第88話 葬魔灯ノア―3

 石の壁。

 目の前にあるのは、ただそれだけだった。

 ノアは地面に胡坐をかいていて、じっと石壁を見上げている。


(ここは? ノアさん、何をしているの?)


 そのとき、ノアが後ろを振り返った。

 背後には窓ひとつない、暗い石壁の通路が続いていている。ロザリーはその光景に覚えがあった。


(蝶の遺跡だ!)

(今、私がいる場所!)

(……ノアさんが最期を迎える場所)


 通路に人影はなく、静まり返っている。

 ノアは首を傾げ、前に向き直った。

 今度は石壁でなく、膝の上に視線を落とした。

 膝の上には、特別大きな本が開かれている。

 中は古代魔導リュロンド語で書かれていて、そこにノアのものであろう考察が赤インクで書き込まれていた。

 ノアはそれを読みながら考え込む。

 しばらくして、ノアは再び石壁を見上げた。


『蝶のひと羽ばたきが嵐を起こす』


 古代魔導リュロンド語で発せられた言葉が通路に響き、やがて石に染み入り消えていく。

 じっと石壁を見上げていたノアが、乱暴に本を閉じた。


「クソッ!」


 悪態をつくと、続けて本の表紙にこぶしを落とす。

 二度、三度。

 こぶしが蝶の飾り彫りにぶつかり、血が滲む。

 ノアはふーっ、と長く息を吐き、自問自答を始めた。


「焦るな、ノア。ここだ、この遺跡なんだ。アデルとアルマを分け離つ鍵は!」

「このを護っているのは【符丁】のまじないではないのか?」

「いや、入り口はそうだった、ここもそのはず。合言葉が正しくないんだ」

「入り口は蝶に関する合言葉だった。だがこのは蝶に関するあらゆる表現にも反応しない」

「……蝶ではないのか? それとも僕が知らない表現?」

「僕が知らない古代魔導リュロンド語の表現など存在するのか? それをどうやって知る?」

「魔導院が隠し持っているという古典ならばどうだ」

「ありうる。どうにかして手に入れて、それから……。くははははっ!!」


 ノアは突然、腹をよじって笑い出した。

 ひとしきり笑い、涙を拭ってぼやく。


「どうにかして? 黄金城パレスから盗む? それとも力づくで奪うのか? ここを開くより難しいだろうよ」


 ノアは石床に倒れ込み、天井を見上げた。

 無為に時を過ごしている気がする。

 苛立ちを吐き出すように、ノアは天井に向かって短い言葉を呟いた。


「ΛΗ∵」


 それは古代魔導リュロンド語において悪態をつくときに使われる言葉で、最大級の罵倒の言葉だった。


 ――ガゴンッ。

 音とともに通路が揺れた。

 ノアがハッとして飛び起きる。

 目に飛び込んできたのは、石壁がゆっくりと上にスライドしていく光景だった。


「……どういうことだ」


 立ち上がり、一歩、また一歩、近づく。


「……まさか、今のが合言葉だったというのか?」


 上がり切った石壁の底に、古代魔導リュロンド語の文字が刻まれていた。


「〝弛まぬ努力を続ける者にのみ、蝶は与えられる〟……くたびれて、悪態つくまでがんばれってことか? 古代人もふざけた合言葉を設定するものだ」


 文句を言いながらも、ノアの心はときめいていた。

 この先に未知の魔道具がある。

 愛娘を分け離つ鍵が。

 石壁の向こうは狭い部屋だった。座っていた場所から魔導ランプを手に取り、室内を照らす。


「っ!」


 目に飛び込んできたのは、部屋の奥にある玉座のごとき椅子と、それに座る少女だった。

 だが、何千年と閉ざされてきた遺跡に、少女などいるはずがない。

 等身大で、精巧な造形と肌の質感。

 玉座に座り眠っているようにしか見えないが、それは〝旧時代〟の人形であった。

 ノアの胸が高鳴る。


「見つけた……ついに……」


 と、そのとき。


「見事だ! 素晴らしい!」


 背後から男の声がした。

 驚き振り返ると、通路に幾人かの人影が見える。

 先頭の男は拍手をしながらこちらへ歩いてくる。


「誰だ!」


 ノアはとっさに蝶の本を背中に隠し、空いた手で魔導ランプを掲げた。

 人数は四人。

 みな魔女騎士ウィッチが好むような黒いフード付きマントを着用していて、先頭を歩く男以外、顔を仮面で隠している。

 先頭の男は痩せた中年の、やぶにらみの男だった。

 ロザリーは激しく動揺した。


(この男!)

(子供の頃、ベアトリスといた研究施設の〝館主様〟だ!)

(たしか名前は……イゴール)

(なぜここに?)


 イゴールは、ノアから距離を置いて止まった。


旧時代魔導具アーティファクト――人型魔導具オートマタ。よくぞ見つけてくれた」


 ノアが目を細める。


「お前たち……技師連か?」


 イゴールはノアの問いを無視して滔々と語る。


「君が目指したのは、人と魔導具の融合だ。動機はあの、可愛らしいひと連なり・・・・・の娘たちを分け離つため。人型魔導具オートマタの仕組みをつまびらかにすれば、娘たちの分離できない部分を魔導具に置き換えることができるのでは、と考えた」

「……」

「実際に娘たちを分けられるかはわからないが……このことを王宮に隠した君の判断は正しい。人型魔導具オートマタとは自立式戦闘用魔導具。騎士をも殺しうる魔道具なんて、王家も貴族家も受け入れるはずがない。知れば直ちに潰されたことだろう。そうなると、私としても困るのだよ」

「王宮とは無関係だと言いたいのか?」

「事実、無関係だ。君と同じ〝旧時代〟を追い求める学究の徒だよ」

「では何者だ」

「何者でもない。我々は〝我々〟だ」

「誤魔化すな!目的はなんだ!」

「目的? そこの人型魔導具オートマタ。それと背に隠した、君の努力の結晶である蝶の本だよ」


 ノアの頬を冷たい汗が流れる。


「なぜ君のことをよく知っているか不思議かね? 答えは簡単だ、我々はずいぶんと前からこの遺跡に目をつけ、この〝開かずの扉〟に手こずっていたのだよ」


 イゴールは微笑みを浮かべ、ノアに穏やかに語りかけた。


「我々だって【符丁】のまじないくらい解くことはできる。だがそれは〝問いかけ〟があればの話だ。〝問いかけ〟は手がかりであり、答えとなる合言葉を導き出す鍵だ。――しかし〝問いかけ〟のない【符丁】は厄介だ。合言葉は設定した人間の気分次第ということだからな。あらゆる古代魔導リュロンド語の表現の中から推測するしかないが、それは途方もない作業だ。力づくで壁を破壊することも試みたが――」


 イゴールはおもむろに剣を抜き、横の石壁に突き立てた。キィィンと硬質な音が響き、あとには傷一つ残っていない。


「この壁は破壊できない。やはり【符丁】のまじないを解くしかないのだ。だがそれは、広大な砂漠から一粒の砂金を探し出すようなもの。答えを導き出すには才能が必要だ。古代魔導リュロンド語を自在に読み解く、希少な才が――そう、君のようにね」

「だから僕を監視して、扉を開けるの待っていたと?」

「その通り」

「信じられないな」


 ノアが言った。


「もし本当にそうなら、僕を攫って無理やりにでも解かせるはずだ。なぜ待つ必要が? 僕がこの遺跡に興味を持つかすらわからないのに」

「それはあのお方・・・・のご意志だ。強制されては発揮されない類の才能だとおっしゃるのでね。だから自然に向くよう仕向けた」


 ノアの表情が曇る。


「仕向けた? 僕は僕の意志でここにいる」

「本当にそうかね?」


 イゴールがニタリと笑った。


「娘たちのためだろう?」

「……何が言いたい」

「奥方だよ。君が愛したエヴァは我々が用意した女だ」


 ノアは愕然とした表情を浮かべた。

 次第にそれが怒りへと変わる。


「ふざけたことを言うな! エヴァは僕を愛していた! それに彼女は由緒ある貴族家の出だ! 用意することなど――」

「――我々のシンパには貴族も多いのだよ。あの女の仕事は二つ。ひとつは監視だ。頻繁に親元に手紙を送っていただろう?」

「……っ」

「そしてもうひとつ。〝歪な子〟を産むことだ」

「なっ! ……なん、だと?」

「可能だよ。薬品にも通ずる魔女騎士ウィッチの君ならわかるはずだ。そうなるよう我々が仕組んだ。まあ早死にされても困るから、そこのさじ加減には苦労したがね」

「貴様……」

「産まれてしまえばあとは簡単だ。親元からの手紙で囁くのさ。このままではだめだ、魔導具なら、天才ノアなら……と繰り返しね」


 イゴールはそこまで話してから、「そうだ、これは言っておかねば」と手を叩いた。


「たしかにエヴァは君を愛していた。だから彼女を恨んではいけない」

「……どの口でそれを言うか」

「知らなかったのだよ、彼女は。頻繁な手紙のやり取りの中に君の動向を書くのは、親がそれを求めるから。〝歪な子〟を産むよう薬を飲まされていたことにも気づいていない。エヴァは純粋にカーシュリン家に嫁いできただけなんだ。……だが知らせておくべきだったかもしれない。まさか心を病んで逝ってしまうとは。実に、実に痛ましいことだ」


「ぐっ……!」


「はじめはこんな時間のかかる方法はどうかと思ったものだが……さすがはあのお方・・・・だ。たいした手間もかからず、待つだけで手に入れることができた。待つことも大事なのだな、うむ」


 そしてイゴールは、ノアに向かってにっこりと微笑みかけた。


「そんな顔をするな、ノア。たしかに我々は君を謀ったが、そのおかげで得たものもあろう。我々の仲間にならないか?」

「何をバカな……」

「君は旧時代のすべてが楽しくて、あっちこっちと浮気するタイプの研究者だ。我々が仕組まねば、君は蝶の遺跡だけに集中して研究することはなかった。この扉も開けられなかった。……感じないかね?」


 そう言ってイゴールは胸を膨らませ、大きく息を吸った。


「この空気だよ」

「空気?」

「君が開いた扉の奥は、あの日・・・からずっと密閉されていた。時を止めていたのだ」

あの日・・・……」

「君なら知っていよう。大厄災。文書によっては大破壊とも。〝旧時代〟が一日にして滅んだ日のことだ。……信じられるか!? 私たちは今、〝旧時代〟の空気を吸っているのだよ!」


 イゴールの言葉は、ノアは心を大きく揺さぶった。

 研究者として、今すぐ振り向いて、背後の部屋に飛び込みたい思いだった。

 ノアはぎゅっと目を閉じ、そして言った。


「君たちには協力できない」


 イゴールは、ふ、と笑った。


「そうか、残念だ。……だが、もう十分に協力してもらった。君はここまでだ」


 後ろの三人がイゴールの横に展開し、通路を塞ぐ。

 ノアが鋭く声を放つ。


「近づくな! 今すぐ立ち去れ!」

「まだ立場を理解していないか。君に主導権はない」


 三人は通路を塞いだまま、近づいてくる。


「命令だ! 立ち去れ!」


 イゴールがまた、ふ、と笑う。


「命令される筋合いはないな」


 するとノアは地面を指差し、

「この遺跡は南ランスロー領内にあり――」

 次いで自分の胸を指差した。


「――僕は南ランスロー領主だ。命令する権限がある」


 イゴールは額に手を当て、天井を見上げた。


「そうだった、忘れていたよ。私の悪い癖だ。どうでもいいことをつい、記憶から消し去ってしまう。つまらんことで反論の余地を与えてしまったなあ……」


 天井を見上げるイゴールの瞳だけが、ゆるりとノアを見下ろす。


「殺れ」


 途端、仮面の三人が石床を蹴った。

 ノアは背に隠していた蝶の本を、部屋の中へ思いきり放り投げた。

 次の瞬間、背後から頭部を殴られ、膝から崩れる。

 朦朧とする意識の中、背中から倒れながら、ノアは部屋に向かって両手を伸ばした。

 そして何事か言葉を発すると、遺跡全体を揺らしながら石壁が降りてきた。


「貴様ッ!」


 三人のうちの一人がダガーを抜いた。


「待てっ! 殺すな!」


 イゴールが止めるも、ダガーはノアの胸へ深々と突き立てられた。


「う……ぐ……」

(かっ、は……)


 冷たい死の感触が、ロザリーの胸を貫く。

 沈みゆく意識の中、イゴールの声が聞こえる。


「馬鹿者が! なんてことをしてくれる!」

「しかし、さっきは殺れと――」

「【符丁】だ! こやつ、自分で【符丁】のまじないをかけ直しおったのだ! 古代魔導リュロンド語を自在に使う魔女騎士ウィッチならば理論的には可能――クソッ! しくじった!」


 薄暗くなった視界が、何度も激しく揺らされる。


「死ぬな! 吐いて死ね! 合言葉を何とした!」

「おい! おいっ! 死んだのか!? ああ、畜生!!」

「……!」「……!」


 やがて彼らの声も途絶えた。


(アデル……アルマ……エヴァ……ノア……)


 ノアの魂は、無音の闇を落ちていった。

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