第57話 ペルーンの雷

これ以て、私の敗北は決した。

先々を予測の望遠鏡で見越そうとも、ただ敗北という四肢を折る現実のみだった。

此処で新たな手札が生み落ちようとも、この肉体を良好へ仕向けることはできない。

まるで水に溺れた機械のように倒れ伏し、彩を持つ未来に圧されるのみであった。


未来は当然ながら私を大きな腕に迎えることはなく、逆にその大きな腕で肉体と魂の境が曖昧になるまで潰すだろう。

進むことは変わらずともその果てにあるのは、陽光のように輝かしい未来ではなく、ただの闇夜を冠する黒き死だ。

私は未来とは似ても非なる、死へと足を進めて行くのだ。


覆すこともできない死へと、棒切れが鉄ほどに硬いと思わせる、生気を捨て去った糸のように細い足で。

追うべき終わりの宙庭へと、苛まれ続けた人生を脱ぎ去り進め。

神々の雷すらも飲み込む、黒い黒い闇の中に足を包み込ませるのだ。



「あ、は」


理解できないものに体が吸い込まれる。

深い場所へと急速に落ちるというよりも、水中から水底に向かってゆっくりと落ちていった。

それは物理的な明確なものではなく、感情や意識などの認識が不可能で不明確なものだ。


まるで自らが惑星になったように、何も感じない狭間を浮き続けている感覚に近い。

しかしそれでも地面に向かい、力無く落ちて行っているのには変わりない。


視界を覆う霞の奥に見えるのは、壊れそうなほどに美しい空だった。

深い鉛色に曇りがかり、広がるように青い性根は見せないものの、それでもその何色にも変え難い芸術は微かに姿を現していた。


その芸術は狂おしく美しくとも、私の心をどこから生まれたかわからない罪悪感で、水泡のように少しずつ蝕んでくる。


「綺麗だよ、満月よりも星よりも。何よりも、この空は綺麗だよ」


誰かに手向けるわけでもない、純な独白を語った。

たりとて空の顔色が劇的に変わるもなく、途端に耳の中に囀るような微風を吹かすわけでもない。

ただそれだけが快感とは全くも違う、気持ちよさを体に卸してくれる。


細胞一つ一つが汲み取られるような、声に吐くことができないものであった。

ただ空を仰ぐことだけが、今の私に課せられた責務のように感じた。

罪を償えとお前の内にある罪に、謝罪の巡礼をかき鳴らせと。


「これで体を伸ばせばいいのか、この最後の空に頭を傾けるのか」


私の無闇に起こした破壊行為も、この空が赦してくれるのか。

今まで都市を飲ませるように流し続けた赤い血が、この空にこの星に赦しを得ることができるだろうか。


「ふぅ」


直線の如き呼吸を流した。

それには雑念などという不浄は包まれておらず、ただ流れる風のような事象そのものであった。

頬には灰色の世界の鱗粉である、気質の無いコンクリートの粉が張り詰めた。


天幕を下す空には相変わらず渦巻き状の螺旋のような、白に光る星々が脈を打つように浮かび続けていた。

涙腺が血濡れるほどに見てきたこのモノは、もはや視界に入れるだけで吐き気を催す。

降り頻る埃だらけの雨を手に溜めて、内臓が腐乱し穴が開くほど飲んだ方がまだ贅だ。


指先の最端が握られたように疼く。

擦らせるように少し動かすことすら、巨石を乗せられるほど苦痛だ。


「立てるかな、この細い足をまっすぐに伸ばしてさ……」


雪のように気力も感じられない、心のない機械を尻目に置く独白を吐いた。

同時に雪一帯を血に染め上げた瀕死のトナカイの方が、まだまだ生力が有り余っているほどであった。


何もかもを頭の内から薙ぎ払い足を動かした。

亀よりも遅い微動と同時に、血管に鉄が降り注ぐような痛みが走った。


「あっ────」


金属の破片の群が私の身を焦がさんとばかりに、集中と拡散を繰り返す苦痛を惜しみなく躊躇いなく放射する。

其れは痛みを一粍ミリほど紛らわす、叫びも喘ぎも嘆きも発する余裕すらも与えなかった。

与えたのは苦しみを連鎖させる複雑で残酷な、加虐を露呈させた『思考』のみだった。


「・」


短い呼吸が一つだけ、抗うように滴り落ちた。

全てに通ずる凹凸が刻まれた鍵の如きモノが、私の身に澄んだ雫のように溢れ何かを告げた。

富んだ知を持って理解せず、ただ一身に感じ取った。


「そう……そうか、確かにそれが一番いい。

世界にとっても私にとっても、それが最もなん手段だな」


まだ痛みを注ぎ続ける足を、眠らせるように地に添える。

落雷を打ちつるような痛覚は颯爽と過ぎ去り、嵐の後に露る晴天のようであった。

巡る痛覚の法則を理解し、体に無理を強行することはなかった。


「お姉ちゃん」


細長い声が私の鼓膜を奪った。

罪悪感が引き起こした霧で燻った心の内側に、一筋の月明かりが現れたような気がした。

心が獲れたての羊毛へ、深く沈むように落ち着いた。


「……まだ居たのか、私はお前のことを“ほぼ”覚えていないと言うのに。

今に思い出せるのはその顔と、真っ二つに途切れた名前だけだよ」


台詞だけを揚げ出すと、なんとも嫌味のように聞こえるものの、そんな戯言を吐くことはなく。

己の弟の前でただ人らしく姉らしく居ようと、意地を張りたかっただけなのかもしれない。

言葉を一つ二つ覚えたての子供が腹を抱えて、嘲笑うほどの傲慢さだ。


「カッコつけたりしてる……?」


図星に石灰色の槍先を突き刺される。

普段なら獣の如く暴れ身勝手に破壊を行うものの、もうその気力すら底から搾り出すことができなかった。


「そうだよ……」


力を賭けることない台詞を、青に滲んだ唇を持つ口で語る。

それ以降に言葉を取り繕うとしたものの、全く溢すことができなかった。

まるで私の声が意思を持ったように、出そうとしても出なかった。

喉に真鉄の返が付いたとしか、説明ができないほどに。


「なるほどね」


首を縦に振るように声を響かせる。

鼓膜が剥き出しになったようにしっかりと聞こえるものの、どことない色褪せた殺風景な静かさも兼ねていた。


「そう……か」


こちらも白露をも握りつぶすが如く、白い言葉を送り返した。

温床な人情などひと匙ほども篭っておらず、ただ来たから有る摂理に従い返しただけだ。



そこからは淡い静寂が生まれた。

誰も抉り喰い入ることのできない、生地で包み込むようなただ静かな寂しさ。

手のひらのような空の色はより一層と痩せ細り、雷雨も風も靡かせることのない灰と白だけが広がっていた。

次に来るであろう天気の代替わりを、成すかのように証明を冠していた。


「何も変わらなかったね」


静寂を繊細に切り落とす、小さな言葉が瀕死に嬲られた耳に響いた。

私は内際が理解できずにただ私の罪だけを証明する空を、衰弱という魂の蒸発を感じながらなら眺めるだけであった。

しかし運命や法則といった摂理に従い、その言葉に見合った台詞を返した。


「そうか……そうだな、私は何も変えられなかった。

あの時からずっと……私の心も状況も、絶え間なく針穴ほどの御暇いとまも許さず、血潮を持って変化を抑え続けた」


気道が詰まった。

瀕死の病人と化した肺は締め付けられる苦しみに喘ぎ、霞んだ嗚咽を漏らす胆力すら失っていた。


しかしこれは世界が私に与えた責務だと、死を頬張る声帯に囁いた。

すると喉元まで至った死を吐き出し、私の思考の元に戻り咲いた。

そして途中迄、息を壊しながら語り続けた濁った声をもう一度と求めた。


「だけど欲の前に敗退を決した私は、変化を轟かせようと奮起した」


哲学を実践するように深く考えず、平坦な感覚に従い声を出した。

呼吸のように慣れずとも、己のモノだと言える声が意志の元に役目を魅せた。


「だから私は……いつまでも、どこまでも負け続けるだろう」


末梢の句読点まで綴られる文言は、弱い情緒に負けてしまったと嘆くものだった。

先ほどまで熱と血で語り合った戦況とは相反し、ただ無常な静けさが広まっていただけである。

滑稽もなく笑いもなく、然し乍ら安心に耽る風情が漂っていた。


雪空特有の寒さが燻る。

身を粉にするまで削るような、痛みが感じられなくなっていく。

覆う空気を齧り啜り味わっても、鉄錆の苦みを想起させる冷たさが肉皮を擦る。

まるで森が茂る山々に住んでいた人間が蒸気が空を覆う都市に出で、その鉛をも焦がす空気にやられたと同じであった。


「何処の空を眺めても、私の罪はシミ一点も残すことなく赦される事は……絶対に無いだろう」


言葉を出しきった瞬きには、手を握ることすらできなくなった。

灰色の死をまぶした都市に咲きほこる、樹木を想わせるビルたちを目端で覗いても、傍観するが如く黙って語ることはなかった。


「だけど……それに不満はないんだよね?」


ただ問われた。

一筋の想像が、私の頭の僻地を駆けた。

それを兎の一羽を撃ち落とすように刈り、それを行動に移した。


「そうだよ。もう不満はない、今は此処が心地良いんだ、ワザと見たくないと心に訴えていた"本当の自分"に出会えたから……」


風という波を打つ空に目を仰いだ。

今や私を嗤っていると思い込んでいた微風すらも、まるで私を包み込む母親の腕の内のように心地がいい。

ただ固くいつくしみを失った人のような冷たい石の地面すらも、母親の膝の皮の裏側に埋まる骨のようだった。


空には宝珠をも劣る黄金比を持つ、丸い太陽は昇ってはいない。

しかし微風を散らす春の日をむせ返す、淡白な陽気を私は全てを持って感じた。

網膜を凝らさなければ見えない、指紋よりも細目な毛孔ですらもその陽気を享受した。


「嬉しいな、まだ生きてる」


雲を吐く大空をもう一度、覗いた。

最初と全く変わらない、呼吸も目も声も香りも。

私はこの百年をも跨ぐ時を過ごした中で、最も歓びに塗れた時間を頬張った。

満足気に空から目を離した。


そして体を纏うモノに目を向けた。

この熊にでも屠られたように破れた、誰から与えられたか分からない羽衣の袖を睨んだ。

砂煙が転がるこの世界で、全くも汚れを持たない芸術。

世界の不浄を噛み砕き、一国の皇帝をも虜にする色を持ち、国家を捻じ壊し傾国に陥れる魔性。

その美しさを肋骨が浮き出る胸部から、傷が一筋もない脛まで伸ばしている。

売り渡せば大陸を買おうとも、巨万の富が返ってくる程だ。


「こんなモノ……ただ力任せの美しさだ。ただ美しいと云われる色を、加減のない力任せに混ぜ合わせただけだ」


憤慨など物足りぬ独白を振り下ろした。

自らをただ壊すだけしかできない、獣以下に成り下げたこの羽衣に牙を剥いた。

四肢をもがれたような今でなければ、この事実に気を留める事は決してなかっただろう。

だがそれは私が死する間際を見越したように、せがむように身を包んでいる。


肉が張った首を傾ける事もできず、手際よく並んだ歯で噛みちぎる事もできない。

ただヒビ一つも入れることができない、憎悪に満ちた目で睨むほかなかった。

曇り掛った空を臨む目は潰され、今あるは無反動に悪辣散らす眼力だけである。


「もういいか……最後は変わらんだろうし」


それに呆けたか疲労に諭されたか、氷山のような眼光の矛を収めた。


「はぁ」


何も感じず何も考えずただ深い呼吸を為した。

猟者が握る鉄と木彫りの銃器に撃ち殺された、一羽の鳥を思わせる姿をとった。

"さようなら"と呻くことない目で、からの内で静かな潤滑油なみだをこぼす。


「終わりだなぁ、終わりは悪いものと言われるのに、なんだか綺麗に見えるな」


まだ身にまとわりつく後悔を、躊躇うことなく脱ぎ落とす。

生への執着という首皮数枚の腫瘍を、身に磨したことのない屠殺の要領で、丁寧に切り落とす。

確立に規格された匂いはないものの、唇を伝い鼻腔にまで“死”の予感が迎え来た。

その単一としたモノが罪晴らしの贖罪となるか、そんなものは私にとってはどうでもよかった。


ただ墨色に枯れた花のように終わりたかった。



「それはダメでしょう……自分から望んだくせにさぁ……!」


戦慄が迸る声が脳天を貫いた。

死地へと向かう足が青色の氷に煮付けられたかのように、次の足を動かすことができなかった。


「誰……?」


子女が喚く直前のような声色を漏らす。

声は形を保てていない不定形な曲線を描き、一言ですら白い氷河を啜ったように震えていた。


「私だよ私わかるかな? 君を誘い、君から贖罪の機会を奪った見た目だけの、可愛い可愛いクズ野郎だよ」


今にでもどこかが切り落とされそうな声に、小さな瞳孔を差し向ける。

双眸を可動域の限界まで引き延ばし、筋肉に過度をも絞め殺す負荷を掛ける。

頭を抱える悲しみや感動など一切無いのに、温かい涙がこぼれる。


黒い、ただ黒い髪を淡々と揺らす。

その小さな肉体の肩から伸びる、雪霞む白い腕の矛である手で。

子女の目は自身の瞼が緞帳となり、拝むことすら叶わなかった。


「なんで……なんで此処に。干渉しないと、胸張って言ったはずじゃ……」


「やわだねぇそれで昔、私の啓に律儀に従って死にかけたくせにさぁ」


邪気がない腹黒さもない、ただ子供が笑ってるだけだ。

なのに、悪心を持ってして出なければ吐けない、残酷な言葉が綴られる。

意識せず許しもなく、白い歯が軋む。

怖い、対抗することのできない狂気が、私の心を水を喰った魚の如く果敢に抉る。


「やっ、め」


最後に残った目にも見えない力を絞り出し、無理を切り殺し立ち上がった。

模型のを思わせる己の身体を起こすだけで、骨と筋肉が傷つけあうような痛みが走る。

横目には破壊の限りを尽くした白にまばやく、槍を模った儀仗が見ゆる。


儀仗を誘うように掴み取る。

額には滝をも凌ぐ汗が狂いない一線を描き、遥か近い地面に落ちる。

何粒などという規模ではない、何十という居た堪れないものであった。


「殺してやる、世界の為に……お前を」


守る、この世界を。

誰もが泣いて笑って普通に生きることができるように、この千切れた花弁のような命を此処に捧げる。


命を棄てる最後の戦いを。



第57話 終

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