第198話 ミュジーニャ家の人々

 ――魔導院、書庫管理室。

 夕方過ぎ、薄暗くなった室内で二人の職員が仕事している。


「よし、と。ここまでにするか。かわいい愛娘ちゃんが待ってるからな」


 二十代後半の男性職員が書類を片付け、帰り支度を始めた。

 席を立ち、もう一人の職員の席の背後を通り過ぎるときに、その職員の肩をポンと叩く。


「オズ、お先!」

「あ、お疲れさまっす」


 男性職員はそのまま扉まで数歩歩いてから、クルッと向き直ってオズのところへ戻ってきた。


「今日も残業か?」

「今日もっていうか、今夜も、っていうか。へへ……」


 このオズという後輩は新規採用一年目。

 まだほんの数週間の付き合いではあるが、声の調子でわかる。

 この後輩、かなり無理をしている。

 ヘラッと笑って見せてはいるが、その笑顔は疲労を隠せていない。


「また兄貴・・の肩代わりか。俺がガツンと言ってやろうか?」

「いやいや! やめてください、ありがたいっすけど。……もっと酷くなるのが目に見えてるんで」

「それもわかるが。このままじゃお前、潰れちまうぞ?」

「……はい。わかってます」

「俺も家の事情までは口を出せないけどよ。転属願いを出すのはどうだ? 課長に口添えしてやるぞ? 入ったばかりとはいえ、事情があるわけだし」

「そっすね。考えときます」

「じゃあな。ほどほどにしとけよ?」

「はい! お気遣い、どもっす」


 男性職員は後ろ手に手を振って、扉から出ていった。

 オズは仕事の手を止めて、天井を見上げた。


「……転属、か」



 ――夜半。オズは疲れきった身体を引きずるようにして家へと帰った。

 家族はみんな寝ていていい時間。

 しかし、ミュジーニャ家からは賑やかな声が漏れている。


「また飲んでるのか……」


 オズが玄関からそっと中に入り、自室へ向かおうとすると、居間のほうから大声が響いてきた。


「おい、オズ! こっち来い!」


 オズはため息をつき、居間へと向かった。

 居間には中年の男と、オズより年上の若い男がいた。

 オズの父と兄である。


「何か御用でしょうか、父上」

「用があるから呼んだんだろうが、バカが」


 オズは父から罵られるのは慣れっこなので、このくらいでは眉ひとつ動かさない。

 しかし続く言葉にはさすがに驚いた。


「すぐに風呂を沸かせ」

「え? 今からですか? もう夜中ですし、今から水を汲みに行くわけにも……」


 すると父と兄が、顔を見合わせて笑った。


「勘が悪いな!」「汲んで来いと言ってんだよ!」

「は……」

「行け!」「急げ!」


 オズはもう抗弁せず、居間を後にした。

 オズの自室は家の端にある狭い物置部屋だ。

 破れたソファが彼の寝床。

 オズは自室の扉を開けてソファへ荷物を投げて、今度は二階へと向かった。

 二階の突き当りの部屋は母の部屋だった。


「――ただいま、母さん」


 母は病に臥せっていた。

 オズが卒業して家に帰ったときには、もうベッドから起きられなくなっていた。

 母は目を開け、優しく微笑んだ。


「お帰り、オズ」


 彼女はオズの生母であり、一階にいる父は母にとって二人目の夫――オズにとって継父である。兄も義理の兄だ。

 ミュジーニャ家は今や底辺貴族ではあるが、元は歴史ある王国貴族である。

 オズの実父はそれなりに優秀な騎士であったらしいが、獅子侵攻で深手を負い、その傷が元で数年後に亡くなった。


 オズは実父のことをほとんど覚えていない。

 それよりもその後の困窮のほうがはっきりと記憶にある。

 そんな中で母は、女手ひとつでオズを育ててくれた。

 オズは奔放な子供だったが、騎士になって母を楽させたいという想いは強く持っていた。


 そしてソーサリエ入学を一年後に控えたある日。

 母は継父を家に連れてきた。

 継父が母に何度も会いに来て口説いているのは知っていた。

 けれど、まさか母が折れるとは思いもしなかった。

 母は言った。


「もう大丈夫。新しいお父様がミュジーニャ家を継いでくださるから、オズは何も心配しなくていいの」


 突然、捨てられた気分になった。

 今なら母の気持ちもわかる。

 母はずっと、早世した父の家を守れるか不安で仕方がなかったのだ。

 継父の口説きに心を動かされることはなくとも、彼がたびたび口にしていた「オズは元気すぎる」という言葉が、きっと母の脳裏にこびりついて離れなかったのだろう。

 ミュジーニャ家を守り、奔放な我が子が奔放なまま自由でいられるように。

 母が再婚を選んだのは、そんな気持ちだったからではないだろうか。


 母はオズが在学中から身体を悪くしていたらしい。

 だが母は、オズにそんなそぶりは一切見せなかった。

 ソーサリエの休暇に家に戻っても、母はテキパキと働いていた――そう見せていた。

 だから卒業後に帰ったときには、オズは酷く驚いた。

 母はもう元気なそぶりすらできなくなっていた。

 ベッドに横たわった母は、ただ「ごめんね」とだけ言った。

 オズは「なぜ言わなかった」なんて言えなかった。

 母の病状に気づかなかった自分に、ただただ嫌気がさした。

 そしてその日から、オズはここに住むことになった。



 ――翌日。書庫管理室。


「ふわぁ……」


 オズがあくび混じりにデスクに向かっている。

 睡眠不足ももはや慣れっこだったが、さすがに体調が良くない。

 昨晩、家と水場を何往復もして、やっと風呂を沸かしたときには父も兄も酔い潰れていた。

 オズは一刻も早く寝てしまいたかったが、ささやかな反抗として沸かした風呂に入ることにした。

 しかし連日の寝不足と疲労もあり、風呂の中で寝落ちしてしまった。

 用を足しに起きた兄がそれに気づき、彼に殴られてオズは起きた。

 罰としてもう一度風呂を沸かすことになり、二度目の風呂が沸いたときには夜が明けていて、そのまま出勤して今に至る。

 数日ぶりの入浴のせいか、父たちに仕返しできた気がするせいか、体調こそ悪いが気分は良かった。


「オズ君。ちょっといいかね」

「あ、室長。なんでしょうか」


 書庫管理室の室長は眼鏡をかけた小柄な中年男性だ。


「君の兄さんはまだ出勤してないようだが……?」

「あ、体調悪いそうで。昼過ぎには来るんじゃないかと」

「またかね。困るなあ」

「兄貴の分は自分がやりますので」

「そうかい? う~ん……じゃあ任せてみるか」


 室長は頭を掻きながら自分のデスクへ帰っていった。

 室長の気弱そうな見た目のせいか、兄はこの上司を侮っている。

 オズがいくら嘘で取り繕っても、そのことは他の同僚や室長自身にも伝わっているだろう。


「どうせまた二日酔いだろう?」


 二十代後半の男性職員に小声で言われ、オズは苦笑するしかなかった。

 と、そこへ再び室長がやってきた。

 オズが室長のほうを向くと、彼はオズに一枚の紙を手渡した。

 どうやら本のリストのようだ。


「そのリストにある本を探して、僕のところまで持ってきてくれ」

「了解っす」

「それと、これね」


 次に手渡されたのは、手のひらサイズに裁断された羊皮紙。

 不可思議な文様と、いくつかのサインが書かれている。


「室長、これは……?」


 オズが首を傾げて尋ねると、室長は言った。


「禁書庫に入るための符丁だよ。ま、通行手形だね」


 すると二十代後半の男性職員が勢いよく立ち上がった。


「室長! それはオズには早いのでは! 自分ですら、まだ一度しか……」

「これは早い遅いではないのだよ。ま、とにかくよろしくね」

「はい、わかりました」


 そう言って室長は再びデスクへ戻っていった。

 二十代後半の男性職員が顔を寄せてオズに言う。


「今からでも遅くない。断れ!」

「あ、先輩がやりたかった感じっすか?」

「違えよ、誰もやりたがらない仕事なんだよ!」

「え? 魔導書図書館グリモワールからピックアップして来るだけっすよね?」


 それを聞いた男性職員は、さらに顔を寄せて囁いた。


魔導書図書館グリモワールの禁書庫だよ。どこにあるかも知らないだろう?」

「はい」


 オズも書庫管理室に配属されてからは毎日のように魔導書図書館グリモワールに出入りしているが、禁書庫なるものがどこにあるか見たことも聞いたこともなかった。


魔導書図書館グリモワールの中にあるが、普段は辿り着けない。その符丁を持つ者のみ、禁書庫の入り口を見つけることができるんだ」

「ほうほう」

「入り口には年中そこにいる気味の悪い見張り番がいて、出入りする奴を見定めている」

「へえ」

「俺も先輩に連れられて一度入っただけだが……中がやばい」

「どう……ヤバいんすか?」

「うまく言えないが……その空間自体が呪われてるような? とにかくやばいんだ」

「ほえ~。そうなんすね」

「うちの部署、若いのばっかだろう? 四十歳以上は室長くらいだ」

「ああ、そうっすね。室長を除くとうちの兄貴が最年長ですもんね」

「みんな心を病んで辞めてくんだよ」

「え」

「さっき言った、俺を禁書庫に連れてった先輩もそうだ。俺に『禁書庫に出入りする仕事が増えてきたら転属願いを出せ』って言い残して辞めてった」

「うええ、ほんとにヤバそうっすね」

「ああ、ほんとにやばい。だから今すぐ無理だって室長に断れ」


 オズと男性職員の目が室長のデスクに向かう。

 彼は聞こえていないようで、いつものように首を捻りながら仕事をしている。


「室長は禁書庫に出入りしないんすかね?」

「してる。耐えられるから室長のポストにずっといるんだ。次に耐えられる奴が出てこないと、室長はずっと室長のままだって聞いたことがある」

「なるほど……」


 オズは少しだけ考え、それから符丁とリストを持って立ち上がった。


「! おい、オズ!」

「とりあえず、行ってみるっす。先輩も一度だけなら大丈夫だったんすよね?」

「まあ、それはそうだが……」

「心配してくれてありがとうございます。やっぱ先輩、良い人っすね?」

「~っ! あ~、ったく!」


 男性職員は立ち上がり、大きな声で言った。


「室長! オズを禁書庫入り口まで案内してきます!」


 室長は顔を上げて目を丸くし、それからにっこり笑って手を振った。

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