第87話 葬魔灯ノア―2
狭い寝室。
ベッドに女性が横たわり、窓の外を眺めている。
ノアはベッド横の椅子に腰かけ、その女性を見つめていた。
(ここは……)
ロザリーが窓に映る景色へ意識を向ける。
灰色の空と、領都イェルの町並みが見えた。
(領主の館。二階かな?)
女性が霞むような声で言う。
「冷えるはずね」
「うん?」
「ほら、雪が舞ってる」
「ああ、ほんとだ。冷えるはずだ」
「ええ」
「エヴァ」
ノアが名を呼ぶと、彼女はこちらを振り向いた。
彼女の顔を見て、ロザリーはドキリとした。
頬はこけ、目は落ち窪み、髪は安物の毛糸のように傷んでいる。
あれから何年が経ったのだろうか。
「少しは起きて身体を動かないと」
ノアの言葉を聞くと、エヴァはまた窓の外に顔を向けた。
「冬は嫌だわ。心まで冷え切ってくる」
「春になったら、涸れ谷の向こうの小川に行こう。前に四人で行ったろう?」
「
「そうそう。あのときアデルが自分のぶんのサンドイッチを小川に落として、それを拾おうとしてアルマまで――」
「――ノア。私ね?」
エヴァがこちらを向き、ノアの手を取った。
骨ばった、老婆のような手。
「この冬は越せない」
ノアは身体を硬直させた。
「エヴァ……頼む、そんなこと言わないでくれ……」
「悲しまないで。私は幸せだった。あなたに出会えたし、子宝にも恵まれた。それも、いっぺんに二人!」
「ああ!」
「あの子たちって
「うまくやってる」
「ええ。アデルはよく笑うから誰とでも打ち解けられる。泣き虫なアルマは、そんなアデルをうらやんでいたようだけど――」
「――涙のたびに強く、優しくなってる。じきにアルマにも言い負けなくなるだろうね」
「強くなってほしいと願い、そう育ててきた。でもあの子たち、自分たちで成長してる」
「しっかりしてるよ、まだ七歳なのにね。僕のほうが幼い気がしてくるよ」
「フフッ。ノア、それは気のせいじゃないわ」
「酷いな、エヴァ」
「でも――」
エヴァは笑顔を消し、天井を見上げた。
「――二人を分けてはやれない」
「!」
「いつか誰かを愛したとき。それぞれの道を歩もうとするとき。あの子たちは当たり前のことができない。させてやれない。私がそう産んでしまったから」
「違う! 君のせいじゃない! きっと僕のせいだ。僕は天性の変わり者だから――」
「私のせいでも、あなたのせいでも、あの子たちが特別なことは変わらない。……でも、魔道具なら変えられるかもしれないわ」
「……エヴァ?」
「あなた言ったわ。魔道具なら何だってできるって。あなたは王国一の魔導具研究者、ノア=カーシュリン。あなたならきっと、あの子たちを分けてやれる。そうでしょう?」
「いや、それは」
「あなた言ったわよね? 魔導具は可能性の海だって! あれは嘘だったの? 私を騙したの!?」
「エヴァ……」
「できるでしょう!? できるわよね!? ねえ! ねえっ! 答えなさいよ、ノアァァッ!!」
骨ばった手がノアの服を掴み、激しく揺らす。
痩せこけたエヴァの目玉だけが爛々と意思に満ちていて、不死者共よりも不気味だった。
ロザリーは体の自由が利くならば、すぐにその手を振り解き、逃げ出したかった。
そんなロザリーの怯えに応えるように、周囲が色を失った。
落ちるような感覚がロザリーを襲う。
灰色の空を映していた窓が暗く、沈んでいく。
ザ――。
雨。
墓石が並ぶ場所に、黒い服を着た人々が集っている。
(ここは……お墓?)
(イェルの霊園。お葬式か)
そこにロザリーが見たノアの墓はなく、真新しい墓石がぽつんと置かれている。
刻まれた名は、エヴァ=カーシュリン。
傘を差すノアの足元では、幼いアデルとアルマが彼のズボンにしがみついて泣いている。
ザ――。
参列者の囁きが聞こえる。
(あっという間に悪くなられて)
(どうして……まだお若いのに)
(あのお子たちでは、心を病むのも無理からぬというもの)
(お優しい方だから捨てられなかったのだろう)
(おかわいそうなのはノア様だよ。あんなお子だけ残されては再婚もできやしない)
ザ――。
ノアの表情は変わらないが、逆巻く感情がロザリーに伝わる。
(うるさい)
(黙れ)
(勝手なことをぬかすな)
(お前たちに何がわかる)
(囁きが、自分の感情が)
(うるさいうるさいうるさい!)
ザ――。
雨が激しくなった。
人は少しずつ散り去り、ノアと姉妹だけが残された。
雨音がノアの苛立ちを洗い流していく。
残されたのは冷えきった心だけ。
(いっそどこかへ消えてしまおうか)
脚に感じる、ぬくもりの元を見下ろした。
姉妹は泣き疲れ、虚ろな目で母の墓石を見つめている。
(……できないな)
ノアは姉妹を抱き上げ、妻の前から立ち去っていく。
雨の霊園が闇に包まれた。
エヴァの墓石だけが色づいていて、蔦が這い、古ぼけていく。
いつしか墓石は窓になり、そこに領主の館が映った。
ノアは机に向かい、研究に没頭していた。
ロザリーはその部屋に来たことがあった。
(館の書斎。ロブロイが目の色変えて調べ回ってた部屋だ)
魔導ランプの明かりが、片づいた室内を煌々と照らしている。
深夜のようで、窓の外は暗く静まり返っている。
背後から声がした。
「ノア様。少し休まれては」
ノアはわずかに視線を上げた。
窓に年老いたメイドが映っている。
「ああ、休む」
言葉とは裏腹に、ノアの手は止まらない。
「……ノア様。今日はアデル様、アルマ様のお誕生日で」
「あとにしろ」
しばらくはメイドの気配がしていたが、それもじきに消えた。
ノアの疲労感が増し、ロザリーに重くのしかかる。
だがノアの目と手は、休むことなく動き続ける。
やっと手が止まったのは、再び背後に気配を感じたときだった。
扉がキィッと軋み、ノアが窓に映った扉を見る。
扉はほんの少し開いていて、隙間から娘たちの四つの瞳が覗いている。
胸が裂けんばかりの感情が、ロザリーに流れ込んできた。
母を失った娘たちが自分を求めている。
自分に父親であることを求めている。
ノアは唇を震わせ、窓を凝視した。
そして、娘たちを無視した。
父親であることを拒絶し、研究者であることを選んだ。
ノアの頭には、妻の叫びがこびりついていた。
(可愛い娘が二人もいて、何の文句があるものか)
(ちょっと
(でもそれは僕の想いだ。あの子たちにとっては?)
(エヴァは正しい。極めて正しい)
(あの子たちが当たり前のことをできるよう、二人を分け離つのだ)
(恋をして、自立を望む日はすぐに来る。時間をかけてはいられない)
(僕の時間の全てを捧げよう)
(たとえ父と慕われなくなっても)
(二人が別々の人生を歩めるように)
(僕ならばできる。僕にしかできない)
父親でも研究者でもないロザリーには、およそ理解しがたいことだった。
すぐそこにいるのだから、駆け寄って抱きしめて、また研究に戻ればいいのにと思った。
同時に、ノアを縛り、突き動かすエヴァの叫びを、そら恐ろしく感じた。
(エヴァさんの言葉、まるで呪いみたいに……)
姉妹の姿が消え、やがて窓の外に日が昇った。
雲が恐るべき速さで流れ、太陽が沈んでいく。
また夜が明けると、もっと早く暗くなる。
間がどんどん詰まっていき、瞬きする間に昼夜が入れ替わるようになった。
季節さえも急速に移ろい、書斎の方々に本やノートや魔導具が雑然と積み上がっていく。
時の流れはさらに加速し、書斎は次第に闇に包まれていった。
窓だけを残して。
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