第2話 闇の薬屋へ
近所の人たちの助けを借りて、父親は町医者へ運ばれた。
医者の診察が終わると、父親はベッドに横たえられる。
イーリスはベッドの側で父親を見て、ホッとする。目をつむったまま胸を上下させて寝ている。しっかり息をしているなら大丈夫、と。
「お嬢さんかな?」
「はい……」
「伝えたいことがあるんだけど……」
そのあとに医者から告げられたのは、衝撃的な内容だった。
「心臓の病気が悪化しているようだ。……今は安定しているけれど、先は長くない。もって、一週間だろう」
「そんな、まさか……!」
父親は昔から心臓が弱くて、ずっと病気とつきあってきた。調子の悪いときは薬を飲んで店に出て、生活習慣も気にして最近はお酒を控えていた。
寿命は一週間。さっきまで元気にしていたのに、急に言われても理解できない。
「……お父さんは目を覚ますのでしょうか」
「それは、わからないよ」
医者は静かに首を振った。
(自分のせいだ。頭を抱えるような、大きなミスをしてしまったから……)
イーリスは一人っ子だ。数年前に流行病で母親が死んでから、父親しか家族はいない。
――なんでも願いをかなえてくれる薬屋さんがあるんだって。
――でも、その薬はとても高価らしいよ。
花屋で手伝いをしているときに、噂で聞いたことがある。誰が話していたのか忘れてしまった。でも、市場の裏側の古びたトンネルを抜けると、なんでも願いをかなえてくれる薬屋があるって。
父親の病気を治してくれるなら、なんだってする。
残りの命が短い父親のそばに少しでもいたいけれど、治る薬があるなら、その可能性に賭けたい。どんなに高価だったとしても。
(行こう。なんでも願いをかなえてくれる薬屋さんへ)
そう決心して、イーリスは胸元のブローチを握りしめる。すると、どこからか力がみなぎってくるような気がした。
(このブローチを手放せば、きっと高価な薬でも手に入れられるはず)
ずっと大事にしているブローチだから、価値はわからないけれど、値が張るに違いない。母親から、大事なものだから肌身離さず過ごしなさいと言われていた。その約束はしっかりと守っている。
(お父さんのためなら、ブローチを売ってもいいでしょう? お母さん……)
ブローチと交換して薬を買えるようにお願いしよう。
イーリスは眠る父親をもう一度見て、そっとその場をあとにした。
* * *
(本当に、この先に薬屋なんてあるのかな……)
それは朝のことで、夕方になった今は、市場にはちらほらとしか人がいない。
買い物でよく出かけるからこそ、この市場の近くに、闇の薬屋というお店があるのは信じられなかった。
(あっ――)
灰色のマントを着た男が横を通り過ぎる。フードを深く被っていて、顔は見えない。
その光景は珍しいことではない。日没とともに現れるのだ。夕方六時には家でご飯を食べているから、日が落ちてから出歩くことはなかったけれど。
イーリスは心臓がバクバクとしてくるのがわかった。
(反応しちゃ、ダメ……)
無視を決め込んで歩く。死んでしまった母親から、灰色の男を見かけたら目を合わせないように言われていたからだ。
(灰色の男と目を合わせたらどうなってしまうのだろう。ちょっと怖い。……そんなこと考えている余裕はないけれど)
そこからさらに、細い路地に入るのは勇気が必要だった。左右の建物が近いので、人とすれ違うのは難しい幅だ。足早に歩くと、空間が開けてくる。
古めかしいトンネルがそこにあった。レンガで積み上げられているが、その大部分は草のつるで覆い隠されている。
イーリスは生まれたときから住んでいる町なのに、このトンネルは見たことはなかった。意識せずに通り過ぎていたからだろうか。
中をのぞいてみると、真っ暗で先が見えない。
トンネルの中へ入るのにとまどっていたら、後ろからふわふわして触り心地の良さそうな黒猫が歩いてきた。それは尻尾を揺らし、気取った様子でトンネルの闇に消えていった。
黒猫は悪魔の生まれ変わりと言われ、嫌う人も多い。しかし、イーリスはこの場に現れた黒猫が心強く感じた。
(首輪はつけてない。のら猫かしら。なんだか気になるわ。猫のあとをついて行ってみよう)
イーリスは無意識にブローチを触り、恐る恐る暗いトンネルの中へ入る。思いのほか真っ暗で、なにも見えない。
と、闇の中に緑の目玉が二つ浮かび上がった。
「ひっ!」
驚いたイーリスの声に反応して、さっきの黒猫が足を止めて振り返ったようだ。しばらくすると、だんだんと暗闇に目が慣れてきた。
イーリスがぎこちなく歩き始めると、黒猫はゆったりと尻尾を振って前を進んだ。
まるで道案内をされているようだ。
暗闇を歩いているのに、前に誰かがいると安心する。さっきまで心細かったのに、急に強い味方ができたようだ。
トンネルを抜けると真っ暗な通りに出た。月の光で地面が照らされ、タイルで埋め尽くされているのが見える。
黒猫がピタリと足を止めて、つられてイーリスも立ち止まる。
足に力を入れた黒猫は、パッと飛び上がった。生垣を越えて、どこかへと消えてしまう。
「待って!」
叫んだ声が、むなしく広がった。
薄暗い通りには、閉店の札がかけられた店ばかりが並んでいる。
(待って、本当にこんなところに薬屋があるの? あったとしても、ちゃんと営業しているの?)
歩き続けても空き店舗が続いて、人の気配がまったくなかった。風通りが悪いのか、雨のようなジメッとしたにおいもする。
絶望的、とイーリスは肩を落とす。
(薬屋はなかったんだ。確かに怪しい雰囲気はする。でも、こんな人通りのなくて暗い場所でお店を経営できるはずがない。あの、噂の薬屋は嘘だったんだ)
引き返して、トンネルに戻ろう。
イーリスがそう思ったとき。
暖かい光が、イーリスを中心にして広がっていく。
ひとりでに街灯に火が灯された。火を付けて回る人は、どこにも見当たらない。
先が見えるようになってわかった。どのお店よりも大きな建物が道をふさぐようにしてある。
店の入り口に明かりが灯っていて、営業中の札がかかっている。少し希望が見えてきた。
(窓から薬の瓶のようなものが見えるから、ここが闇の薬屋かしら? 違っていても、お店の人に場所を聞けるかもしれない)
扉を開けようとしたら、勝手に開いて、イーリスはビクッと肩を震わせた。
「お客さま、お入りください」
黒髪の少年がその建物から出てきた。首もとまでボタンのある白いシャツをパリッと着ている。
明かりとともに現れた建物と、まるでイーリスが来るのを最初から知っていたような少年。不思議に思いながら、建物に近づく。
「あの、ここはなんでも願いをかなえる薬の売っている薬屋さんですか」
「そう……ですね。確かに、なんでも願いをかなえる薬はあります」
思案顔をサッと消して、人好きのする顔で微笑む。
薬屋の扉は重厚感があって、幾何学模様らしいものが彫られている。それはまるで、まじないのようだ。
イーリスがお店に足を踏み入れると、少年は扉を静かに閉めた。
店内の高い天井まで続く棚には、瓶が埋め尽くされている。分厚い本もぎゅうぎゅうと押し込まれていた。
イーリスは、これが落ちてきたらただでは済まないと思った。
「ところで、お客さまのご所望の『なんでも願いをかなえる薬』で、どんな願いをかなえたいのですか?」
前を歩いている少年は、振り返って聞いてきた。
「ええと……死にそうになっている、父を助けたいという願いはかないますか?」
「それはどうかな……店長を呼んできますので、こちらの椅子に座って少々お待ちください」
なんでも願いはかなうはずなのに。
あの少年は困っていた。もうその薬は売り切れてしまったのだろうか。
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