいな、初めてやってきたお客さんを相手するのは大変じゃないですか?」
「トンネルを通ってきただろう? まず薬を求めていない客は、トンネルを通っても暗闇の中の閉店の通り――通称闇通りにはたどり着けない。闇通りに出たとしても、初めて来る客は道に迷って疲れきっている。薬屋に行きたいという、かなりの意志の強い人だけにふるいをかけられるはずだ」
本当に薬をほしい人だけ買えるように、対策が考えられているらしい。
「そうなると、あまり新しいお客さんは少ないということ?」
「そうだ。あとは――闇通りは魔法で守られているから、その通りまでは行ってもいいが、トンネルの外に出てはいけない。約束してほしい」
そう、店長と約束した。
そういえば、店長の名前を知らなかった。
「店長さん、名前はどう呼んだらいいですか?」
「シヴァンでも、店長とでも好きに呼べ。お前の名前は?」
「イーリスです」
「イーリス、よろしくな」
「イーリスさん。よろしくお願いします」
横からそう言ったのはスレーで、猫の姿でもしゃべれるんだとわかった。黒いしっぽを振って、イーリスを見上げている。黒猫の口の動きに合わせて、人間の声が出ているのは不思議な光景だ。
「他のお客さんがいるときは、ただの猫のふりをしているんですよ。トンネルで、イーリスさんに会ったときもそうです」
声だけ聞くと、スレーの茶目っ気のある笑顔が目に浮かぶ。
「よろしくお願いします」
こうして、スレーが回復するまで店番をすることになった。
住みこみで働くことになったので、やることがてんこ盛りだ。
「二階の空き部屋を使ってくれ。少しほこりっぽいが、掃除をすれば使える」
「あの、着替えの服はどうすれば」
闇通りに服屋さんがあればいいが、お金も持ってきていない。
「袖をまだ通していないシャツとズボンがあるので、それで良ければ使ってください。スカートも用意しましょう。寝巻きは、お客さん用のパジャマがあるので。他に必要なものがあれば遠慮なく言ってくださいね」
スレーは成長途中なのか、イーリスと同じくらいの背の高さだ。服のサイズはぴったりだろう。
「ご家族のかたに、手紙でも送りますか?」
「そんなことができるんですか」
父親は娘が帰って来ないことを心配しているだろう。無事で元気でいることを伝えたい。
「このフクロウに届けてもらえるんです。名前はクーちゃんと言います」
スレーが、手のひらをフクロウに向けた。
紹介されたのにフクロウは無反応で、クーちゃんという名前のように、かわいらしくはない。
「そのクーちゃんが、そんな器用なことができるんですか?」
「優秀な子なんです」
黒猫の姿からは表情はわからなかったが、スレーがいたずらっ子のように笑った気がした。
イーリスは父親に心配させないように手紙を書き、フクロウのクチバシにはさむと、自宅のポストへ届けてもらった。
帰ってきたフクロウには、なにも口にくわえていなかった。落としていないのであれば、しっかりと任務を完了したのだろう。優秀な子だというのは本当だった。
ポストに手紙を置いただけだから、返事はない。せめて父親の反応がわかればいいのにな、とイーリスは思った。
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